はじめて船に乗ったときのことを、覚えている。
 キアダンの作った白い船で、青い海原に揺られた日の事を。
(笑ったね) 
 そう言って差し出したキアダンの手に、海鳥がとまる。
 空はどこまでも青く、海もまた青い。
 海風が、オスセの歌を運ぶ。
 世界は、こんなにも美しい。

「エレイニオン………もう…」
 苦しげな声が、腕の中からする。エレイニオンは笑ってその耳たぶを甘噛みする。
 波に揺られるように、もうずっとこうしている。
「エレ……」
「なに? 聞こえない」
「ニ…オン……」
 途切れ途切れの吐息。
 もっと呼んで。
 ぼくの名を。
 力尽きて脱力するスランドゥイルの体を、もう一度攻め立てる。
低く呻いて、スランドゥイルはエレイニオンを見上げ、弱弱しく手を差し伸べる。
その指に指を絡め、唇を押し当ててから、エレイニオンはその日何度目かの絶頂を迎えた。
 瞼を閉じ、ぐったりと横たわるその白いうなじにキスをし、背中を撫で上げる。
スランドゥイルは小さく呻く。また覆いかぶさり、そろそろと侵入する。 
「だめ………もう……」
「もっと、したいよ」
 もう、できない………吐息のような言葉を、なんとか唇で形作り、
目を開けたスランドゥイルの動きが止まる。
「?」
 エレイニオンの背後を凝視して、紅く染まった唇で驚きの声を出す。
 と、同時に、エレイニオンの背後から咳払いがした。
「!」
 振り向いたエレイニオンの目に映ったのは、呆れ顔で立っているキアダンの姿であった。



「間が悪いなあ」
 ローブを肩に引っ掛けただけの姿で、エレイニオンはキアダンと並んで外に出た。
「声をかけるタイミングをね、半日も待っていたんだがね」
 半日も、と強調する。
「昨日は一日、宮の方でお前さんを待っていた」
 エレイニオンは肩をすくめ、苦笑する。
「まさか、二日もベッドの中だった、なんて言うまい?」
「耳が痛い」
 むしろ肯定するように、ニッと笑う。キアダンはため息をついた。
「スランドゥイルは、夜が明けたらシリオンに戻り、三日後、旅立つそうだ」
 何気ない事のように言葉にするが、キアダンは眉を寄せて、エレイニオンの表情を伺った。
シンダールたちは、もうシリオンには戻ってこない。
キアダンの心配を余所に、エレイニオンは飄々として見せる。
「で、一日半もぼくを待っていた理由はなんだい?」
 キアダンは、波打ち際までエレイニオンを誘った。
夜の闇が二人を包み、波がエレイニオンの裸足を濡らす。
波の音が、キアダンの声をエレイニオンの耳にだけ運ぶ。
「マエズロスがお前さんを探している」
「それはおかしいな。マエズロス殿は、ぼくがここにいることは知っている。
ぼくはずっとバラールにいるし、会議の時もマエズロス殿の使いの者が来ている」
「そうだ。マエズロスはお前さんの居場所を知っている、
なら、彼が探しているものは、何だ?」
 エレイニオンの顔から、笑みが消える。
「エレイニオン、お前さんは、わしに何か隠しているのではないか?」
 数秒、エレイニオンは険しい表情でキアダンを見つめ、また唇を歪めて笑った。
「隠し事なんかないさ。何もね。こんな恥ずかしい姿も見られているし」
「ギル=ガラド」
 エレイニオンは両手を広げて肩をすくめる。
「三日後」
 ぱしゃり、と水を跳ね返し、真っ暗な海の向こうに目をやる。
「シンダールたちを見送る。何の心配もなく旅立たせたい。せめてもの、償いに」
 彼らの故郷を奪った一族の王として。
「エアレンディルの船がもうすぐ出来上がることも、マエズロスの動向も、その後の話だ」
 顔だけ振り向いてキアダンを見るエレイニオンの表情は、王のものだ。
それは、頼もしくもあり、切なくもある。
「わしは」
 キアダンはエレイニオンに並び、夜空を見渡した。
「お前さんは、スランドゥイルを鎖でつないで閉じ込めてしまうかと思ったよ」 
 はは、と、エレイニオンが乾いた笑いをする。
「それも悪くないけど、エルウィング嬢に叱られてしまうからなあ。
オロフェア殿を怒らせるのも怖いし」
 星の瞬く夜空を見上げ、エレイニオンが呟く。
「………いい別れが、したい。それは、過ぎたる願いだろうか」
「いいや」
 くるり、とキアダンは踵を返した。
「それくらいは、許されるだろう。わしも、それくらいは許されたいと願う。
居間にワインを置いておいた。別れの杯にな。わしは港に戻る。
オロフェア殿が出発される際には、わしも見送りに行こう」
 キアダンが去った後、キアダンの置いて行ったワインを手に、エレイニオンはベッドに戻った。
「………キアダン殿は……何か、知らせを?」
 疲れた体をベッドから持ち上げて、スランドゥイルは不安そうな目でエレイニオンを見る。
「いや、これを持って来た」
 ニッと笑って、ワインとグラスを掲げて見せ、グラスのひとつをスランドィルに手渡す。
「それから、昨日、仕事サボった小言をね」 
「仕事、ないって言っていたじゃないか」
「そう言わないと、やらせてくれなかっただろう?」
「だからって………」
「きみの、そういう困った顔も好きだけど、もう小言は充分」
 お互いのグラスにワインを満たし、一気に喉に流し込む。
「…美味しい」
「ああ、いいワインだ。さすが、キアダンの秘蔵」
 視線を合わせ、笑いあう。
「なあ、もう一度、して、いいだろう?」
 これが、最後だから。
 エレイニオンをじっと見つめ、スランドゥイルは頷いた。



 三日後。
 オロフェアと共に東へ旅立つシンダールは、シリオンの彼ら一族の大よそ半分の数であった。
半数はエルウィングらと共に、シリオンでの平穏な生活を望んだ。
東への旅は、それほど安全なものではないのである。
「みんなのことを、宜しくお願いします」
 普段、オロフェアと共にいる時は、非常に控えめで発言を控えるスランドゥイルが、
珍しく王としてのエレイニオン・ギル=ガラドに頭を下げた。
「私のできるかぎり、そなたたちの民を守る事を約束しよう」
 スランドゥルの顎に触れ、額にキスをする。
 顔を上げないまま、一歩下がったスランドゥイルに、子どもたちが駆け寄った。
「スランドゥイル!」
「エルロンド様」
 ふと微笑んで、スランドゥイルは膝を落す。
「これ」
 エルロンドは、不器用に編んだ花の冠をスランドゥイルの頭に載せた。
エルロスも花束をスランドゥイルに差し出す。
 スランドゥイルは一度二人を抱擁し、立ち上がった。
子どもたちと一緒にいるエルウィングに、切なげな視線を向ける。
「お元気で」
 エルウィングは、スランドゥイルの手を取ると、その額にキスをした。

 オロフェアたちの一行が見えなくなるまで見送ってから、エルロスは母のドレスの裾を引っ張った。
「ねえ、もうスランドゥイルたちには会えないの?」
「会えるよ!」
 エルロンドの強い口調に、エルウィングも驚く。
「会えるよ。だってぼく、夢を見たもの。花の冠のスランドゥイルに、会えるよ!」
「ウソだ! そんな夢、ぼく、知らない!」
「じゃあ、エルロスは会えないんだよ!」
 エルロスはエルロンドに食って掛かり、二人が泣き出す。
 エルウィングは、しばらく呆然とエルロンドを見下ろしていた。
「ねえ、お母さま! 会えるよね!」
 そうか、それが、この子の運命なのか。
 エルウィングは切なげに微笑んで、膝を落とし、二人を抱きしめた。
「そうね。でも、先のことは誰にもわからないわ。
会えるかもしれないし、会えないかもしれない」
 もし会えるのだとしたら、
 それがよき再会でありますことを。



 しかし、運命は残酷だ。

  それからすぐ、船を完成させたエアレンディルは、海原へ漕ぎ出した。

 そして、エルウィングの元に、一通の書状が届いた。