穏やかな海の中を、エルウィングは漂っていた。
 寄せては返す、波の音。
 それは、自分の両脇で眠る、幼い息子たちの、穏やかな寝息。
 水中からぽっかりと浮かび上がるように、エルウィングは目を覚ませた。
 子どもたちを起こさないように、ゆっくりと起き上がる。
 
 朝日が昇る。
 
 ひとり窓辺にたたずむ。
 夫エアレンディルは、港で船を作っている。
 昇り来る朝日を眺めていると、
いつの間にか起き出したエルロンドが、エルウィングのドレスの裾を引っ張った。
「お母さま」
「なあに?」
 微笑んでエルロンドを見下ろす。
「お母さま、なんで泣いているの?」
 エルウィングは頬に指を当て、驚いた。
泣いていた自分に気がつくと、更に大粒の涙が零れ落ちた。
「お母さま、どこか痛いの?」
「違うわ」
 エルウィングは膝を落とし、幼いエルロンドを抱きしめた。
「違うの。朝日がとてもまぶしかったから………ええ、そう、目が痛くなってしまったのよ」
 エルロンドが小さな手のひらで、母の瞼を撫でる。
「あのね、痛いところはね、こうして撫でると痛くなくなるんだよ。
スランドゥイルが教えてくれたんだよ」
「そう…ありがとう、エルロンド。もう痛くないわ」
 目を開けたエルウィングは、にっこりと微笑んだ。
 もう痛くないわ。
 
 痛くない。
 もう、痛くない。



 昼の暖かい日差しの中、エルウィングは丘を登って来た。
「姫」
 出迎えたオロフェアに、エルウィングはやわらかく微笑む。
「オロフェア、お話があるの。スランドゥイルは?」
「バラールに出向いておりますが」
「そう」
 ほっと肩を撫で下ろす。
「…姫?」
「あのね、オロフェア。私、夢を見たの」
 もう涙は出ないと思っていたのに、それを言葉にすると、また熱いものがこみ上げてくる。
「夢を見たの。希望の夢よ」
 オロフェアは少し目を見開き、衝動的にエルウィングの手を取った。
「森の夢なの。静かで美しい森。森の王が森のエルフたちを統べている。
ねえ、これは希望よ。そうでしょう?」
 見上げると、オロフェアの瞳も潤んでいた。
「ええ、姫」
「そこに私はいないけど、とても幸せな気分になれたわ」
「………」
「時が、来たの」
 オロフェアは、思わずエルウィングを抱きしめた。本当の己の娘のように。
「いままで、ありがとう」
 オロフェアの胸に頬を埋め、エルウィングは囁いた。



 波の音に、スランドゥイルは目を覚ました。
波の音が、森の木々の葉擦れの音に聞こえて、懐かしい心地よさに心を泳がせていたが、
不意にそれが森の木々ではなく波の音だと気付いた。そして、目を覚ませた。
 体を起こそうとすると、腕を掴まれてベッドに引きずり戻される。
「エレイニオン…」
 眉を寄せえて彼を見る。エレイニオンは目を閉じたまま、スランドゥイルを腕の中に絡めとる。
「離してくれないか」
「…逃げてみたら?」
 どんなに身をよじっても、彼が本気を出せば絶対に叶わない。
「今日は、シリオンに戻るつもりなんだ」
「それで?」
「父と今後の話を」
「それで?」
「エレイニオン、いいかげんにしてくれ」
 ぱっと目を開いたエレイニオンは、絡め取ったスランドゥイルの体をベッドに押し付けて、
自分は馬乗りになる。
「ぼくはね、本当は父と一緒に戦いたかった。
なぜぼくがファラスに使わされるのか、納得できなかった。
ぼくは物心ついた頃から、モルゴスを敵として戦いの訓練をつんできたのに」
「フィンゴルフィン王家とキアダン殿率いるファラスとの同盟のためだろう?」
「ニアナイス・アルノディアドの前に呼び戻してくれればよかったのに」
「そうしたら、あなたもお父上と運命を共にしていたかもしれない」
「いいじゃないか」
「よくない。そうしたら、私はあなたと出会えなかった」
 ニッとエレイニオンが笑う。
「ああ、わかった。エレイニオン。私にそれを言わせたいのだろう? あなたと出会えてよかった」
「うん、そう。もっと言って」
「私はあなたに救われた。あなたは私の師であり友だ」
「それだけ?」
「………愛してる」
 満足げに微笑み、エレイニオンはベッドを降りた。スランドゥイルはため息をつく。
「シリオンに戻るの? 送るよ」
「仕事は?」
「エアレンディル殿に話がある」
 一瞬、エレイニオンの眼光から笑みが消える。
スランドゥイルが眉を寄せると、エレイニオンはまたパッと笑った。
「シリオンに戻る前に、もう一度しよう」
「は?」
「どうせしばらくバラールには来ないつもりだろう? だからさ」
「なぜそんなに………」
 服に袖を通しかけていたスランドゥイルを捕まえて、まだベッドに戻す。
「きみと繋がっていたいから。嫌かい?」
「嫌ではないけど」
「きみのことが好きなんだよ」
 押し倒して瞳を覗き込む。
「きみの全てを、ぼくの中に焼き付けたい」
 スランドゥイルは不思議そうにエレイニオンを見上げている。
「エレイニオン、まるで駄々っ子のようだ」
「ぼくは愛に飢えているんだよ」
「自分で言うか? そんなにがつがつしなくても、私は消えたりしない。
少しシリオンに戻りたいだけだ」
「一寸先のことなんて、わからないよ」
 ため息をついて、エレイニオンの腕を引いて腕を背に回す。
「なにがあなたを不安にさせるんだ?」
(海)
 エレイニオンは言葉を飲み込む。
(海はエルフを誘い、遠くへと運んでいく。そして二度と、戻らない)
「………うみ?」
 エレイニオンの心が伝わったのか、スランドゥイルは小さく呟く。
「私は、海の向こうには、行かない。
このミドルアースにいるかぎり、あなたとは、いつでも会える」
 本気でそう思っているのだろう。
「そう……だね」
 呟くように、自分に言い聞かせるように言って、エレイニオンは体を起こした。
「送るよ、シリオンに」



 シリオンの港に降り立と、エルウィングと双子の息子たちが出迎えた。
「姫!」
 スランドゥイルが慌てて駆け寄る。
「子ども達が、あなたに会いたいとせがむから」
 母親らしい優しげな表情でエルウィングは微笑み、
二人の子どもはスランドゥイルの腕を両方から引っ張る。
「少し、子ども達と遊んでもらえるかしら?」
「もちろんです」
 スランドゥイルも明るく微笑む。
そして、子ども達に手を引かれるまま、振り向きもしないで、街中へ消えていった。
「お話があるのですが、よろしいかしら?」
 船から降りて来たエレイニオンに、エルウィングは口許だけの強張った笑みを見せる。
「それは、ぼくにですか? それとも、王に?」
「あなたにです、エレイニオン様。わたしの大事なお友達」
 
 ひとけのない灯台の下で、エルウィングはエレイニオンと肩を並べて海を見下ろしていた。
しばらく、言葉もないままそうしている。
エレイニオンも、黙ってエルウィングの言葉を待っていた。
 何十も、何百もの波が寄せては返し、静かに時間が過ぎていく。
 やがてゆっくりと、エルウィングはエレイニオンを見上げ、哀しげに微笑んだ。
「夢を………見ましたの」
 ぎくり、とエレイニオンの表情も強張る。
「希望の夢、ですわ。森の王国、森の王。平和で、歌と喜びに溢れている。
森の王は黄金の髪で、季節の花で飾られている。そして、王とよく似た王子。
森の名を付けられた王子。
………わたしも、オロフェアも、…あなたも、目にすることは叶わないけど、
そこには喜びと希望があるの」
「…そのことは、オロフェア殿には…?」
「話しました」
 切なくて涙を流すエルウィングを抱きしめて、オロフェアも涙を浮かべていた。
 だからもう、笑って話すことができる。
 エルウィングは、ふわりとした希望に満ちた笑顔を作った。
「エレイニオン様、わたしたちの、希望です。だから、さようならをしなければならないの」
 心が体を抜けて、海風に漂う。
 このまま、風に砕けてしまえたら。
 それとも、
 海の奥深くに沈んで、一粒の石になってしまえたら。
 否、いっそ、二人を分かつ者を切り捨ててしまおうか。
 そうして闇に落ちた、多くのエルフのように。
「エレイニオン様」
「そこに、希望は、あるのですね?」
「ええ、エレイニオン様」
 希望とは、何の希望だろう?
 望み薄いこのミドルアースの希望だろうか?
 呪われたノルドールへの許し?
 打ちひしがれたシンダールの平穏?
 メルコールとの戦いはあまりに長く、終わりがあるとすれば、世界が消える時だ。
 ヴァラールの赦しは程遠く、
 勝利への望みもない。
 ああ、そうか。
 トゥアゴンの受けた言葉、その身のうちに、きっと希望は現れる。
それは、エアレンディル。
彼が希望を次へ繋げる事ができれば、希望はエルロンドとエルロスが受け継ぐ。
 そうか。
 希望はまだ、残されている。
「別れは………辛いですね」
「ええ、でも」
 遠くから、笑い声が聞こえてくる。エルロンドとエルロスが、エルウィングを探している。
花の冠と、花の首飾りを手に。
 それ以上、エルウィングは何も言わなかった。
子ども達に手を振る。
母を見つけたエルロスは走り出し、転び、追いかけてきたスランドゥイルが抱き上げる。
エルロンドも抱き上げて欲しいとせがみ、スランドゥイルは二人を両腕に抱え上げる。
子ども達の歓声。
 希望を次に繋げるために。
 自分が決して目にすることはないであろう森の王国。
(ぼくは…スランドゥイルを愛している)
(わたしもよ)
 エレイニオンに背を向け、子ども達に両手を広げるエルウィングの背中が、そう応える。
(愛しているから、希望を繋げられるの)
(そうだね)
 
 愛しているから、

 さようならだよ。