サウロンの肉体は滅したが、一つの指輪はイシルドゥアによって持ち去られた。
 エルロンドは、友として信頼していたイシルドゥアを、導く事も、切り捨てる事も、できなかった。
 それでも、
 サウロンは滅したのだ。
 七年という、長き年月の果てに。



 イシルドゥアと別れ、急ぎ戻ったエルロンドに、キアダンは静かに首を横に振った。
奥歯を噛みしめ、歪んだ表情でエルロンドは跪く。
「……王、ギル=ガラド王……」
 横たわったまま動かないギル=ガラドの手を、エルロンドは握った。
(指輪を…………葬る事はできませんでした。イシルドゥアが…)
(よい、エルロンド。友を憎むな。信頼し、見守り、必要ならば手を貸すのだ)
(……はい)
「……私は去る。これからは、お前の時代だ。ヴィルヤは、お前のものだ」
 小さく、ギル=ガラドが息を吐く。
「エレイニオン……お前さんのために、西へ行く船を作りたかったよ」
 キアダンは哀しく微笑んだ。
「……懐かしい名だ……」
(ああ、ぼくは、やっとエレイニオンに戻れる
エルロンド、ぼくを、憎んでいるかい。きみから愛を取り上げてしまったぼくを)
(いいえ、ギル=ガラド王、エレイニオン様、私は、
マエズロスから、マグロールから、あなたから、充分な愛を受けました。
私が望んで選んだ道です。
私の、あなたへの愛は、あなたの守ったこのミドルアースを、私の全てをかけて守ることです。
あなたの意思を、あなたの愛を、私が継ぎます)
(…………ありがとう…)
「さらばだ、エルロンド。
 さらば、キアダン」
 エルロンドは身を屈め、そっとギル=ガラドの唇に口づけた。
 最後の吐息を、心に取り込むため。
「さようなら、我が王」





 スランドゥイルは、ふと空を見上げた。
 澄みわたった空が、どこまでも青い。
 心地よい風が吹き、湿った海風が頬を撫でる。
 見下ろすと、白い砂浜に、裸足で立っている。その足を、白い泡を立てた透明な波が濡らしている。
「エレイニオン!」
 心の底から叫ぶ。
 愛しさが溢れて、切ない。
「ここだよ、スランドゥイル」
 目の前の波打ち際で、水夫のように髪を結い上げ、動きやすい簡素な薄絹を身につけたエレイニオンが、
波に反射する陽の光のように笑う。
「エレイニオン!」
 パシャパシャと水音を立てて走り寄る。
「ここにいたの? ずっと、ここに?」
「そうだよ。だって、ここだけが、ぼくがぼくでいられた場所だから」
 エレイニオンは立ち上がり、悪戯が成功した時のように無邪気に笑い、スランドゥイルの蒼い瞳を見つめた。
「でも、もう行くよ」
 すっと後ろに下がる。スランドゥイルは一歩踏み出し、手を伸ばす。
「待って、エレイニオン!」
「きみと、出会えてよかったよ。きみを、愛してた」 
「わたしも! あなたと出会えてよかった! あなたを愛している!」
 エレイニオンが手を伸ばす。スランドゥイルはその指先に触れる。
エレイニオンの指に乗っているのは、ピンク色の小さな貝殻。
「あなたの守ったこのミドルアースで、わたしは生きる! 
あなたを愛しているから! あなたのことは、忘れない!」
「違うよ、スランドゥイル。きみは、ぼくを忘れるんだ。忘れなきゃいけない。
そして、幸せになるんだよ。ぼくも、オロフェア殿も、きみの幸せを願っている。
それが、希望なんだ。約束だよ、ぼくを忘れて、幸せになるって」
「エレイニオン」
「さようなら、スランドゥイル」
 エレイニオンの指先を握る。そのスランドゥイルの手を、エレイニオンはするりと抜け出した。
「ありがとう、エレイニオン」
 


「スランドゥイル様!」
 耳元で叫ぶ声に、はっとスランドゥイルは目を開けた。
「ああ、よかった…突然倒れられたので心配しました」
 見回すと、血と泥で汚れた森の兵士達が疲れた表情で取り囲んでいる。
 サウロンが滅んだのを確認し、ゴブリンの残党を仕留め、撤退を指示する所だった。
 終ったのだ。
 長き戦いが。
 多くの犠牲の上で、
 終ったのだ。
 スランドゥイルは、握り締めていた手のひらを、そっと開いた。
涙のようなピンク色の淡い光の残像が、一瞬だけ輝いて消える。
「………終った…」
 無意識に呟いた己の一言に、堰を切ったように涙が溢れる。
強く握った拳で汚れた地面を叩き、嗚咽を漏らしながら泣き続ける。
 終った…終った!
 だがもう、頼れる者はいない。
どんなに辛く哀しくても、優しく抱きしめてくれる者はいない。
優しく微笑みかけてくれる者はいない。
助言を与えてくれる者はいない。
心の拠所となる者はいない。
手を差し伸べてくれる者はいない。
愛している者はいない。
「………!!」
 拳を地面に叩きつけ、思いの全てを吐き出すと、スランドゥイルは立ち上がり、生き残った者たちを見た。
「終った! 終ったのだ! 我が兄弟! 我らが失ったものは多く、愛するものは戻らない。
だが、彼らが命をかけて守った、一番大切なものを忘れてはならない! 
それは、我らが森、我らが故郷! 愛する者たちが命をかけて守った我らの森に、いざ帰らん!! 
我らの故郷に!!」
 歓声が上がる。どこからともなく、スランドゥイル王、との声が上がり、いつしか大合唱になる。
「オロフェアの意思を継ぎ、我が王となる! いざ帰らん!! 我らが故郷に!!」
 スランドゥイルの言葉は、三分の一にまで減ってしまった兵たち、
王を失い失意のどん底にいる兵たちの胸に、一筋の希望の光を与えた。

 スランドゥイルは、天を仰いだ。
 いつしか、青い空が戻っていた。