その後、アラゴルンは諸国遍歴の旅に出た。ソロンギルを名乗って。

 

 

 

 アラゴルンのヌメノールの血は、彼の長寿を約束していた。

 10年でも、20年でも、彼は若々しいままでいた。

 

 自分でも、他の人間よりゆっくり年を取っていくのを感じていた。

 

 10年以上も偽りの名を語り、旅の途中ふと泉のそばで休息を取った。
何気ない休息であった。

 泉の水を飲もうと、その湖面を覗き込んだ時、
アラゴルンはそこに年を経た自分の姿を見た。

「・・・・・・・・」

 今まで何度も自分の顔は見て知っているはずなのに
・・・・そこに映った疲れた男の顔に見入る。

 その男の顔は、疲れていた。

 どんなに年を取るのがゆっくりであるとはいえ、
確実に年輪を顔に刻み付けている。

 

 どんな血筋を持とうと、エルフではないのだ。
必ず老いはやってくる。

 

 アラゴルンは勢いよく冷たい水で顔を洗い、
外套に身を包んで横になった。

 

 年を取っていく。

 年老いていく。

 

 いつになったら、約束は果たせるのだろう?

 50年先か、100年先か・・・。
どうしたら約束は果たせるのか。

 もし何もかも上手くいって、
自分が本当のあるべき地位を手に入れたとき・・・・。
その時自分は、どれだけ年老いているのだろう?

 年老いた人間を、
年を取ることのないエルフの姫は、愛せるのだろうか?

 

 彼女にとって、自分は、あの日出会ったときのまま。
時間を止めているのではないか。

 

 アラゴルンはぎゅっと外套を引き寄せ、目を閉じた。

 

 

 

 

(おや、こんなところに人間がいますよ)

(死んでいるのでしょうか?)

 眠っているのだろうか。だとしたら、これは夢なのだろうか? 
アラゴルンは、閉じた瞳の向こうに人影を感じた。
目を開けることも、動くこともしない。

 あれは、エルフの言葉だ。

 死んだ人間だと思わせておけばいい。

(さあ、人間はすぐに死んでしまうからね)

 ひときわよく通る声が、軽い口調で言う。

(どうします? 埋めてやりますか?)

(いいよ、放っておけば。それに、死んでいないかもしれないし)

(なら、病気か何かで?)

 何かがそっと外套の上に触れる。

(いいのですか、王子?)

(うん・・・・お前たち、先に行っててくれないか)

(いけません! 王子、また人間に関わるなど!)

(そうです! 王に叱られます!)

 透明な声が、くすくすと笑う。

(すぐに追いつくよ。一日くらいの距離、私にはなんでもない)

(ですが・・・)

(先に行ってなさい。
もし私より先に森に帰ったら、王には適当に言い訳をしておいて。
途中で小鳥を追いかけていってしまったとか、
迷子のウサギに子守唄を歌っているとか)

(王子・・・)

(心配はないよ。
もしこの人間が生きてて殺意を持っていたらね、
一瞬で私が切り裂いてしまうから。
それとも、私の腕を疑っているのかい?)

(とんでもない!)

(なら、行きなさい。命令だよ)

 ため息をこぼし、気配が去っていく。

 残ったたった一つの気配は、
丸くなっている人間の傍らに腰を下ろした。

(何をしているんだい? 怪我でもしたの?)

(・・・・・・・・)

 アラゴルンは答えない。

(道に迷ってしまったのかな?)

 子供か小動物にでも話し掛けるような口調。

(・・・・お前は、どうしてここにいる?)

(イムラドリスの帰りだよ。
君がいなくても、僕は使者として時々谷に行くんだ)

(ここは、街道からずいぶん離れている)

(そうだよ。僕が街道なんか通ってまっすぐ帰ると思う? 
せっかく遠出してきているのに。
いろいろ回り道をして、世界を歩いているんだ。
従者たちは不満みたいだけどね)

 アラゴルンは、ぶるりと身震いをした。

(寒いのかい? どこか、悪いの?)

「どこも悪くない」

 目を開けて、そのエルフを見上げる。

「・・・・・今、俺の心に話し掛けたか?」

「いいや。僕にはそんな力はないよ。
ちゃんと口でしゃべって、君は言葉でそれに答えていたよ」

 微笑んで、レゴラスはアラゴルンのもつれた髪を撫でた。

「まるで・・・心に話し掛けられたみたいだった」

「嬉しいね、そんなふうに感じてもらえるなんて」

 自分の髪を撫でる、白いその指をそっと握ってキスをする。

「よく、俺だってわかったな。こんなに年を取ってしまったのに」

 一瞬目を見開き、レゴラスはおかしそうに笑った。

「どうしてわからないなんて思う?」

「俺は・・・・お前と出会った時の子供じゃない」

「そりゃあそうだよ。成長しているんだもの。
芽吹いた双葉は、いつまでも双葉のままじゃないよ。
大きな葉を付け、育って、大木になるんだ」

 人間の成長を、当たり前のように言うんだな。

 アラゴルンは、重たい体を起こした。

「俺は、醜く年老いていく」

 何を言っているのか。
レゴラスはアラゴルンの瞳を覗き込む。
その瞳は、疲れて輝きを失っている。

「・・・・バルドがね、
あと2年もしたら王位を息子に譲るのだと言っていた。
英雄バルドも、ずいぶん年をとったよ。
でも、僕は彼を醜いなんて思わないよ。
老いることは、いけないことなのかな?」

 膝を引き寄せ、
出会ったときから少しも変わることのない
エルフの端正な顔を横目で見る。

「年を取らないエルフには、有限の儚さはわからない。
俺は、エルフに恋をすべきではなかったんだ。
俺は年老いていく。だが彼女は変わらない。
永遠に美しいままだ。釣り合いが取れるわけ、ない」

 レゴラスは、両手のひらでアラゴルンの頬を包み込んだ。

「不安、なんだね? アルウェンに会った? 
彼女に、直接聞いてみた?」

「会っていない。会わせてもらえない」

「なら、会いに行くべきだよ。
その胸の内の愛が、偽りのものなのか、幻なのか、
会って確かめるべきだ」

「簡単に言う」

 レゴラスの手を振り解くように、頭を振って横を向く。

「レゴラス、どうしてお前は、いつも俺の前に現れる? 
会いたいと願っていると、お前はいつでも現れる。
約束もしていないのに」

「さあね」

 細く笑って、レゴラスはアラゴルンの顔を自分の方に向けた。

「レゴラス・・・・友情は、変わることがない?」

「ないよ。君が白髪の老人になっても。僕はずっと君の友だよ」

 汚れた手をのばして、レゴラスの頬に触れる。

「秘密の話をしてもいいか?」

 緑色のレゴラスの瞳が、すっと細まる。

「お前を、抱きたい」

 

 

 

 永遠の体を抱いたとしても、永遠は手に入らない。

 たとえその体を内側から切り裂いても、永遠は手に入らない。

「俺はもう、アルウェンを愛する資格なんか、ない」

「どうして?」

「俺は友を、この手で辱める」

 アラゴルンの腕の下で、レゴラスは哀しく微笑んだ。

 

 罪を重ねるのだ、と、エルロンドは言った。

 

 体を重ねることは、罪なの?

 

 なら僕は、どうしようもない罪をたくさん背負っている。

 僕は・・・・谷のエルフを誘惑した。
谷の主を誘惑し、欲情を引き出した。
そして、崇高なる血筋の人間をも・・・・。

 

「君がアルウェンを愛する資格を失うなら、
僕も森に帰る資格を失う。

 ねえ、アラゴルン、

 もし僕に魔法が使えたら、

 僕は君を眠らせてしまうよ。

 百年でも、千年でも。

 君が自分の名前も、血統も、すべきことも、
かつて愛していたものも、すべて忘れるまで、
僕は君を眠らせておく。

 君が、僕だけしか見えなくまで。

 そして、深い深い森の奥の迷宮に、君を閉じ込めておくよ。

 僕は、眠る君の隣で朽ち果てる」

 

 

  歪んだ王国に 僕たちは住んでる

  歪んだ鏡を 守ってる

 

  歪んだ王国の 歪んだ鏡に

  僕と君だけが まっすぐに映る

 

  広間に差し込む 日差しの角度は

  凍りついたように 幾千年動かない

  他に誰もいない ふたりだけの国で

  翡翠の玉座に 君をそっと座らせて

 

  やさしく君の目に 目隠ししてあげよう

  白い首筋に キスをあげよう

 

  歪んだ王国に 僕たちは住んでる

  他に住めるところが ふたりにはない

 

  ここだけガラスの 美しい花が咲き

  泉は歌い 風はまどろむ

 

  広間の地下には 巨大な迷宮

  一筋の光も 射さない闇の底

  死者のざわめきと 身もだえ泣く声

  錆び付いた仮面と 砕かれた時計たち

 

  だけど君は何も 知らないままでいい

  震えてお休み 僕の腕の中で

 

  翼ある鳥は 翼をもぎとれ

  世界へと続く 通路を閉ざせ すべて

 

  そして僕たちは 王宮の床に

  輝く偽りの 歌を刻みつけた

 

  『君を永遠に 僕は愛し続ける

   君だけを僕は 愛し続ける・・・・・』

 

                 (谷山浩子「王国」)

 

 

 歌うレゴラスの唇に、そっと口づける。

 偽りの愛だというのか。

 それでもかまわない。

 深くその体に身を沈め、やりきれない欲望のままに抱きしめる。

 歌を紡ぎだす唇が、吐息を吐き出す。

 官能の喘ぎは、アラゴルンの耳の奥を支配する。

「歌ってくれよ、もっと」

 激しく攻め立てながら囁く。

 彼の中は、暖かい。

 暖かく包まれて、感覚を失う。

 

(それで、あなたの疲れた心が、一時でも癒されるのなら)

 

 レゴラスの中で、誰かが呟く。

 哀しげな目をした、美しい女性(ひと)。

 

 ああ、エルロンドに、抱かれたのだな?

 

 レゴラスの体内に包まれながら、そんなことを思う。

 

 道に迷い、疲れ果てた男を優しく見守る女。

 彼女には、どうすることもできない。

 ただ、見守ることしかできない。

 なぜなら、

 それは男の業だから。

 

(許してくれるのか?)

 

 哀しく微笑む女は、エルロンドの妻であり、アルウェンの母親。

 

(そう、あなたは強いのだな)

 

 そして、その微笑みはアルウェン、そのもの。

 

「レゴラス・・・」

 いったい何人が、彼の中に自分を見たのだろう?

「レゴラス」

「もっと深く、僕の中においで・・・・」

 促されるままに、更に奥へと、深い場所まで滑り込んでいく。

 赤ん坊が、母親の胎内に戻っていくように。

「・・・・そう・・・・そして眠りなさい・・・・・
僕の中で・・・・」

 

 これは、偽りの愛なのだ。

 誰も、レゴラスの心を手に入れることはできない。

 なぜなら、

 彼は一片の木の葉なのだから。

 レゴラスが父王に見せる、あの暖かな眼差し、
柔らかな風の吹く木立で見せる、あの安らいだ表情
・・・・それらを向けられることは決してないのだ。

 どんなに求めようと、どんなに欲しようと・・・・。

 それは、一瞬の癒しでしかない。

 涼しい木陰を与えてくれる大木が、
決して自分のものにはならないように。

 

 でも・・・ああ、なんて罪深き存在。

 はじめて見た、レゴラスの官能の表情は、
グロールフィンデルの腕の中だった。
そして、エルロンドの記憶をその体内に宿している。

 なのに俺は・・・・・お前を抱く。

 そんなことをしても無意味だと語った唇が、
欲情の熱い息を零している。

 

 何もかも忘れて、二人だけの世界で、世界の破滅を見届けよう。

 

 俺は、たった一つの愛を捨て、お前は、唯一の安らぎを失う。

 

 それでも・・・・・

 お前がいてくれれば、それでいい。

 

 彼の一番深い所に欲情を吐き出す。

 レゴラスは小さく喘いで、その身を震わせる。

 自分を一度引き抜いてから、
熱い液体を体の中に宿した彼の、
燃え尽くせない中途半端な彼自身を銜え込む。

 どうしても欲しかった。

 ただ犯すだけじゃ意味がない。

 意味をもたせるのは、レゴラスの欲望の体液。

 アラゴルンの体液でぬめる秘所に指を滑り込ませ、
やわらくなっているそこをぐちゃぐちゃとかき混ぜる。
そうしながら、唇で刺激を与え続ける。

 

 こんなふうに、誰かに抱かれたか?

 エルロンドは優しかったか?

 グロールフィンデルには、
こんなことをされなくても欲望を見せたのか?

 

「あ・・・・だめ・・・・・」

 激しく身をよじりながら、レゴラスが仰け反る。

 金色の髪が、草にまみれ、緑のにおいが漂う。

 さらい激しく攻め立てていく。

 と、突然レゴラスは押し殺した悲鳴をあげた。

 

 口の中にひろがる、欲望の香り。

 

 それをゆっくりと味わうように飲み下し、
脱力するレゴラスを見下ろす。

 

 なぜいつも、抵抗しない?

 こんな背徳的な行為に。

 それを、肯定しなんかいないくせに。

 

 レゴラスの瞳は、ぼんやりと空の色を映している。

 

 なぜここにいる?

 俺は・・・・・

 トゥーリンのように、
自分を救いに来たベレグを殺してしまったのか。

 

 いつも、

 いつも、俺はレゴラスを裏切り続ける。

 殺し続ける。

 

 レゴラスの白い胸が上下して、
草の匂いのする空気を吸い込み、吐き出した。

 上から覗き込むアラゴルンの首に、
投げ出されていた腕を巻きつけ、引き寄せる。

 そして、高潮した頬をアラゴルンのうなじに摺り寄せた。

「僕のエステル・・・・・僕の、可愛いエステル。
何が欲しいの? 何でもあげるよ。
何も知らないと言っては、不安に泣き、
運命が重過ぎると、また泣くんだね。
可愛い僕のエステル。
はじめて出会ったときの様に、僕の腕の中でお眠り。
大丈夫。僕はずっと君のそばにいるよ。
だから、お休み」

 胸が詰まり、
自分が汚してしまったエルフをまた乱暴に抱きしめる。

 レゴラスの指が、アラゴルンの髪を撫でる。

「たとえ殺されるとわかっていても、
きっとベレグはトゥーリンを救いに行った。
だって、自分の命より、友を愛していたのだもの」

 目を閉じると、アラゴルンはそこに魔法の王国を見た気がした。

 二人だけで暮らせる場所。

 どこにあるんだ?

 俺は、そこに行けるのか?

 何もかも、忘れられる場所・・・・・。

 

 それは、レゴラスの腕の中。