エレイニオンは、特別な用事でもない限り、
シリオンには足を運ばない事にしていた。
それは一応、自分なりの気遣いのつもりだ。
 あのシンダールたちとは、顔を合わせない。
 自分はドリアスの殺戮には無関係だが、
先方が不快に思う以上、
なるべく顔をあわせないようにするのが気遣いというものだ。
 オロフェアは時折キアダンと話し合いを持っていた。
それも、キアダンがシリオンに出向くのであって、
オロフェアがバラール島に来る事はない。
 
「少しは、落ち着いたかな?」
 エレイニオンは、目の前の少年を、しげしげと眺めながら訊ねてみた。
 ドリアスのシンダールたちはエレイニオンには近付かない。
オロフェアでさえ、避けている。それに対して憤慨はしない。
 ただ、この少年だけは例外だ。
 たぶん、
エレイニオンがキアダンと同じように
シリオンで権限を持っていることを察知したのだろう。
 オロフェアは全体を統括するに神経を注いでいる。
 だから、少年は単身、エレイニオンの元を訪れる。
 用件は、
「姫のために」
 それだけだ。
 姫のためにあれが必要だ、姫のためにあれを用意してあげたい、
姫のために……。
 ちょっと、おもしろいな、と思い、
必要なものがあれば何でも用意するので、島まで取りに来て欲しいと提案してみた。
すると、少年は躊躇なくやって来たのだ。
「姫は、少しは落ち着きを取り戻しましたか?」
 社交的に微笑んで見せる。
「おかげさまで、最近は少し食欲も出てまいりました。
ですので、できれば、何か楽器をお借りしたいのですが」
「きみが演奏を?」
「いいえ………私は何も奏でる事はできませんので」
 視線を落す。恥ずかしげに。クスリ、とエレイニオンは笑う。
「ぼくも楽器を演奏する事はできない。恥じる事はないよ。
フルートとハープでも用意しよう」
 フルートか。
トゥアゴン叔父の側近であるエクセリオンが、フルートの名士であったな。
そんなことをふと思い出す。
「きみはぼくを恐れないんだね」
「恐れる?」
 エレイニオンは、自分の髪をひとふさ、摘み上げて見せる。
少年は眉を寄せ、唇を噛んだ。
「………ごめん、気を悪くしないでくれ。そういう意味ではなく」
 手を伸ばし、少年の髪に触れる。
「きみはきれいな髪をしているね。お父上とは似ていないみたいだけど」
「母譲りです」
「お母上は?」
 また、少年が口を閉ざす。
 難しいな、と、エレイニオンは思う。
「きみ」
 少年の唇に触れ、顔を寄せて瞳を覗き込む。
「きみがもっとぼくに心を許してくれたら、
ぼくはもっときみの力になれると思うのだけど」
 軽くキスをして、微笑んで見せる。
「きみが、姫のために必要だと思うものを、なんでも揃えてあげるよ」
 


 拒絶されたら、止めるつもりでいた。
 べつに、それほど強い欲求でもなかったし。
 ちょっと、からかってみたかっただけ。
 なのに、少年は最後まで拒絶しなかった。
 ベッドに誘った時も、
 押し倒してキスをしたときも、
 青い瞳で、じっと見つめていただけ。
 無抵抗だが、無感動の相手に萎えるほど大人ではない。
 エレイニオンは思う。ぼくはまだ、大人ではない。

「はじめてだったんだ? なんで言わないんだい?」
 もちろん、優しくしたつもりだ。
誰にでもそうするように、誰にでも優しく、親切に、柔らかな態度で。
女の子を抱く時も、決して乱暴にしてはいけないよ、
と、以前キアダンに釘を刺されたことがある。
 もちろん、誰にだって優しくしてきた。
 自分の心にベールをかぶせて。
「……言ったら、やめたんですか…」
 少年の、青い瞳がエレイニオンの心を刺す。
「殺さないでと懇願したら、殺さなかった?」
「!」
 まずい!
 瞬時に、エレイニオンの心が、警告を発する。
 スランドゥイルの瞳が、光を失う。
「殺さないで……助けて……もう…」
 唇から、悲鳴があがる。
 とっさに抱きしめると、その情景が、否応無しに流れ込んできた。

  血に染まる王宮。
  美しい女性が、階段を駆け下りてくる。腕に幼い少女を抱え、必死の形相で。
  幾人もの従者の中に、スランドゥイルの母の姿がある。
  追いかけてくる、男たち。
  王妃ニムロスをかばい、ばさばさと従者たちが切り殺されていく。
  スランドゥイルは叫びながら、駆け寄る。
  王妃は、いっぱいに腕を伸ばし、少女をスランドゥイルに託す。
  その瞬間の隙を守るように、母が切られ、崩れる。
  少女を抱いたスランドゥイルは、王妃の叫びを聞く。
  「行って!! 行きなさい!!」
  とっさにできたのは、少女の目を手で覆い、王妃の胸に突きたてられた剣から守る事。
  阿鼻叫喚の地獄を、必死で駆ける。
  「スランドゥイル!」
  一陣の風が隣を駆け抜け、追いかけてきた男を切る。
  「父上!」
  「このまま王宮を出ろ!」
  「ディオル様は……?」
  オロフェアは、首を横に振った。
  陥落する。
  ドリアスが。
  一度は、再建された国が。
  落ちる。
同族の手によって。

 落とされる。

 痩せ細ったスランドィル少年の体をかき抱き、
エレイニオンは天を仰いで祈りを口にする。
 眠りを…
 哀れな魂に、安らかな眠りを…
「エレイニオン?」
 悲鳴を聞きつけたキアダンが、寝室に足を踏み入れ、息を呑んだ。
 青ざめた少年を膝に抱き、エレイニオンは涙で濡れた瞳をキアダンに向けた。
「キアダン………」
 そしてそのまま、
 エレイニオンも崩れた。



「なんで、こんな馬鹿なことをしたんだね?」
 正気に戻ったエレイニオンに、キアダンは気付けの強いワインを差し出した。
 スランドゥイルはまだ眠っている。
「情交の相手なら、いくらでもおるであろう?」
 叱られて、エレイニオンはずっと肩をすくめている。
「エレイニオン?」
 小さくため息をついて、キアダンを見上げる。
「怒っているのではない。心配しているのだ。
彼らの傷は深く、お前さんは癒す術を持たない。
同情はするが、何もしてられないのだよ、実際は」
 エレイニオンは振り向き、眠る少年を見て、視線をキアダンに戻す。
「何も、できない?」
「わしにも、お前さんにも、フェアノール一族を罰する事はできん。
忠告しておくよ、エレイニオン、あの子に執着するのはやめなさい。
わしだって気付いていたよ。あの子が心を閉ざしていることくらい。
その扉を開けてはならないのだ。
それはね、お前さんが自分を偽っても、
フィンゴン王の跡継ぎという大役を果たさなければならないのと、同じだ。
お前さんがあの子の心に引きずられたのは、
お前さんも自分の心を閉ざしているからだ」
 グラスのワインを一気にあおり、エレイニオンは苦笑して見せた。
「ぼくは、自分を偽ってなどいない」
「ならば、これから自分を偽らなければならなくなる」
「トゥアゴン叔父のゴンドリンが健在である限り、ぼくが王位を継ぐことはない」
「それを判断するのは、わしではない」
 ぐっと押し黙る。
 キアダンは、エレイニオンのグラスにワインを注いだ。
「どちらにせよ、エレイニオン、わしはお前さんの味方だ」
 ワインを、一口、二口、口に運ぶ。
「キアダン…」
「なんだね?」
 エレイニオンはくるりと体の向きを変え、
テーブルに寄りかかってベッドの上の少年を眺めた。
「偉大な父を持つというのは、辛いね。
自分も強くあらねばならないと、自分に障壁を課す。
せめて、一度くらい泣ければ、笑えるようになると思うのだけど」
「お前さんは泣いたかい?」
「泣いたさ。ひとりこっそりと。で、酒も飲むし、女とも遊ぶようになった」
 キアダンは苦笑する。
 いけないよ、エレイニオン。
 言葉にしないキアダンの言葉が、胸に響く。
 スランドゥイルを好きになってはいけない。
 何も気付かないふりをして、エレイニオンはワインを飲み干した。



 幸運にも、スランドゥイル少年は、何も覚えていないようだった。
エレイニオンが悪戯にベッドに誘い、キスをしたところで、
記憶が途切れているのだ。
「疲れているのだよ。姫の事も大切だが、きみも休まないと」
 スランドゥイルを目覚めさせたのはキアダンで、
たぶん、スランドゥイルの記憶を閉じ込めたのもキアダンだ。
「ごめんよ。きみを困らせるつもりはなかったんだ」
 エレイニオンは顔をゆがめて謝った。
「おわびに、貝殻をあげよう。
海の底で拾ったもので、姫のおもちゃになればよいが」
 部屋に飾ってあった、きらきら輝く虹色の貝殻をスランドゥイルに手渡す。
「…ありがとうございます」
「姫の笑顔を取り戻したかったら、まずきみが笑わないと」
 エレイニオンの言葉に、スランドゥイルは眉を寄せる。
「エレイニオン、彼を困らせてはいけない。シリオンまで送ろう」
 キアダンはスランドゥイルの肩に手を置き、部屋を出て行った。
後をついていくスランドゥイルは、一度エレイニオンに振り返り、
ほんの少しだけ、唇に笑みをつくった。