「姫の笑顔が見られて、よかった」
 エレイニオンは、シリオンの港の灯台に来ていた。
 灯台の下に置かれたベンチに、エルウィングと並んで座っている。
 エルウィングが、どうしてもエレイニオンにお礼をしたいからと、
スランドゥイルに頼んだのだ。二人だけで話をしたい、と。
「これ、ありがとうございます」
 桜貝の入った小瓶を、大事そうに握っている。
「こんなものでよければ」
 にっこりと笑うエレイニオンの表情は、紳士的だ。
「よかった。姫に嫌われていなくて」
「どうして私がエレイニオン様を嫌いになるの?」
 不思議そうに首を傾げるエルウィングは、かわいらしい。
純粋な少女らしい、愛らしい仕草。
「………ぼくは…」
 ノルドールだから。エレイニオンの言葉を、
エルウィングはそっと小さな手で止めた。
「スランドゥイルが、エレイニオン様のお話をしてくれるの。
優しい方だと。
はじめてここに来て、お顔を拝見した時、私、怖気づいてしまったから。
謝らないといけないと思って」
「あんな事があったのだから、仕方がないですよ。
でも、姫はそれを乗り越えた。お強い方だ」
 クスリ、とまたエルウィングは笑う。
「それでね、私、エレイニオン様にだけ、秘密を教えようと思ったの。
これはね、本当に、秘密よ」
 エルウィングは、エレイニオンに顔を寄せる。
息がかかるくらい顔を近づけ、胸元で握った手を、そっと、小さく、開いた。
「!!」
 その瞬間、エレイニオンの全身が、凍りついた。
「…エレイニオン様?」
 エレイニオンは、すぐにエルウィングの小さな手ごと、それを包み込む。
 それは、

 シルマリル

 禁断の、宝石。
「…姫、これは…」
「お母さまに託されたの。誰にも、見せてはいけない、って」
「このことを知っているのは?」
「オロフェアだけよ」
 エレイニオンは、目だけを動かして、周囲を見回す。
 離れたところにスランドゥイルは立っていて、
エルウィングとエレイニオンの会話を耳にしないように、遠くを眺めていた。
「スランドゥイルも知らないの」
 エルウィングの手を両手で包み込み、そこに額を寄せる。
「エレイニオン様は、これ、欲しい?」
「欲しくありません」
「どうして? これは、みんなが欲しがるものだから、
だから、絶対にナイショにしなければならないって、オロフェアにも言われているの。
エレイニオン様も、これが欲しい?」
「姫」
 体を離し、エレイニオンはエルウィングにそれをしまうように仕草する。
「ぼくは、宝石になど、興味はありませんよ。
そんな宝石などより、あなたの方が、ずっと輝いて美しい」
 まだ少し動揺しながら、なんとか笑んで見せる。
「それはぼくを誘惑などしないけど、でも、それは大切にしまっておいた方がいい。
オロフェア殿の言うとおり、誰にも見せてはいけませんよ。
姫が持っていることも、知られてはいけない。
スランドゥイルにも、言ってはいけませんよ。あれは心配性だから」
 エルウィングは、宝石を胸元にしまいこんだ。
「でも、くださるというのなら、ぼくは姫の唇の方がいいな」
 クスクスとエルウィングは笑う。
「エレイニオン様が欲しいのは、私ではないでしょう?」
 意味ありげに微笑んで、離れたところにいるスランドゥイルを見る。
そんな彼女の表情は、驚くほど大人びている。
 女というのは、怖いな。
 エレイニオンは苦笑した。
「スランドゥイル」
 エルウィングがその名を呼んで、手を振る。
スランドゥイルは振り向いて、歩いてきた。
「ねえ、スランドゥイル、エレイニオン様が、私にキスしたいって。
いいかしら?」
 スランドゥイルは困惑に顔をしかめる。
「では、代わりにきみにキスしよう」
 エレイニオンは素早くスランドゥイルの腕を引っ張って、その頬にキスをした。
スランドゥイルはそれだけで顔を赤くする。
「姫、今日は話ができてよかった。今度島の方にも来て下さい」
「ええ、必ず」
 エルウィングは、少女らしい愛らしい笑顔で応えた。

 エレイニオンが去った後、
エルウィングはスランドゥイルと並んで、丘の上の屋敷に向かって歩き出した。
「エレイニオン様、って、良い方ね」
「…そう、ですね」
「親切だし」
「ええ」
「信頼、できるわ」
「そうですね」
「怒ってるの?」
 エルウィングは立ち止まり、スランドゥイルの袖口を引っ張る。
「え?」
「キスされて」
 うっとスランドゥイルが口ごもる。
エルウィングはスランドゥイルの顔を覗き込んで、クスリと笑う。
「顔が赤いわ」
「エルウィング様…」
 怒るわけにもいかず、顔をしかめる。
「ごめんなさい、冗談よ」
 悪戯な少女らしい仕草で、くるりと回り、エルウィングは港を見下ろす。
「ここは、とてもきれいなところだわ。私、好きになった」
「…それは、よかった」
 苦笑するスランドゥイルの顔をちらりと見ながら、エルウィングは思う。
(スランドゥイルは、森の方が好きなのね)
 それは、口にしない。
 ほんのわずかな時間で、エルウィングは少女から大人へと変ろうとしていた。
 王の血を引く、思慮深き、大人の女性へ。



 毎年、夏至の日にはシリオンの港でも祭りが開かれた。
 いつしか、シンダールの者たちも、その祭りに加わるようになっていった。
 彼らがシリオンに来て、数年が経っていた。
 その年も夏至の祭りが開かれたが、キアダンとエレイニオンの姿はなかった。
 祭りの饗宴が過ぎた翌日。
 スランドゥイルは、夜明け前に目を覚ました。
 気配を察し、寝静まった屋敷を出る。
 高台になっている屋敷の外、オロフェアはひとり登り来る朝日を眺めていた。
「父上」
 普段から物静かで、言葉数の少ない男だ。考えている事を簡単に口に出したりはしない。
 足音を立てずに近付き、隣に立つ。
「…紅い陽が昇る」
「?」
 スランドゥイルには、いつもの朝日にしか見えない。首を傾げて父の顔を覗き込む。
「どこかで、多くの血が流されたのか…」
 オロフェアは、眉を寄せていた。
「父う……」
 その時、甲高い鳴き声と共に、黒い大きな影が頭上を横切った。
「?!」
 スランドゥイルは思わず身をかがめ、空を仰ぐ。
 オロフェアの目が見開かれる。
「父上、あれは…?!」
「大鷲の一族だ。ゴンドリンの見張り」
 一羽の大鷲が、真っ直ぐにバラール島に飛んでいく。
「ゴンドリンに、何かあったのか」
 オロフェアの静かな声に、スランドゥイルは身震いをした。



 それから間もなく、シンダールの他の者たちも、異様な気配に気がつきだした。
「スランドゥイル」
 エルウィングが不安そうな表情で、スランドゥイルに寄り添う。
「港が、騒がしいわ」
「見てまいります」
 エルウィングの手を、そっと離して、スランドゥイルは丘を駆け下りて行った。

 港は騒然としていた。
 大きな船が何隻も横付けされ、馬や荷物を運び込んでいる。
 
 ゴンドリンが、襲われた

 水夫の口々から、そんな言葉が漏れている。
 兵装した者達が、次々と船に乗り込んでいく。シリオンの河を、船で上るのだ。
 騒然とした中を、スランドゥイルは『彼』を探して歩き回った。
そして、『彼』はすぐに見つかった。
 真っ白い馬に、武具を着けて乗っている。
手には、青く輝く槍。アイグロス。
 険しい表情で指示を出すエレイニオンは、
若き勇敢な指導者で、気安く声をかけられるような存在ではない。
 スランドゥイルは歯を食いしばって、その姿を見上げる。
 胸の奥がざわざわする。スランドゥイルは、戦争を知らない。
知っているのは、あの虐殺の現場だけ。
スランドゥイルにとっての武器は、殺戮の道具であり、すなわち、死、そのものなのだ。
 それでも、
 鎧に身を包んだエレイニオンは、美しい。漆黒の髪が、星の光を放つ。
 そして、その武器。
 氷のように光り輝く槍。雪の切先、アイグロス。
 恐怖と賞賛が入り混じり、引き裂かれるような思いで、ただエレイニオンを見上げる。
 不意に、エレイニオンが振り向いた。
 スランドゥイルの姿に気付き、見下ろす。
 ほんの、一瞬。
 エレイニオンのその表情は、憂いでいた。
 彼の憂いの意味を、スランドゥイルは知る由もない。
 彼の黒い瞳は、哀しんでいるようにも見える。
 口を開きかけ、スランドゥイルは戸惑い、言葉を捜す。
 何を言えば良いのか?

 死ぬな、

 と、一言。
 その一言が、出てこない。
「エレイニオン!」
 背後からキアダンがその名を叫ぶ。
「出兵する」
 ほんの一秒、また、その何分の一か、
エレイニオンはスランドゥイルの瞳を見つめ、何も言わずに顔を背けた。

 河を上って行く船団を、無言で見送るしか、スランドゥイルにはできなかった。