港町シリオン。
 キアダン率いる海兵隊の本拠地でもある。
 この数年は、静かであった。
 フェアノール一族のドリアス侵攻を除いては。

 スランドゥイルは毎日のように港に下りてきた。
 高台にある屋敷を中心に、シンダールの難民たちは、集落を作っていた。
海に近いところに住まないのは、彼らが海の民ではないからだ。
 彼らの故郷ドリアスは、森の中にあった。
 シリオンに避難してから、ひっそりと静かに暮らしている。
彼らの傷は、まだ癒えない。
 まだ若いスランドゥイルは、頻繁に港に下り、珍しいものを探した。
 それは、傷心で伏せっている幼いエルウィング姫のため。
 姫のことを考え、積極的に行動することで、
自らの心と向き合うのを避けるため。
「こんにちは」
 船を港に着けていた水夫が、スランドゥイルに話しかけてきた。
顔見知りだ。以前、バラール島に行くのに、船に乗せてもらった事がある。
「スランドゥイルさん、お渡ししたいものがあります」
 水夫は、手のひらにすっぽり入るほどのガラスの小瓶を差し出した。
「………花弁?」
 受け取ったスランドゥイルは、小瓶の中を見つめる。
そこには、赤ん坊の爪くらいの大きさの、ピンク色の欠片が入っていた。
「桜貝ですよ」
 水夫はそう言って笑う。
「エレイニオン様が、姫に贈り物だと」
 小瓶を陽にかざすと、ピンク色の欠片は透き通って見える。
「桜貝…」
「ええ。バラール島の浜で見つけられます」
 さくらがい…小さく呟き、スランドゥイルは水夫に、小さく微笑んで見せた。
「エレイニオン様に、ありがとうございますと…お伝えください」

 スランドゥイルは、すぐに屋敷のエルウィングに小瓶を届けた。
 ベッドの上のエルウィングは、小瓶を受け取ると、珍しげにそれを見つめる。
「貝、なの?」
「ええ、貝、だそうです」
 スランドゥイルの手を借りて、エルウィングはベッドから降り、窓辺で小瓶を空にかざした。
「きれい」
 ピンク色の欠片。
 スランドゥイルはこの時、この幼い姫の決心を知る由もなかった。
 これは、花弁ではない。森には、もう帰れないのだ。
「スランドゥイル」
 小さい手で、エルウィングはしっかりとスランドゥイルの手を握った。
「あなたがいてくれて、よかった」

 姫が少しずつ笑うようになってきたことを、誰もが喜んだ。
もちろん、彼らの統率者であるオロフェアも。
息子が姫に付きっ切りで、姫のために奔走しているのを、よく知っている。
よくやっていると思う。
 目の前で母を殺され、己も傷ついているだろうに。
 だが決して、その事は口にしない。誰も、あの惨劇の事は口にしない。
 息子の、引きつるような無理矢理作ったような笑みを見るたび、オロフェアの胸も痛んだ。

 スランドゥイルは、また港に下りて行った。
「キアダン殿!」
 船着場で、銀色の髪をした、背の高い威厳ある男を見つけ、駆け寄る。
「おお、これはスランドゥイル殿」
 まだ、殿などと呼ばれる年齢ではない。
が、キアダンのその言葉は嫌味などでは決してなく、
生き残ったシンダールを率いるオロフェアの息子として、
敬意を表しての事なのだ。
 そのようなキアダンの細やかな気遣いに気がつくほど、
スランドゥイルは大人ではなかった。
キアダンは、スランドゥイルは、
エルウィングとたいして年齢が変らないのではないかと思っている。
それに、もともとオロフェアとて王族ではない。
スランドゥイルは貴族としての教育も、ましてや王族が当然受ける帝王学など、
受けてはいないのだろうと思う。
なりふりかまわない必死さが、それを物語っている。
「あの…」
 スランドゥイルは周囲を見回し、キアダンを見上げた。
「わたしは…エレイニオン様に、何か失礼な事をしたのでしょうか」
 一瞬首をひねった後、キアダンは失笑した。
「何故そう思うのだね?」
「…お姿を…見ないもので。
姫に桜貝をいただいたので、御礼をしたいのですが…わたしのような者が、
エレイニオン様に近付いてはいけなかったのでしょうか」
 本当に、この子は…。口に手を当てて、キアダンは笑う。
スランドゥイルは、眉を寄せて戸惑っている。
「違うのだよ、スランドゥイル殿。
シンダールの公子を、気安く呼び出してはいけないと、
わしがエレイニオンに注意したのだ」
「なぜですか?」
 じっと見つめてくるスランドゥイルの青い瞳を、キアダンは覗き込んだ。
 澄んだ空の色。
「………きみが、輝く太陽の色の髪と、澄み渡る空の色の瞳を持つのは、
何かの予言かも知れんな」
「?」
 ニッと笑って、キアダンは体を離した。
「しかし、きみが望むなら、いつでも島に来なさい。
歓迎しよう。桜貝など、いくらでも拾える」
 喜んで良いのか悪いのかわからず、スランドゥイルは曖昧な表情のままだった。

 キアダンはエルウィングの見舞いに、丘の上の屋敷を訪れた。
 エルウィングは、だいぶ元気になったとはいえ、
まだ余所の者の前では表情が引きつる。
それは、致し方のないことだ。
キアダンは、屋敷の外でオロフェアと話をすることにした。
「今日は、スランドゥイル殿のことでね」
「息子が何か失礼を?」
「いやいや」
 オロフェアは実に厳しい。もっと息子を評価してもいいだろうに。
「先日、強引に島に連れて行ったことをね、謝らねばと思ってね」
「とんでもない。あれはまだ躾ができていない故、
エレイニオン様に付きまとってご迷惑をおかけしました」
 ふむ、とキアダンはため息をつく。
「エレイニオンのことなのだが」
 間を置いて、オロフェアを見る。オロフェアは、遠慮がちにキアダンを見ている。
「今一度、確認しておきたい。
エレイニオンは、ドリアスの悲劇に何ら関わってはいない」
「存じております」
「オロフェア殿は、エレイニオンを嫌煙しておらぬか」
「私は………」
 言葉が止まる。
「……決して、そのような事は…」
 だが、よくは思っておらぬのだな。キアダンは察して、もういいと片手をあげる。
「スランドゥイル殿のことだが」
「殿などと、お呼びにならないでください。あれはまだ子供です」
 ふ、とキアダンは笑って、では、と、続ける。
「スランドゥイルは、よくやっている。一生懸命でね。
わしは、好きだよ。
ただ、疲れているのではないか、と思う。
子供ながらに、重荷を背負いすぎてはいまいか」
 オロフェアは、目を伏せる。
 わかっている。
 父として、それは痛感している。
「あれは………目の前で、母を殺されました。
悲しみにくれる暇もなく、姫を助け出すのに精一杯尽力を。
引きつった顔で、眠るのが怖い、と、言う。
しかし、私にはどうすることもできないのです。
私とて…息子の弱音を受け止めてしまえば、己の弱さを露見してしまう。
キアダン殿は、愚かとお思いでしょうが」
 この男とて、辛いのだ。
「どうであろう、オロフェア殿、今宵一晩、あの子を貸してはくれまいか」
 オロフェアは不思議そうに首を傾げた。
「バラール島は、ここより静かだ。
背負うべき者たちと離れれば、少しは心休まるかも知れぬ。
スランドゥイルはエレイニオンに好感を持っておるようだし」
 オロフェアは眉をしかめる。
スランドゥイルほど、あのノルドールの青年を信頼していないのだろう。
「父上」
 声をかけられ、振り向く。
いつからか、スランドゥイルは二人の後ろに立っていた。
その目は、父に懇願している。
 それで、少しでも息子の気が晴れるなら…。
 オロフェアは、その申し出を受けた。



 夕暮れ時に、船は出港した。
 すぐに夜の帳が降りる。
「なぜ、夜に航海を?」
 甲板で、スランドゥイルはキアダンに尋ねた。
「それはね」
 キアダンは夜空を見上げる。
 満天の星。
 スランドゥイルは、感嘆のため息を漏らす。
そのまま、いつまでも飽きることなく、星を眺め続けた。

 やがて船は島に着いた。
 港と呼ぶには質素な船着場に、その青年は立っていた。
「やあ」
 にっこりと微笑む。
 
 燦然と輝く星

 彼の、漆黒の髪と、星の光を宿した漆黒の瞳。
 夜空を見上げた時と同じため息が、スランドゥイルの唇から零れる。
「きみが来るとキアダンから聞いたので、待っていた」
 思わずスランドゥイルは跪き、頭を垂れる。
 エレイニオンは慌ててスランドゥイルの腕を掴んで、立たせた。
「キアダン、なぜ夜に連れて来たんだ」
「お前さんのためだよ」
 エレイニオンは肩をすくめる。
「すみません…エレイニオン様、王族の方に、わたしは失礼を…」
 目をあわせようとしないスランドゥイルの頬を、エレイニオンは両手で包む。
「ぼくに礼を尽くすつもりなら、ぼくを王族の者だとか呼ばないでくれるかな」
「しかし、それは…」
 
 夜の闇の下でこそ、エレイニオンの高貴な血筋は輝きを見せる。
 それは、逃れる事のできない、血族の標。

 困ったように、エレイニオンはキアダンを見る。
キアダンの目は、決して笑ってはいない。それは、エレイニオンに釘を刺す。
(あなたは、フィンゴン王の跡継ぎなのです)
 それを、忘れてはならない。
(わかっている。キアダン。いずれぼくは己の役割を果たす)
「スランドゥイル」
 エレイニオンは屈託のない笑みを見せた。
「よく来てくれたね。姫は元気になったかい?」
「はい、おかげさまで……」
「では、次はきみが元気になる番だ」
 エレイニオンはスランドゥイルの手を引いて歩き出した。 



 ぽつり、ぽつり、と話をしながら、島を巡る。
 やがて、空が白み始める。
 夜明け。
 白い砂浜を、並んで歩く。
 白く輝く陽の光が、空を青く澄んだ色に染めていく。
 空と同じ色の海が、白い泡を立てて打ち寄せる。
 海鳥の声がする。
 ここは、清純な世界。
 波打ち際をゆっくりと歩きながら、エレイニオンはスランドゥイルを見る。
彼の金色の髪は、朝日を浴びて、銀色に透ける。
 透明な青い瞳は、何を映しているのか。
 おもむろに立ち止まったエレイニオンは、かがみこんだ。スランドゥイルも足を止める。
「見つけた。桜貝だ」
 小さな、ピンク色の欠片。
 スランドゥイルも膝を落として、半透明な貝殻を見つめる。
「とてもきれいだが、それゆえ、とても繊細で壊れやすい」
 指先をこすり合わせると、それだけで桜貝は粉々に砕けた。
「今の、きみの心のようだ」
 スランドゥイルは、意味がわからないというように、首を傾げる。
 ゆっくりと浜辺を歩きながら、ひとつ、ふたつ、と、貝殻を拾う。
「手を出して」
 差し出された、スランドゥイルの白い手のひらに、貝殻を乗せる。
 みっつ、よっつ………
 やがて手のひらが、貝殻で埋まる。
 繊細な貝殻を潰さないように、そっと手のひらを重ねる。
 そして、
 ゆっくりと顔を近づけ、キスをする。
 触れるだけのキスの後、エレイニオンは笑って、自分の住まいへとスランドゥイルを導いた。
 部屋に入ると、ガラス瓶を探し出してきて、蓋を開ける。
そして、スランドゥイルの手のひらの貝殻を、ひとつずつ、丁寧にガラス瓶に落す。
「壊れやすいものなら、こうやってしまって、蓋をしてしまえばいい」
 蓋をしたガラス瓶を、スランドゥイルに手渡す。
「これでもう、貝殻は壊れない」
 辛い思い出を、無理に蒸し返す事はない。
 きれいなガラス瓶に押し込んで、どこか深いところに隠してしまえばいい。
「これでもう、きみは笑える」
「………エレイニオン様……」
 そっと抱擁してくる青年に、スランドゥイルは戸惑う。
「きみに、出会えて、嬉しい」
 ゆっくりと目を閉じ、スランドゥイルは抱擁を返した。