エルウィングは、ふるふると震えながらその書状を開いた。
 唇は青ざめ、戦慄く。
 自分がどうするべきなのか、わかっている。
 せめて、
 愛する夫がここにいてくれたら。
 否、
 いなくてよかった。
 自分の決心を、夫は反対するだろう。
 これは、
「わたしに課せられた業なのだから」
 書状を、暖炉に投げ入れる。
「お母さまー!」
 子ども達が家に駆け込んでくる。いっぱいの笑みで。
 エルウィングは、子ども達に微笑みかけた。



 その知らせは、エレイニオンの元にも届けられた。
「エレイニオン?」
 キアダンの問いかけにも応えない。ただじっと、指を組んで、窓の外の海を見つめている。
 もうずっとそうしてから、エレイニオンはゆっくりとキアダンを見上げた。
「私は、父の親友を、止められるだろうか」
 キアダンは、ごくりと息を飲む。唇を結び、エレイニオンを見つめ返す。
エレイニオンはそれ以上何も言わず、窓の外に視線を戻した。



(きみは、立派な武人になるだろう)
 一度だけ、会ったことがあるその男は、左手をエレイニオンの頭に載せて笑った。
 精悍な顔立ち。目を惹きつける赤い髪。彼は、右手首から先がない。
 武人として、憧れる存在だ。
(いつか、きみの手を貸してもらうときが来よう)
 いつか、
 あなたと共に戦場に立ちたい。
 今でも、そう思う。
 それは、己の、父への憧れとも重なる。
 同じ戦場に立ち、同じ敵と戦いたい。
 高貴なフィンウェの家系として。



 血の誓約



 オロフェアの一行は、ゆっくりとしたペースで東に向かっていた。
 モルゴスの目から逃れながら、必要ならいつでも戦う準備をしながら。
 その先に、本当に希望があるのだろうか。それは、誰も口に出さない。
 口に出さない決心を抱えて、一行は進んだ。
 シリオンを出発して数日が経った頃、
 早馬が一行を追いかけてきた。
「オロフェア殿!」
 シリオンに残った同胞の一人だ。オロフェアが進み出、スランドゥイルは興奮する馬をなだめた。
「シリオンが!」
 髪を振り乱し、青ざめ、その男は震えていた。
「ノルドールが攻めてきます!」
 オロフェアは眉を寄せる。
「エルウィング様は知らせるなと…でも…」
 拳を握り締め、沈痛な面持ちでオロフェアは黙り込む。
「どういうこと…ですか?」
 スランドゥイルは目を見開き、息を荒げてその男を、父を、見る。
「距離は」
「一日足らず…かと思われます」
「今から戻っても、間に合わない」
「分かっております。エルウィング様は…」
「そなたも、ここに居なさい」
 早馬で来た男は、がっくりと膝をついた。
「父上?」 
 スランドゥイルの言葉に、オロフェアは応えない。
「父上!」
「エルウィング様は、シルマリルを持っている」
 オロフェアの言葉に、スランドゥイルの表情が凍りつく。
「助けに…行かないと…」
「間に合わない」
「行かないと」
 うわ言のように繰り返し、スランドゥイルはひらりと早馬にまたがった。
「行ってはならない」
 オロフェアが一歩踏み出す。
「行くな! スランドゥイル!」
 一度だけ父を振り返り、スランドゥイルはシリオンに向けて馬を駆った。



 直前まで、エレイニオンはマエズロスを信じたかった。
 その知らせが来たときも、ぎりぎりで思いとどまってくれる事を祈っていた。
 だが祈りはむなしく、次にエレイニオンのもたらされた知らせは、

 シリオンの、ノルドールによる急襲だった。

 すぐに船を出し、キアダンとシリオンの救援に向かう。
 そして、シリオンに着いたエレイニオンが見たのは、想像以上の惨劇だった。
「!」
 悲惨な戦場なら見てきた。
 同胞達の亡骸も。
 だが、この惨劇は違う。
 エルフがエルフを襲う。戦慄が走る。
 シリオンのノルドールの大半は、マエズロスたちに抵抗していた。
ノルドールとノルドールが戦っているのだ。
 エルウィングを守ろうとするシンダールたちが、次々と倒れていく。
 そして、エレイニオンの目の前で、それは起こった。
 岸壁に追い詰められたエルウィングと、彼女に対峙するマエズロス。
そのすぐ後ろでは、マグロールが彼女の双子の息子、エルロンドとエルロスを抱えていた。
人質にとる、というよりは、幼い子どもを守るように。
「頼む………シルマリルを、わたしてくれ」
 左手に剣を持ったままのマエズロスが、疲れ、悲痛な声を出す。
「もう………終わりにしたいのだ」
 胸の前で祈るように両手を握り締めるエルウィングは、
泣き濡れた瞳で息子達を見、そして自分に迫るマエズロスを見た。
「………ええ、終わりに、しましょう」
 次の瞬間、
 シルマリルを胸に抱いたまま、エルウィングは海に身を投げた。
「!!!」
 とっさにマエズロスは剣を地に付き立て、エルウィングに駆け寄ろうとする。
彼女の腕を掴もうと、左手を伸ばす。
「………」
 そして、マエズロスが最後に見たのは、エルウィングの慈愛の微笑だった。
 エレイニオンは立ち尽くして何もできず、一瞬遅れてその場にたどり着いたキアダンは、
「ウルモ!」
 ヴァラールの名を叫び、祈りと懇願の歌を歌う。
キアダンの歌を聴くのは、エレイニオンは初めてであった。
そのキアダンの祈りに応えるように、海が大きくせり上がっていく。
そして、山ほどの大きさの男がそこから現れ、海から何かを掬い上げ、天に掲げた。
 その手のひらから、一羽の白鳥が飛び立つ。
 きらきらと輝く白鳥は、西に向かって羽ばたいた。
 そして、ウルモは静かにまた海に消えていった。
 エレイニオンは、ヴァラールの姿を見たのは、初めてであった。
だが、感動している余裕もない。すぐにマエズロスに視線を移す。
マエズロスは、呆然と空を見ていた。その頬を、涙が伝う。
「マエズロス殿…」
 エレイニオンは、苦しげに口を開く。
「…子どもたちを…返してください」
 振り向いたマエズロスの表情は、あまりに痛々しくて、エレイニオンの胸を締め付けた。
「………エレイニオン…?」
「今は…ギル=ガラドです。お願いです、子どもたちを………」
「ああ、立派になった」
 笑おうとするのか、顔が歪み、ぼたぼたと止め処なく涙が落ちる。

 ああ、父よ、あなたは、あの時、マエズロスを死なせてやるべきだった。
 サンゴロドリムの絶壁で。
 血の誓約に縛られ、良心を自らずたずたに引き裂き、
救われることのない心の苦痛に血の涙を流すくらいなら、
 たとえモルゴスに敗北しようと、
 友情の名の下に、殺してやるべきだったのだ。

「マエズロス…殿…」
 肩で息をしながらマエズロスは後ずさり、弟マグロールの腕からエルロンドを抱き取る。
子どもたちは、気を失っているようだった。
「許してくれ…エレイニオン………ギル=ガラド…許して…」
 止まりそうな息を、エレイニオンは短く何度も吐き出す。
「この子達を………愛させてくれ……」
 
(愛してる)

 そのたった一言が、
 心を救う。

 エレイニオンは、そこに贖罪を見た。

 救われることのないマエズロスの暗闇に、
 もしほんの小さな許しという希望があるのだとしたら、
 それは、
 愛、
 だ。

 そうだろう、父よ。
 ぼくは、
 マエズロスに許しを与える。
 父上、
 あなたもきっと、
 そうしただろう………

 それは、

 それが、ぼくの罪になろうと

 エレイニオンは、小さく頷いた。
 マエズロスはエルロンドを愛しげに抱きしめると、マグロールとエルロスと共に、去っていった。



 これで、よかったのだろうか。
 エレイニオンは港に戻った。そこはまだ、惨劇の後が生々しく残っている。
襲ってきたマエズロスの弟達、アムロドとアムラスも戦死した。そこに、勝者はいない。
 エレイニオンは敵味方の区別なく、負傷者の手当てや死者の弔いを指示した。
 
「エレイニオン!」
 その声に、エレイニオンは心臓が止まるほど驚いた。
早馬に乗ったスランドゥイルが、息を切らせて港に立っている。
 なぜ…
 何故?! 
 エレイニオンの頭の中には、何故という言葉だけが渦巻いて、何も考えられない。
 スランドゥイルは、その惨状を、再び目にした。

 ああ、
 壊れる

 エレイニオンは、
 スランドゥイルの心を守っていたガラスの砦が、粉々に砕け散る音を聞いた。

 同胞達の悲惨な死。
 たった一つの宝石のために、流された血。
 
 スランドゥイルの体が、ぐらりと馬上で揺らぎ、どさり、と落ちた。
「スランドゥイル!」
 エレイニオンが駆け寄る。助け起こそうとすると、スランドゥイルはその手を拒んだ。
「………エルウィングさま…は…?」
 苦痛に顔をゆがめながら、スランドゥイルが問う。
「…………」
 知らせるべきか、迷う。が、嘘はつけない。
「海に………」
 ガバッと起き上がったスランドゥイルは、海の方に身を乗り出す。
その腕を掴んで、エレイニオンは引き止めた。
「大丈夫だ! ウルモが現れて、エルウィングを救った。
彼女は白鳥に姿を変えて飛び去った。無事だ」
 スランドゥイルはエレイニオンを凝視する。疑ってはいない。ただ、
「こどもたち………は?」
 安否を気遣うのは、一人ではないのだ。
「子どもたちは、どこだ?!」
 エレイニオンの肩を掴む。エレイニオンは口ごもる。
「エルロンドとエルロスは?!!」
 口を開くが言葉にならず、一度息を飲んでから、エレイニオンは言葉を出した。
「…いない…」
「いない?! まさか…!」
「無事だ。それだけは保障する。子どもたちの身の安全は保障されている」
 言葉の意味がわからず苛つくスランドゥイルに、できるだけ平静を保ち、ゆっくりと話す。
「マエズロスが、子どもたちを保護した」
 スランドゥイルの肩に触れようとするエレイニオンの手を払いのけ、スランドゥイルが立ち上がる。 
「奴は、どこに行った?」
「エルロンドとエルロスは無事だ」
「無事なものか! 今すぐ助けなければ! 奴はどこに行った?!」
「言えない」
怒りの形相のスランドゥイルが、エレイニオンの胸座を掴む。
「幼きエルレード様とエルリーン様が、奴らに何をされたのか! 知っているはずだ!」
 エルウィングの兄、エルレードとエルリーンは、
マエズロスたちによって連れ去られ、どこかに置き去りにされ、
ついに見つけることができなかった。
「エルロンドとエルロスは、ぼくがマエズロスに預けた。危険はない!」
 スランドゥイルの目が見開かれ、ぎりぎりと歯軋りをする。怒り、憤り、悔しさ、悲しみ…。
どうしようもない負の感情に、蒼い瞳が潤む。
「それが………貴様らのやり方、か……ノルドール」
「ノルドールの王としての、私の判断だ。従ってもらう」
 エレイニオンを掴む手を、スランドゥイルはゆっくりと開き、よろめくようにあとずさる。
「スラ………」
「わかった」
 食いしばった歯の間から、呻くように答える。
「わかった、ノルドールの王。今この時より先、未来永劫、私は貴様らノルドールには従わない。
貴様らを一切信用せず、いかなる指示命令も私を動かす事はない。
ギル=ガラド王、私は貴様を許さない」
 
 壊れる。
 音を立てて、崩れていく。
 だがそれを、
 どうやって止める事ができただろう。
 マエズロスが己の良心より血の誓約に勝てなかったように。

 ぼくは、らくえんをすて、こうやにでる

 馬に飛び乗り、走り去っていくスランドゥイルの後姿を見つめる。

 ほかに、
 道を選ぶことはできなかったのだ。

「エレイニオン」
 背後から、キアダンの声がする。彼は、いつも傷ついたエレイニオンに優しい。
その優しさに甘えたいと思ったことは、一度や二度ではない。
だがそれは許されず、キアダンも望まない。自分は、
 王でなければならないのだ。
「キアダン、二度と私をその名で呼ぶな。私は、ギル=ガラドだ」
 エレイニオンは振り向き、キアダンを見る。
今日一日で、彼自身、ずいぶん年を取ったようだ。
海を愛する男は、同族殺しという恐ろしい犯罪に、心を疲れさせていた。
「怪我人を含め、生存者をすべて船に運べ。死者は海に弔う。
ノルドール、シンダール、ファラスの区別なく、全員、バラールへ移住する。
穢れた地、シリオンを放棄する」



 馬を酷使し、全力で駆け、スランドゥイルはオロフェアの一行を追った。
彼らは、分かれた場所で、スランドゥイルを待っていた。
「父上!」
 馬で駆け込み、馬上から父の腕の中に飛び込む。
そして、父の胸に顔を埋めて、スランドゥイルは悲痛な嘆きの叫び声を上げた。
 うわあああああ………!
 声が枯れるまで叫び続ける息子を、オロフェアは黙って抱擁し、
仲間達は静かに集まって頭を垂れた。
 スランドゥイルは、故郷ドリアスが滅び、母の死を見てから、はじめて心を開いて泣いた。

 はじめから、こうすればよかった。
 オロフェアは、息子を抱きしめて思う。
 こんなふうに、泣かせてやれればよかったのだ、と。

 やがて陽は傾き、夕闇が訪れ、
疲れ果てたスランドゥイルは父の膝に頭を乗せて、ぼんやりと焚き火を見つめた。
「父上は、知っていたのですか…何もかも…」
「ディオル様とニムロス様が、シルマリルをエルウィング様に託された事は、知っていた。
エルウィング様は、己の運命を受け入れる覚悟があると、おっしゃられた。
スランドゥイル、これは、エルウィング様の、業なのだよ。
ノルドールが己の罪の償いをいつかしなければならぬように、
シンゴル王の欲より生まれし憎しみの業を、エルウィング様は受け継がねばならなかったのだ。
だが、エルウィング様は、希望は残されるともおっしゃられた。
それは、生き残った我らシンダールがこれからたどる道であり、
エルロンド様とエルロス様の未来である、と。我らは違う道を歩む。
だが、それぞれがそれぞれの希望へと繋がっているのだ」
 ゆっくりと体を起こしたスランドィルは、夜空の星を見上げた。
ヴァラールの恩寵は、まだエルフを見捨ててはいない。
「父上、楽園を、作りましょう」
 泣き疲れ、やつれた頬で、スランドゥイルは哀しげに微笑んだ。
「争いのない、戦のない、この地に生まれ出たことを喜び、生きる事を楽しむ。
食べ、飲み、歌い、踊り、昼には日の光を浴び、夜には星を讃え、愛し合い、笑い合える、
そんな単純で高貴な、国を、作りましょう」
 スランドゥイルの周りに、仲間達が集まる。
「そうだ。我等の理想の国を、作ろう」
 オロフェアは、息子に、同胞に、微笑みかけた。



この後、モルゴスはヴァラールとエルフの軍により世界から永久追放され、
マエズロスとマグロールはシルマリルと共に身を滅ぼし、シリオンは海に沈んだ。
 ヴァラールによってアマンへの帰還を許されたノルドールであったが、
ギル=ガラドはエルロンドと共にミドルアースに残った。