アラゴルンと呼ばれる青年は、5年ぶりにイムラドリスに帰ってきた。

 アルウェンは、その前に故郷ロスロリアンに呼び戻されていた。

 懐かしき谷で、エルロンドにガンダルフを紹介される。

 彼の新たなる運命の幕開けを意味する出会いだった。

 

 ガンダルフと共に、灰色港のキアダンに、
そしてロスロリアンのガラドリエルに接見する。
アラゴルンは、ロリアンの森でアルウェンに会えることを期待したが、
それは無駄だった。
アラゴルンがロリアンに行き着く前に、彼女はイムラドリスに呼ばれていた。

 まるで、アラゴルンに会わせる事を避けるように。

 

 ロリアンの森を出ると、ガンダルフは、今度は闇の森に行くのだと告げた。

 闇の森の王、スランドゥイルに紹介する、と。

 

 季節は、秋を迎えていた。

 ロリアンの秋の風景は、それは美しいものだった。

「ここと同じ景色を闇の森に期待してはいけない」

 ガンダルフは、そう言って笑った。

 

 途中寄った人間の街で、アラゴルンは子供の歌を聞いた。

 

 

 

 光の中で見えないものが

 闇の中に浮かんで見える

 まっくら森の闇の中では

 昨日は明日

 

 魚は空に

 小鳥は水に

 鏡が歌う

 まっくら森は不思議なところ

 

 どこにあるのか

 みんな知ってる

 どこにあるのか

 誰も知らない

 まっくら森は 動き続ける

 

 

                  (谷山浩子「まっくら森の歌」)

 

「不思議な歌ですね」

 宿屋で休息を取りながら、外で遊ぶ子供たちを眺める。
ガンダルフは苦笑した。

「人間にとって、エルフの森は不思議なところじゃ。
ああやって歌に歌って、むやみに足を踏み入れることを牽制しておる。
闇の森のエルフ王は気難しいしな。
だが実際恐ろしいのは、森のエルフではなく、森に巣食う邪悪な生き物じゃ。
人間には、その区別はつかん。
この辺の街は、ほとんどスランドゥイルと同盟関係にある。
エスガロスのようにな。
自分たちに干渉させない代わりに、スランドゥイルは人間の街を守っておる。
もし敵襲を受ければ、スランドゥイルは迷わず兵を出すじゃろう。
それが、ロスロリアンとの決定的差でもある。
ロリアンの森は魔法に守られている。
人間は決してたどり着くことはできない。
他のエルフの国と国交があり、古の運命によってサウロンを牽制し、
監視している。
スランドゥイルの王国は、それらをすべて放棄している。
代わりに、人間と共生しておる」

 闇の森の、不思議なエルフ。

「レゴラスに会ったことはあるのじゃろう?」

 一瞬奥歯をかみ締め、口元を歪める。

「幼少の頃に」

「レゴラスは人懐こい。陽気なシルヴァンじゃな。
だがな、王の面前でそれを期待してはならぬぞ。
レゴラスには、シンダールの王の子として己と、
森と自然を愛するシルヴァンの己の二面性を持っている。
よいか、くれぐれも、王の前で気安くレゴラスに話し掛けてはならん。
王子としての尊敬を表すように。
それは、レゴラスのためでもあるのじゃ」

 

 

 

 

 アラゴルンは、ガンダルフの言葉の意味を、すぐに理解した。

 闇の森の、窒息しそうな空気。うじゃうじゃしている闇の生き物。

 途中、斥候に出会い、ガンダルフは用件を述べた。
すでにレゴラスが王を説得しているはずである。
ガンダルフの期待どおり、二人は難なく王宮に案内された。

 玉座の間に案内された時、
アラゴルンは再びガンダルフの言葉をかみ締めた。

 スランドゥイル王の頭には、木の実をつけた秋のつる草が戴かれている。
今まで、そんな宝冠を見たことがなかった。
エルロンドでも、その他のエルフでも、
美しいミスリルのサークレットをつけていた。

 そして・・・・・王の後ろに立っている青年。

 エメラルドのような緑色の瞳。
動きやすそうな簡易でシンプルな服装からは、
王族の威厳がにじみ出ている。

 威圧される。

「レゴラスから話は聞いておる」

 王は片肘をつき、ガンダルフとアラゴルンを見据えている。

「厄介な者を連れてきたな、ガンダルフ? 
わしは人間の王になど興味はない」

 頭をたれたアラゴルンは、
自分の指先が小さく震えているのに気がついた。

「では、こう考えたらどうです? 
この者はドゥネダインの族長で、ホビットの村を守っているのだと」

 軽快なガンダルフの言葉に、スランドゥイルは声を出して笑った。

「ビルボは元気か?」

「今は安泰の生活を送っていますよ。ホビットの丸い穴の中でね」

 笑いながらも、スランドゥイルはアラゴルンに視線を移した。

「して、その族長はわしに恐れをなしているように見えるが? 
それとも、それがイムラドリスの流儀か?」

 敵対しているのだ。

 今は和平を結んでいるとはいえ、
スランドゥイルはエルロンドらを嫌っている。
アラゴルンは直感した。

 ゆっくりと目を上げると、レゴラスは唇を結んでアラゴルンを見ている。
その表情から、感情は伺えない。

「お言葉ですが、私は何者も恐れてはおりません」

 伏せ目がちに王を見上げる。

「では、何故に震えておる?」

 震えている・・・・。その指を、ぎゅっと握る。

「・・・感動しているのです。
これほどの闇の中に君臨する、エルフ王に。
その威厳に、畏怖さえ感じます」

 スランドゥイルは、また声を出して笑った。

「できすぎた答えだ。世辞は好かぬ」

「決してお世辞などでは」

 意志の強い目を向けると、スランドゥイルは鼻で笑った。

「まあよい。レゴラス、ドゥナダンに部屋を用意してやれ。
わしはガンダルフに話がある」

 一言も口を開かなかった王子は、王に軽く頭を下げ、
アラゴルンについてくるように目配せした。

 

 連れだって長い廊下を歩く。

 アラゴルンは、レゴラスの名を呼ぶこともためらった。
ガンダルフの言いつけだからである。
スランドゥイル王は、自分と王子の関係を知らないように見えた。

 客間のドアの前で立ち止まり、レゴラスは振り向いた。

「シルヴァンの耳は鋭く、この王宮には内緒話をする場所もありません。
イムラドリスとは違います。
ここにいる間、不用意な言葉は避ける方が無難でしょう」

 ガンダルフと同じことを言う。

 レゴラスには、話したいことがあった。
子供のときのように、自分の見てきたこと、今の生活、
・・・・恋をした姫のこと、何でも口に出したい衝動に駆られる。
だが自分はもう子供ではない。深くそれを押し留める。

「ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

 渦巻く感情を表に出さないように注意を払いながら、
アラゴルンは口を開いた。

「王の冠・・・あれは、生きた植物なのでしょうか」

 どんな言葉も覚悟していたレゴラスは、
ふと安心したように表情を緩めた。

「そうです。それが?」

「いえ、あのような美しい冠を見たことがなかったもので」

 褒められて、レゴラスが微笑む。

「王はガンダルフと人間の来訪を楽しみにしておられました。
ですので、今朝、私が宝冠を編みました」

「王子自ら?」

 レゴラスの笑みは、誇らしげで優しい。

「冠は、枯れることはないのでしょうか?」

「王の戴きに乗っている間は」

 エルフの不思議な力。

 森を、自然を、守り育てる。

「明日の朝・・・
夜明けと共に王宮の外の木立に行かれるとよろしいでしょう。
こんな闇の森でも、王の加護の中では美しい夜明けが見られますよ」

 そう言ってレゴラスは部屋のドアを開け、
アラゴルンに入るように指し示した。

 

 

 

「さて王よ、あの者を認めてくださるかな?」

 率直なガンダルフの言葉に、スランドゥイルは苦笑する。

「わざわざおぬしが連れて来たのだ。そうなのであろう」

 ガンダルフも笑って見せる。

「わしの大切な木の実をついばみ、
持ち去ってしまうのはあの人間なのだろうな」

 ガンダルフは曖昧に口元をゆがめて見せる。

「それは、予見、ですかな?」

「いや。わしにはそんな力はない。これは父親の直感、だな。
わしはこの森で、ただ安泰な生活を望んでいる。
だがな、息子は違う。オロフェアの血を感じるぞ。
あれは、闇を追い払わねば、真の安泰は訪れないと考えておる。
だからわしの反対を押し切ってまでエルロンドと和解をしたがった。
そして、成功を収めた。
その意気で、時がくれば闇に立ち向かって行くだろう」

 スランドゥイルは、父親の表情で遥か彼方を見つめる。

「人の王と共に。スランドゥイル王、王は王子を引き止めますかな?」

 見えない敵を見据えていたスランドゥイルは、
ガンダルフに視線を移した。

「あれは、この森の生んだ種、だ。
やがて風に乗り、どこかに飛んでいくだろう。
そして、新たな地で芽を出す。
わしの父がそうしたように。止めることはできぬ」

 

 

 

 疲れていたのか、それとも、この王宮の空気が安らぎをもたらすのか、
アラゴルンはすぐに深い眠りにつき、そして夜明け前に目を覚ました。 

 部屋を出て、王宮を出て、教えられた木立に向かう。

 そこでは、夜露に朝日があたってきらきらと輝いていた。

 一面の宝石箱のように。

 感慨にふけりながら、露に足を濡らして歩く。
前方に、日の光とは違う、柔らかな輝きを見つけて、
そっと近寄る。

 闇の森の王子は、露を含んだ蔦を切り取り、
白く細い指で器用に編んでいた。

「ロスロリアンには、枯れない花があると聞くけど」

 振り向かないまま、レゴラスは言った。

「ああ。枯れることのない花が咲いている」

「キレイなのだろうね?」

「それはもう」

 数歩手前で、アラゴルンは足を止めた。
レゴラスが顔を上げる。

「見てみたいな。いつか」

 無邪気に見える笑みは、いつしかの秘密の中庭と同じ。

「でもね、アラゴルン」

 片手を伸ばして、色づく木の実を取る。

「昨日はこの実はまだ緑色だった。この葉も。
一日、一日、色付いていく。
やがてすべての葉を落とし、春には瑞々しい黄緑色の新芽を生み出すんだよ。
変化し続けるもの、僕は好きだな」

 変化し続けるもの。それは、人間のことを言っているのか。

「・・・レゴラス・・・俺は・・・」

「約束」

 丁寧に木の実や紅葉を編みこんでいきながら、
レゴラスはさえぎるように囁いた。

「守っているね?」

「・・・ああ。俺は・・・自分の道を歩いている」

 嬉しそうに笑うレゴラスの表情に、陰りはない。

 アラゴルンは、自分はレゴラスを裏切ってしまったのだと、
ずっと思っていた。
あの夜、この気持ちは絶対に変わらないと宣言したのに
・・・彼の不在の間に、美しい姫に恋をした。

「それでいい。うれしいよ。
ちゃんと、自分が何者であるのか見据えて、行動できるようになって。
僕も、約束を守るよ。君への友情をね」

 最初から、そう言っていたではないか。

 レゴラスは、最初から。

『友達』だと。

「レゴラス・・・・・」

 許してくれるのか。
そう思う心に、レゴラスは肯定するように微笑んだ。

 

 話したいことはいろいろあったが、
今はまだ、どれも口にする時ではない。
アラゴルンは、そう考えられるようになっていた。
ただ、そばに立って、彼が仕上げていく美しい冠と、
その指の動きに見惚れる。

「レゴラス」

 背後から声をかけられ、アラゴルンは驚いて振り向いた。

「父上」

 レゴラスの笑みが深まる。

 ゆるりとしたローヴを身にまとった王が、ゆっくりと歩いてくる。
昨日のような緊迫した雰囲気はない。
レゴラスに似た、柔らかな金色の髪を朝の露に濡らしている。

 美しい王だ。

 アラゴルンは、一歩後退り、軽く頭を下げた。

「見てください、新しい冠を編んでいました」

 嬉しそうに父親に冠を差し出す。
スランドィルの笑みも、慈しみに溢れている。

 レゴラスは、父の頭に、今できたばかりの冠を乗せた。

 早起きのツグミが、親子の周りを飛び回る。

「こら、この実を食べてはダメだよ」

 笑いながらレゴラスがツグミに手を振る。

「冠がはげてしまう」

 スランドゥイルはおかしそうに笑った。

「ぬしの羽も、冠の一部とするか」

「いっそ、ツグミの巣を冠にしてしまってはどうです?」

「うむ、一日中ツグミのおしゃべりを聞いていなければならないな」

 レゴラスは楽しそうに笑い、
ツグミに指を差し出してそこに留めた。

 

 アラゴルンは、レゴラスの言葉を思い出す。

(僕は、僕の国にのみ従属している。
誰のものにもならない。
僕が忠誠を誓うのは、我が王だけだ)

 本当に、父王を愛しているのだ。

 エルロンドがどんなに望もうと、自分がどんなに欲しようと
・・・・グロールフィンデルがどんな屈辱を与えようと、
レゴラスのこの絆を断ち切ることはできない。

 樹木が大地に根を下ろすように、レゴラスはここに生きている。

 切り離すことなど、不可能なのだ。

 

「ドゥナダンと密談か?」

 ツグミは、王の肩に居場所を移していた。

「ええ、そうですよ」

「おおかた、わからずやの王の悪口でも言っていたのであろう」

 おかしそうに、レゴラスはくすくすと笑う。
アラゴルンに緊張がはしる。

「まあ、そんなところです。
闇の森の王は、いつまでたっても人間の名前を覚えないとね」

 何を言っているのか? 
アラゴルンは体を硬くしながら眉を寄せた。

「意外と純情だな。困っているではないか」

 レゴラスは笑い続ける。

「父上のようにずうずうしくはありません」

「そんなことで、人間の王など勤まるものか! 
エルロンドに保護されていたと聞いたが、
あそこのノルドールのように姑息なのかと思っていたがな」

「ほらまた、父上が怒鳴るから。
そのうち、アラゴルンは小さくなって
アリの巣に逃げ込んでしまうかもしれませんよ」

 からかわれているのだ、と、アラゴルンはやっと気がついた。

 イムラドリスでも冗談の好きなエルフはいたが、
主自らふざけることはなかった。
ましてや、これほど親子でふざける姿など・・・・。

「闇の森のエルフ王は、冗談も解せぬと思ったか?」

「人間たちは・・・・闇の森のエルフ王を恐れています」

「そうだろうな。不届き者は、すぐに地下牢行きだ」

「私も、いたずらをして何度閉じ込められたか」

「お前は、ちっとも反省しないがな。
で、本当は何の話をしていたのだ?」

 急な切り返しに、レゴラスは神妙に笑みを作り直した。

「・・・・約束を」

「約束?」

「ええそうです。
父上もご察しのとおり、私はイムラドリスで人間の子供に会っています。
そのとき、友達になると約束を」

 息子と、アラゴルンの顔を交互に見る。
アラゴルンは、怒られるのではないかと覚悟をした。

「友が多いのはいい」

 王の言葉に、止めていた息を吐き出す。

「では父上、アラゴルンを私の友として迎え入れてくださいますか?」

 王が肩を落としてため息をつく。

「お前は、本当にどうしようもない放蕩息子だ。
よいだろう。認めてやる」

 策が成功したように、レゴラスは輝くように笑った。

「スランドゥイル王・・・・・本当に・・・よろしいのですか」

 おずおずと言うアラゴルンに、スランドゥイルは鼻を鳴らした。

「こうと決めたら、何があっても意地を通す息子だからな。
して、アラゴルンと言ったな? お前はどうなのだ?」

「もちろん」

 無意識に語尾が強まる。

「レゴラス殿に友情を尽くすと約束します」

 真意を探るようなスランドゥイルの鋭い視線が、柔らかになる。

「今度森に来る時は、ホビットの情報を持ってきてくれ。
わしは、ビルボ・バキンズと友の約束をした。
だが、遠すぎて何かあっても手を貸すこともできぬ」

「わかりました」

 思いがけない王の言葉に、アラゴルンは細く笑む。

「戻って朝食の支度をさせよう。ガンダルフが探しているかもな」

「父上、私はもうしばらくここにいますよ。朝露が消えるまで」

「いつものことだろうが。好きにしろ」

 背を向けたスランドゥイルは、ちらとアラゴルンを見た。

「好きなだけ内緒話でもしているがいい」

 新しい宝冠を頭に乗せ、ツグミを肩に乗せたまま、
スランドゥイルは王宮に戻って行った。

 

 その姿が見えなくなると、改めてレゴラスはアラゴルンに向き直った。

「じゃあ、話をしようか。君が、あれから何を経験したのか。
どんなことを学んだのか。いつかみたいに、僕に聞かせて」

 微笑んで頷き、アラゴルンは木の根元に腰を下ろした。