ギル=ガラドはエルロンドと、いつものように剣を交えて武術の訓練をしていた。
 エルロンドは達者で教える事はほとんどない。なので、ギル=ガラドも己の訓練も兼ね、槍を使う。
 体を動かすと、落ち着く。やはり自分は、こうして武器を手にしているのが性分なのだろう。
 エルロンドは、武器を手にするより本を抱えている方が好きなようだ。
もちろん、武術もすばらしいが。
本に向かうエルロンドは、船に向かっている時のキアダンと同じ表情だ。
無心で、喜びに溢れている。それは、うらやましくもある。
きっと自分は、こうして槍を振るっている時、そんな顔をしているのだろう。
 自分は、平和な時代には生きられないのか。
 この平和な、凪の時代が幾百年も続いたら、自分はきっと倦み疲れてしまうだろう。
 本当に?
「………」
 槍を大きく振るい、構え直した時、ギル=ガラドは、ああ、これが自分と向き合うことか、と思う。
 神経を自分の内面から、対峙しているエルロンドに向ける。
エルロンドもまた、どこか上の空で、考え事をしているようだ。
ふとできた隙に、ギル=ガラドは踏み込んでエルロンドの剣を弾き飛ばした。エルロンドが、ハッと我に返る。
「集中していないな」
「………申し訳…ありません」
「よい。今日はここまでにしよう」
 ギル=ガラドは冷たく言い放って背を向けた。



「お休み中、申し訳ありません、ギル=ガラド王」
 エルロンドの声に、ギル=ガラドは薄く目を開ける。
 湯浴みをしたまま、心を飛ばしていた。
「ケレブリンボール殿が、ギル=ガラド王にお会いしたいと」
「湯浴み中だ。待たせておきなさい」
「そう申したのですが、急ぎ見ていただきたいものがあると、どうしても」
 ギル=ガラドはため息をつく。仕方のない男だ。
細工師としての技量は、フェアノールに継ぐと言えるかもしれない。
ただ、それに熱中するあまり、周囲に目が行かない事もある。
 ゆっくりとギル=ガラドが立ち上がると、エルロンドは急いで体を拭く布を持ってギル=ガラドに走り寄った。
布を肩にかけるとき、ギル=ガラドの髪がエルロンドの頬をかすめる。
「……花の……かおりが」
 エルロンドの呟きに、ギル=ガラドは眉を寄せる。
「ここに花などない」
「そうですが……」
 エルロンドから受け取った布を体に巻きつけながら、ギル=ガラドは背を向ける。
 彼のことを、想っていた。その強い想いが、香りとなり、エルロンドに届いたのだろう。
「…昔の事を、思い出していた。シリオンにいた頃、丘の上にラヴェンダーが咲いていた。
エルロンド、きみが感じたのは、その花の香りだろう」
 スランドゥイルが花を摘み、きれいなブーケにして、エルウィングに渡す。
だからいつも、スランドゥイルの手から花の香りがしていた。
「そうですか」
 気のせいではなかったのだと、エルロンドの声は安堵している。
「その花に、何か思い出でも?」
「ラヴェンダーの効能を知っているか?」
「沈静、殺菌作用です」
「そうだ。エルウィングが、子供部屋にラヴェンダーを飾っていた。
きみの記憶が幻臭となったのかもしれない」
 エルロンドは幼少の頃の記憶を、自らあやふやなものにしている。
事実は知っているが、そこに感情が伴わないのだ。誰が魔法をかけたわけでもない。
自分で自分の感情を閉じ込めてしまった。
「そう……ですか」
 エルロンドは沈んだ声で眉を寄せ、視線を落とした。
「すまない、気をつけよう」
「いいえ、王が謝る事など何も……」 
 気まずい空気を遮るように、ちょうどその時、ケレブリンボールが現れた。
「ギル=ガラド王!」
 ギル=ガラドは苦笑し、ため息をつく。
「ケレブリンボール、着替え中だ。少し待てないのか」
「充分待ちましたよ! 見ていただきたいものがあります! 
力を、宝石の中に閉じ込める方法を考えているのですが……」
 有無を言わさず懐から包みを取り出す。
ギル=ガラドが視線をエルロンドに向けると、エルロンドは頭を下げ、部屋を出て行った。



 昼間の事で、ギル=ガラドはエルロンドの変調を悟った。
なるほど、キアダンの言うとおりなのかもしれない。
湯浴みをするギル=ガラドに何かを感じていたのは確かだ。
頬を染め、目のやり場に戸惑い、視線を泳がせていた。
キアダンやケレブリンボールのように、集中するものがあれば、誰の裸などまったく気にならないものだ。
現に、ケレブリンボールはギル=ガラドが着替えている間、
そんなことはまったくお構い無しにしゃべり続けていた。
 ギル=ガラドの周囲、つまり、エルロンドの周囲に女性が極端に少ないのは、幸か不幸か。
むしろ、好意を持てる女性がいるなら、その方がよいのだろう。
が、あいにくギル=ガラドの宮廷には戦士や識者がほとんどで、
女性がいたとしてもやはり異性より己の興味を優先させる者ばかりだ。
 エルフやドワーフなどは、性欲に関して実に緩慢なのだ。ないわけではない。
 エルロンドは、そういう年齢に達したのだ。
彼本来の性分なら、文学の中に喜びを見出し、キアダンらのように異性に興味を示さず没頭するだろう。
エルロンドを落ち着かなくさせているのは、彼の中の人間の血か。
それに、兄弟の知らせもある。袂を分かった兄弟。
 深夜、ギル=ガラドはエルロンドを私室に呼んだ。
 エルロンドは今、古文書に興味があり、古い言葉を学んでいた。今宵も読書に没頭していたようだ。
「寝ていたかね?」
「いいえ、本を、読んでおりました」
「睡眠はとっているか」
 質問の意味を図りかねて、エルロンドが戸惑う。エルフとは、それほど睡眠を必要としないものだ。
「まあよい。座りなさい。話をしたくて呼んだのだ」
 勧められる椅子に腰を下ろす。ギル=ガラドはワイングラスを二つ持ってきて、
ひとつをエルロンドに手渡し、ワインのビンを差し出してみせる。エルロンドは、首を横に振る。
かまわず、ギル=ガラドはエルロンドのグラスに、ビンの中身を注ぐ。
「ハーブティーを冷やしたものだ。きみでも飲める」
 言われてグラスを口許に持っていく。なるほど、スパイシーなハーブの香りが鼻腔をくすぐる。
 ギル=ガラドはそれをエルロンド用にエルロンドの手元に置き、自分は本物のワインをグラスに注いだ。
「人間とエルフの違いを言えるかね?」
 突発的な質問に、数秒思考をめぐらし、エルロンドは静かに口を開いた。
「決定的な違いは、死、です。人間には有限の命しか与えられておりません。
そして、死した人間がどこに行くのか、誰も知りません。
エルフには無限の命があり、肉体の死を迎えたとしても、魂はマンドスの館に集められます」
「そうだ。そこからくる生き方の違いがわかるか」
「生き方の違い……ですか」
 違いはさまざまにありすぎて、すぐにはどのことを言っているのか答えられない。
エルロンドが答えられないことを、ギル=ガラドは想定していたのだろう。
しばらく考える時間を与えてから、落胆するでもなく言葉を足した。
「人間には死が訪れる。遅かれ早かれ、必ず死ぬ。戦時下でなくとも、確実に数は減るのだ。
人間という種族が存続するためには、数を増やさなければならない。
数を増やす、という事が、どういうことかわかるか」
「子孫を、残す、ということですか」
「そうだ。だから、人間には、我らエルフより、子孫を残そうという思いが強くある。
生殖活動に対する欲望だ。それは、種としての本能であり、軽視すべき事ではない」
 これは、生物学としての人間論なのだろうか。
戸惑いながら、エルロンドは香りよいハーブティーを口にする。
「我らエルフの生殖に対する欲望は低く、心惹かれる相手があってはじめてその欲望が目覚めるといってよい。
キアダンらのように、己の手工に喜びの全てを感じられる者は、その欲望を持つことがない。
だが、人間は違う。そんなことをしていたら、種族が滅んでしまうからだ。
己の趣味趣向に関係なく、肉体がそれを求める。そういう種族なのだ」
 ギル=ガラドは一度言葉を切り、己のグラスにワインを注ぎ、それで喉を潤した。
「エルロンド、きみはエルフとして生きる道を選んだ。その時から、きみは永遠の命を約束された。
だが、きみの体の中には、さまざまな血が流れている。マイアであるメリアンしかり、人間の血もだ」
 エルロンドがギル=ガラドを凝視する。
「きみには、特別な力がある。己も気づかない力が。
今は、人間の血の記憶が、きみを悩ませているのではないかと思う」
「そんなことは……」
「では、きみの心そのものだ。人間でもエルフでも、成長には過程がある。
幼子はその必要性から親の愛情を求める。肉体が成熟し、保護が必要なくなると、自立しようとする。
伴侶を持ち子孫を残したい、武勇をあげたい、趣向を凝らした作品を作り上げたい…様々な。
きみは今、肉体の成熟期にある。本来のエルフの生き方なら、
きみは学問に没頭する事で喜びを得、問題はないだろう。
が、きみの人間の血が、人間の欲求、本能が、目覚めているのではないか」
 じっと聞き入っているエルロンドは、自分は欠陥があるのだと告げられたかのように、眉を寄せる。
「人間の中にあっては、それを解消する方法を誰かが教えてくれるだろう。
誰もが持つものであるから。ここではそれは理解されにくく、きみ自身不快なものと思うかもしれない。
私は、きみのそれを肯定するためにここに呼んだのだ」 
 ギル=ガラドの目が、どうぞハーブティーを飲みなさい、と促す。
エルロンドはグラスのそれを飲み干す。ギル=ガラドは立ち上がり、誘うように片手を出す。
エルロンドはその手を取った。
「来なさい。教えてあげよう」 



 ああ、あのお茶に、体と頭を麻痺させる何かが入っていたのだ。
 エルロンドはぼんやり考える。
 そうでなければ、こんな恥ずかしいことを、受け入れられるわけがない。
「恥ずかしい事ではない。誰もが持つ肉体の欲望だ」
 耳元の声に、背中が震える。
「自分で自分の欲望を対処する方法を学ぶのだ」
 応えは吐息となり、エルロンドはギル=ガラドに体を預けた。

 ふと気がつくと、ベッドの上に座り込んでいる自分がいる。先ほどの行為を思い出し、顔が熱くなる。
「私が教えるのは一度だけだ。これからは自分で処理するように」
 ギル=ガラドは平然としていて、エルロンドに服を整えて自室に戻るように促す。
「あ……の」
「うん?」
「ギル=ガラド王も……このようなこと…ご自身で…?」
 若きエルロンドの質問に、ギル=ガラドは唇を吊り上げて、ニヤリと笑って見せた。
「私に性欲はない」