夜明け。
 東の空から、金色の朝日が昇る。
 エレイニオンは、ずっしりとした疲労を感じながら、我が家へ戻ってきた。
 島の東側の波穏やかな浜辺。
 夜明けの海は、何もかも清純で、静かで、美しく、
 胸が騒いで好きではない。
 

「ギル=ガラド王は、ご結婚を考えた事はないのですか?」
「………それは、どういう意味かね? エアレンディル、私に世継ぎが必要であると?」
「いいえ。私はエルウィングと出会え、幸福を見出しました。
故郷の滅亡という絶望の中から、至福の光を手に入れたのです。………王は…」
「希望など、端からないのだよ」
「……王…?」
「希望も幸福もない。私にあるのは」

 使命

「それだけだ」

  
 海の向こう、アマンに憧れた事など、ない。
ノルドールは、至福の地を、どす黒い野望のために裏切ったのだ。
 そして自分は、その王なのだ。
 ふと目を上げると、白い砂浜に、誰かが跪いている。
 きれいな貝殻を拾っている。
 その横顔は、シルマリルのことも、ミドルアースを統べる王となる野望もない。
生まれ出たばかりのエルフは、みんなそんなふうに清らかであったのだろう。
 気配に気付き、顔を上げたスランドゥイルは、目を細めるように微笑んだ。
「おかえり。貝を、エルロンドとエルロスに見せてあげようと………」
 エレイニオンはスランドゥイルに駆け寄ると、首筋に抱きついて砂浜に倒れた。
「…エレイニオン?」
「つかれた」
 スランドゥイルの首筋に鼻を埋めながら呟く。
 スランドゥイルはエレイニオンの髪を、そっと撫でた。
「あなたは、王だから。王である続ける事は、大変だろう」
 王、か。
「ぼくは、何の王なんだろうね。統べる国も守る民もない」
「ミドルアースの王だろう? 
ここで生きるすべてのエルフ、人間、ドワーフ、あなたは、それを守っている」
 それはあまりに大きすぎて、目には見えない。実感できない。
「私も、あなたに守られている」
「そうかな」
「そうだよ」
 海風が耳元をかすめる。それは、大地の、海の、吐息のように。
「…トゥオル殿は、旅立たれたのだろう?」
「ああ」
「トゥオル殿は、最初からそのつもりでいたね? 
だから、シリオンの実権は子息のエアレンディル殿に」
「トゥオルは、この地での役割を終えたのだ」
「エレイニオン、あなたも、いつかこの地での役割を終えたら、海を渡るのかい?」
 エレイニオンは、スランドゥイルを抱く腕に力を込める。
 この地で役割を終えることなど、ない。永遠に。
ノルドールの罪が許されることがないように。自分は、ミドルアースに縛り続けられる。
その証拠に、
「海に憧れた事なんか、ないよ。海を渡りたいと思ったことが、一度もないんだ」
「私もだ」
 ふと体を起こして、エレイニオンはスランドゥイルを見下ろした。
「何故かな。すべてのエルフはヴァラールに召還されたはずなのに、
アマンに憧れる気持ちがもてない。今一度召還されても、私はミドルアースを離れない気がする。
シンゴル王はメリアン様への愛故にこの地に留まる事を決心した。
そして、この地で喜びを見出した。私はその喜びの中で生まれた。
だから、ミドルアースを愛しているのだと思う。
エレイニオン、あなたが海を渡ってしまったら、寂しいと思う」
「スランドゥイル、きみは、ずっとミドルアースで生き続ける?」
「ああ」
「そうか。ならぼくは、ミドルアースを守るよ」
 ふわりと心が軽くなった気がして、エレイニオンは笑みを浮かべた。
「エレイニオン……私の上から退いてくれるかな?」
 一度ぎゅっとスランドゥイルを抱きしめて、エレイニオンは起き上がった。

 白い浜辺できみを見つけることが、ぼくの唯一の喜び。

「食事にしよう」
 


 エレイニオンの不安は的中した。
 エアレンディルは、海への憧れを押さえきる事ができず、
キアダンに教わりながら船を作り始めたのだ。
 エルウィングは、夫への愛故に、
夫の心の揺れ動きを咎める事ができず、不安と寂しさを胸に抱いた。

 オロフェアは、何度か東へ旅をするうち、道を見出していった。
そして、新たな旅立ちへの準備を始めた。
 一族の半分はシリオンに残ることを希望した。
 ここは、それほどまでに平穏で、
この地でノルドールやファラスリムと友情を交わし、また結婚する者など多くいた。
 オロフェアはそれを否定はしなかった。ただ、ここに残る事を希望しない者だけを連れて行く。
 何年もかけて、オロフェアはゆっくりと準備を進めた。
 オロフェアにも、ひとつだけ気にかかる事があり、準備を急げなかった。
それは、エアレンディルのことだ。
もしエアレンディルがエルウィングを置いて海に出ることがあったら。
残されたエルウィングと幼いエルロンドとエルロスが気がかりだ。
もしエルウィングが希望するなら、もちろん一緒に連れて行く。
もし彼女が希望するならだ。
 エアレンディルが船を作り始めたことで、エルウィングの心は揺れている。
 オロフェアは黙って静かに、エルウィングを見守っていた。