モルゴスは去ったが、
 その遺志を継ぐものは残された。
 そして、時を待たずして、
 それは新たな恐怖となっていった。



 もし、己が生まれ出た意味を問うなら、今がまさにそれなのだ。
第一紀が終わり、リンドンにエルロンドと移り住んでからのギル=ガラドに、
心の平穏など存在しなかった。
 父は、ずっとそのように生きたのだろう。
敵に目を光らせ、戦いの準備を怠らず、
ミドルアースに住むエルフ、人間、ドワーフとの同盟と協調に神経をすり減らす。
 そこに、決して安らぎなどない。これは宿命であり、これが己の生まれ出た意味なのだ。

「緑森大森林のシンダールの国とは、同盟を結ばないのですか」
 ギル=ガラドの右腕であり側近であり最も信頼するブレーンであるエルロンドは、
あらゆる方面のエルフ達と話し合いを持ち、同盟を結び、
いずれやってくる決戦の準備を進めるギル=ガラドに、当然の疑問を投げかけた。
 東の大森林に住まうシンダールの王国は、無視できないほどに大きなものであるらしい。
ただし、彼らは他のエルフ、人間、ドワーフなどと一切交流を持たないので、その真相は定かではないが。
 ギル=ガラドに至っては、使者を送ろうともしない。
(幾度か内密に斥候を送って、その周囲を探った事はあるが)
「あれは、シンダールの国などではない」
 ギル=ガラドは、不快なものを見るように、わずかに眉を寄せる。
「粗野なシルヴァンの集落に、ほんの一握りのシンダールの生残りが混ざっているに過ぎない」
「しかし、その規模は大きなものと」
「戦いから逃げ、サウロンから隠れ住むだけの奴らには、何の価値もない」
 常に寛大であり続けるギル=ガラドは、なぜか緑森のシンダールたちにだけは嫌悪を示す。
「奴らの事は放っておけ」
 ギル=ガラドの真意を、エルロンドは計り知れない。何故そこまで彼らを嫌うのか。
エルロンドは、一度キアダンに伺いを立てたことがあった。
キアダンは哀しげに微笑み、首を横に振るだけだった。
 エルロンドは勉強家で、歴史についても詳しく学んでいる。
シンダールとノルドールの確執も学んだし、己の家系についても知っている。
「エルロンド、幼き頃の事を、覚えているか」
 一度だけ、ギル=ガラドに訊ねられた事があるが、エルロンドは否の返事をするしかなかった。
マグロールたちに育てられる以前の記憶は、ない。たぶん、それは自ら施した封印だ。
マエズロスやマグロールを愛し、ノルドールとして生きる自分を否定しないために。
母に焦がれて悲しみに溺れないために。
「ギル=ガラド王は、私の幼少の頃を知っておいでなのですね」
「知っている。だが、思い出す必要はない。今のお前に必要な事など、ない」
 以来、二度とギル=ガラドはその事に触れなかった。



 最終決戦の準備が進められる中、
ギル=ガラドはエルロンドの統治するイムラドリスにて作戦会議を行っていた。
「幾度か緑森に使者を送ったのですが、全て拒絶され、追い返されました」
 会議の後、谷を見下ろせるポーチでエルロンドはギル=ガラドと向かい合って座った。
「……ここは、よい風が吹く」
 月明かりの下、ギル=ガラドは谷を眺め渡している。
「王?」
「ずっと海の側に住んでいるが、このような山間も悪くない」
「ギル=ガラド王、お気に召されたのであれば、ずっとここにいてもよろしいのです。
むしろ、私はその方がありがたいのですが」
 マエズロスやマグロールを愛していたように、この王も、エルロンドは愛している。
マエズロスたちも、そして、ギル=ガラドも、
決して言葉にはしない何か、重く哀しい何かを抱え込んでいる。
それが、ノルドールの抱える罪である事は、エルロンドは歴史から学んでいるが、
歴史上の事実以上の何かが、あるのだろう。
「王、緑森との同盟を強く提案致します。王がおっしゃる以上に、彼らの戦闘能力は高い。
現に、緑森周辺はシルヴァンの兵により強固なまでに守られており、
ゴブリンどもも容易に近付いたりは致しません。
そして、彼らもまた、同じ脅威にさらされているのです。
これまで幾度か使者を送りましたが、話し合いには至りませんでした。
かくなる上は、私自ら交渉に向かおうかと思っております」
 谷を眺めていたギル=ガラドは、エルロンドに目を向けないまま、眉をひそめる。
「ギル=ガラド王がそれほどまでに彼らを毛嫌いする理由がおありなら、
ぜひ教えてはいただけませんか」
「嫌っているのは、私ではない。そうだな、エルロンド、教えておこう。
彼らを裏切ったのは、私の方だ。お前の母を、守れなかった」
 鋭い針で胸を刺されたように、エルロンドは息を飲む。
 エルロンドは、血筋的には、シンダールの王族でもあるのだから、
国をなくし王をなくした彼らに、王の血を引く子を託す事もできたのに、それさえも奪った。
何もかも、彼らの希望である全てを、奪ったのだ。
「それは、王の責任ではありません」
 エルロンドが言葉を搾り出す。
「私が、選んだのです。そしてたぶん、私の母も」
 そうすることを、選んだのだ。
 そんな言葉も、どんな言葉も、ギル=ガラドの心を癒す事はないのか。
「ギル=ガラド王もご存知のはずです。私は、自ら選び、望んでここにおります。あなたのお側に」
 マエズロスもマグロールも愛していた。それは偽りではない。同じように、あなたの事も……
 エルロンドの言葉を遮るようにギル=ガラドは立ち上がった。
「オロフェア王に書状を書こう。ただし、持って行くのはお前ではない、エルロンド。
キアダンの部下に持たせる。
キアダンはテルリであり、ファラスリムはシンダールと確執を持ってはおらぬ。
キアダンの友であれば、オロフェアも耳を貸そう」
 ギル=ガラドは書斎に下りて行った。