怒りの戦いの後、ギル=ガラドはリンドンにノルドールの王国を作った。
 マエズロスとマグロールは、血の制約に打ち勝つ事ができず、
ついにエルロンドとエルロスを手放し、絶望の行動に出、そして、英雄は二度と戻らなかった。
 エルロンドとエルロスには、ヴァラールより選択肢が与えられ、苦難を共にしてきた兄弟は、違う道を選んだ。
それは、生まれながらの運命であるように。
 そして、エルロンドはギル=ガラドの元に来た。



 立派になったものだ。
 マエズロスに連れられてやってきた青年に、ギル=ガラドは感心させられた。
もう別れは済ませたのだろう。
エルロンドは終始無言で、死出の旅に出ようとしているマエズロスにも、頭を垂れて見送っただけだった。
 立派になったものだ。
 マエズロスは優れた武人だった。エルロンドは武術に優れ、また知識もあり、それでいて寡黙。
ギル=ガラドに与えられた私室で、一日中本を読んでいる。
呼び出せば、何時間でもギル=ガラドと戦術や地理歴史などについて、語り合う事もできた。
 ただ、
 笑うことはない。
 それでも、何年もリンドンで過ごすうち、ギル=ガラドに打ち解けるようになり、
度々訪れるキアダンにも、進んで教えを請うた。社交的に微笑むようにもなった。
 薬学植物学に興味を示し、それを好んで学んだ。もちろん、他の勉学に手を抜く事はない。
 非の打ち所のない、立派な青年。
 誰もがそう思った。
 エルロンドがリンドンに来てから数十年、ギル=ガラドの信頼厚い腹心の部下として、
誰もが認め、そしてギル=ガラド自身もエルロンドを大切に扱っていた。



 その日、久々にキアダンはリンドンを訪れ、ミドルアースの現状報告を兼ねた会議に出席し、
夜、ギル=ガラドの私室でワインを酌み交わした。
「マエズロスは、エルロンドをよく教育した。奴の剣の腕はかなりのものだ。頭もいい」
「そうみたいだね」
 二人きりでいるとき、キアダンの表情は穏やかになる。
「エルロンドを見ていると、わしのもとにはじめて来たときのお前さんを思い出すよ」
「ほう?」
「あれくらいの年齢ではなかったか? 武術に優れ、頭もいい。
何より、自分の役割をよく理解している。だが、笑わない」
 ギル=ガラドは眉を上げてキアダンを見、ワインを一口飲む。
「あの子がここに来て、何年になる?」
「60年、というところか」
「人間ならば、成人しているところか」
「エルロンドは人間ではない。奴の兄弟は、人間だが」
 一呼吸置いて、ギル=ガラドはワインのグラスをテーブルに置いた。
「キアダン、前にエルロンドに会ったのは、いつだ?」
「さあな、10年くらい前かな?」
「エルロンドは、変ったと思うか」
 ギル=ガラドを凝視し、キアダンもグラスを置いて身を乗り出す。
「何故だね?」
「ここ最近、落ち着かないように見える。どこか上の空であったり、思い悩むように沈んだり。
何かあったのかと訊ねても、本人は首を横に振るだけだ」
「思い当たるふしはないのかね?」
「わからん」
 キアダンは考え込むように目を伏せる。しばらくしてから、はっと気付いたようにギル=ガラドを見た。
「エルロスは何をしておる?」
「エルロスはヌメノールの王となって、30年にもなろう。ヌメノール王国は安泰だ。
時折、使者を送っている。ああ、ひと月ほど前にも使者が書状を携えてきた。何の問題もない。
確か、エルロンドも手紙を受け取っていたと思うが、内容までは確認していない。
エルロスは……世継ぎが生まれたとか。祝いの品を送ったところだ」
 ギル=ガラドは、自分の言葉の意味を、どれだけ理解しているのだろう、と、キアダンは思う。
もちろん、自分も伴侶はいないし、子もいない。持ちたいと思ったこともない。
それでも、一族の長として子孫を増やす民を守ってきた。
不死のエルフでさえ、子孫を残さねばいつかは滅びてしまう。特に、戦場に身を置く者たちは。
「それではないか?」
「エルロスに子ができたことと、何か関係が?」
「エルロスは王となり、子を授かった。エルロンドは何をしている? 
ギル=ガラド王の下で、変らず勉強している。それだけではないかね? 
 なあ、ギル=ガラド王、モルゴスは永久追放され、ノルドールには赦しが与えられた。
わしはノルドールが西へ渡る船を作り続けている。戦争の船を作るより、ずっと楽しい。
今は平和だ。今は、凪ぎ、だ。そうだろう? この凪ぎが永遠に続くとは、わしとて思わん。
だが少なくとも、今は凪いでいる。
 凪ぎの時問いうのはな、外からの刺激がない分、おのずと己を見つめ直すことになるものだ。
お前さんだってそうだったであろう。シリオンでの凪ぎの時間、自分自身を見つめ直していたはずだ。
 エルロンドは今、その時ではないのかね?
 シリオンでの平和な幼少期を強制的に終らされ、
いくらマエズロスたちが愛情を注いでいたとはいえ、見ず知らずの者たちの中で、
ましてや己の母や同族を殺戮した輩の中で育った。緊張もあったろう。己の感情を押し殺す事もあったろう。
マエズロスらの愛情を受け入れ、自らも愛せるようになるには、そうとうの心労があったと思われる。
 今は、それさえ開放された。
 ここは安全で、過度な愛情もなく、過度な期待もなく、安心して好きな勉学に没頭できる。
そうして60年、人間として生きることを選んだ兄弟は、いつしか王となり、結婚し、子も授かった。
きっと顔を合わせれば、見違えるくらい年老いているだろう。
エルロンドはいつまでも少年の面持ちを残しているのに。
 そういったことに、気がついたんではないかね」
 キアダンの言葉を、息を詰めて聞く。
「エレ………」
 その名を口にしかけて、キアダンは慌ててワインで言葉を喉に流し込んだ。
「そのうち、自分で解決しよう」
 偉大なる父親のような口調で、キアダンはニヤッと笑った。
 ギル=ガラドはため息をつき、ワイングラスを手に取ると、椅子にもたれた。
「キアダン、私は、エルロンドを愛しいと思う」
「マエズロスらがあの子を愛していたように?」
「……そうだな。だが、愛されようとは思わん」
「お前さんがエルロンドを手元に置くのは、責任感からか? 郷愁からか」
 ワインを一口二口飲んだ後、ギル=ガラドはまたため息をつく。
「エルロンドが何を考えているのか、わからん」
「なら、訊ねてみればいい」
「エルロンド自身、自分の感情を理解しているとも思えん」
「ちょうどいい。二人で考えればいい。今は、凪ぎ、だ。時間はある」
「キアダン」
 キアダンは、手を伸ばして、そっとギル=ガラドの指に触れた。
「わしの一族の者が、東へ逍遥に出た。大きな森があり、森のエルフ、シルヴァンたちが住んでおったそうだ。
彼らには王がいて、王は偉大なシンダールだと申していたそうだ」
 ギル=ガラドの瞳を覗き込んで、口許で微笑む。ギル=ガラドの瞳が、黒く輝く瞳が、揺らぐのが見える。
キアダンは手を引いた。