ドゥネダインとの接見には思いのほか時間をとられた。

 アラゴルンと接触し、今、行動を共にしている。
アラゴルンは、エルフの生活しか知らない。その彼に、人間の生き方を教えている。
エルフと人間では、その行動に大きな違いがある。
人間には、欲望というものが備わっており、
エルフのようにそれを処理することはできない。

 アラゴルンは、人間なのだ。

 エルロンドは、その報告を微細に受けた。
それは、エルロンドにとっても重要なことだ。
アラゴルンは人間の王としての血筋をもっている、
それ以上に、エルロンドの娘、エルフの姫と恋に落ちた。
アラゴルンの今後の生き方は、アルウェンにも大きく関わってくることなのだ。
娘は、己の恋をないがしろにはすまい。恋ほど強力な魔法はない。

 これは、運命なのだ。

 

 接見の後、エレストールとそのことを相談する。
エレストールは、この場にグロールフィンデルがいないことに腹を立てた。
呼び出したのに来ない、と。
館中を探し回るような無粋なことは、エレストールはしない。
エレストールも、
グロールフィンデルがそれ以上に重要なことに没頭しているだろう事は想像できたし、
グロールフィンデルを強制的に動かすことができないことはわかっていた。

 

 

 

 結局、エルロンドが開放されたのは夜半過ぎであった。

 アラゴルンのことも気にかかるが、今のエルロンドにはそれ以上の心配事がある。
レゴラスに、事務的にアラゴルンのことを教えただけで、退室させてしまった。

 

 今宵の月は、細く欠けている。

 エルロンドは、グロールフィンデルをすぐに見つけた。
彼の周囲には、黄金色の柔らかな光がまとっている。
館の裏、木立に続く中庭を見下ろせる小さなポーチに、その男は座っていた。

 ゆるりと近づき、その視線の先を見る。

 真っ暗な中庭に、その青年はいた。

 光をまとうこともない、力弱きエルフが、茂みの端に腰を下ろし、空を見上げている。

「いつから?」

 静かに問うて見る。
グロールフィンデルは視線を外さないまま、口元にわずかに笑みを作った。

「夕暮れ時から。彼の従者が探していましたが、適当に追い払っていましたよ」

 夕暮れ時から? 

 エルロンドは驚いたようにグロールフィンデルを見る。
その時から、ずっとお前は彼を見続けているのか・・・。

 エルロンドは小さくため息をついた。

「エレストールが立腹だ。
ドゥネダインの報告の場にも姿を見せず、話し合いもすっぽかしたと」

 笑んだままのグロールフィンデルの唇が、さらに笑いの息を吐き出す。

「アラゴルンが、人間の生活に戸惑っていると?」

「・・・・・それほど単純なことではない」

「物事は、すべて単純なのですよ。
周囲や本人がどう抗おうと、アラゴルンは人間である自分を認めなければならない。
彼が超えなければならない壁です。
壁といえば・・・・そこにいるちっぽけなシルヴァンもそう。あなたもです」

 光をまとったまま、すうっとグロールフィンデルは立ち上がった。

「エレストールのお小言を受けに行きましょう」

 すれ違いざま、エルロンドの肩にそっと触れる。

「エレストールは、今夜一晩、私が引きとめておきますよ」

 意味ありげにエルロンドの目を覗き込み、
笑みを残したままグロールフィンデルは館の中に消えていった。

 グロールフィンデルの背中に、困惑したため息を投げ、
エルロンドは中庭を見下ろした。

 

 

 

 暗がりの中に、暗がりに同化するようにレゴラスはうずくまっていた。

 ぼんやりとした視線は、何も映さない。

 乾いた唇が、かすかな歌声を紡ぎ出している。

 

  風のことばがきこえない

  きみは恋をしたんだね

  毎朝来ると 約束の場所に

  今朝は来なかった

  森の暗がりで 不思議な遊びをしよう

  いつものように笑って

  森へおいで ぼくの

 

  森へおいで 森へおいで

  きみを不安にさせない

  そんな不器用なキスの

  呪文を抜け出して

  ぼくと遊ぼう 約束どおり

  森へおいで ぼくの

 

 

 

                                      (谷山浩子「森へおいで」)

 

 わずかな月の光が落とすエルロンドの影に、レゴラスはそっと視線を向けた。

 エルロンドは、かける言葉を捜していた。

 エステルは・・・・アラゴルンは・・・・・・・

「エステルは、自分の道を歩き始めた」

 歌を紡ぐ唇が、不器用な言葉を発する。
きっと、会話を交わすより、歌の方がずっと彼の心を表す。

「・・・・そう・・・ですね?」

 エルロンドは頷いた。

 何を言っても、慰めにはなるまい。

 レゴラス自身、わかっていたことなのだ。
グロールフィンデルの言うとおり、これは、乗り越えなければならない『壁』だ。

「エステルを・・・・愛していた?」

「それは、幻です。もう、何も知らない子供はいません。
・・・・・わかっていたことです。私は・・・・幻に恋をしていた」

「恋は、消え去ったと?」

「いいえ、それ自体が幻。何があろうと・・・・私は彼に誓った友情を果たします」

 人間とは、なんと罪深い種族であるのか。

 結局は、人間にとってエルフとは風のようなもの。大地に根ざす木々のようなもの。

 大人になったエステルが、誓った愛は成就されるのであろうか。

 激動に生きる、有限の命を行き急ぐ彼らは、あらゆる誘惑に心を奪われる。

「本当の愛を・・・・見出したのですね、エステルは」

 本当の愛。

 形のないもの。

「レゴラス」

「大丈夫です。エルフにとって、人間とのふれあいはほんの一瞬。
私の永遠の中の、ほんの瞬きの間でしかありません」

 エルロンドは右手を差し出した。戸惑いながらも、レゴラスがその手をとる。

「来なさい」

 力強い指先に導かれ、レゴラスは立ち上がった。

 

 

 

 館の奥にあるエルロンドの寝室、更にその奥。今では封印された扉がある。

 誰も開ける事のできない扉。その鍵を持つのは、エルロンドのみ。

 封印を解く、短い言葉を口にすると、その扉はゆっくりと開いた。

 

 真っ暗な部屋の中にレゴラスを招き入れ、エルロンドは再び扉を閉じた。
封印の言葉が、扉に鍵をかける。

 厚いカーテンで覆われたその部屋に、
エルロンドはかすかなエルフの明かりを灯した。

 レゴラスは、うっすらとした明かりの中で唇を開き、
圧倒されたように頭をめぐらす。

 そこは、なんと美しい部屋であるか!

 淡い森の光を髣髴させるような、金と銀の装飾。
見事な彫刻、大きなタペストリー。

 レゴラスは吸い寄せられるように、壁にかけられたその織物に近づいて行った。
指を這わすと、滑らかな絹の手触り。それは、森の中の楽団が織り込まれている。
タペストリーの四隅には、見た事のない文様。

 いや、そのひとつは、知っている気がする。

「ここは、妻の部屋であった。
その織物は、私と妻の婚儀の祝いに、ガラドリエルが贈ってくれたものだ」

 震える指先で、レゴラスは文様に触れる。

「今君が触れている文様、それはシンゴルの家紋。左はトゥアゴンのもの」

 驚いたように、不思議そうにレゴラスが振り向く。

「私の母は、シンゴルの血を引き、父はトゥアゴンの血統だ」

 栄華を極めた、二つの種族。どちらも、今はもうない。

「己の血筋を忘れるな、そんな戒めだろう。
どんな生き方をしようが、どんな思想を持とうが、
私の中にはそれらの記憶が宿っている。
それは、フィンナルフィンの娘である自分が、
シンゴル王家のケレボルンと結婚したガラドリエル自身の戒めでもある」

 エルロンドは、そこでふと笑みをこぼした。哀しい笑みだ。

「しかし、私は両親の愛を、覚えてはいない。
ケレブリアンを愛する資格さえ、なかったのかもしれない」

 レゴラスは、エルロンドの視線を追う。
細やかな彫刻の施されたベッド。主を失ったベッドが、そこにある。

「妻は、そこで喜びを失ったまま、長い間横たわっていた。
そして、アマンへと赴いた。
私は、妻を救うことさえできなかった。
共にこの地を去ることさえ・・・・許されない」

 レゴラスは、冷えたベッドの上に指を走らせる。そして、そこに額を寄せた。

「・・・・・・違う」

 擦り寄るように、ベッドに体を預けると、そこには暖かな記憶が溢れていた。

「違います。奥様は、エルロンド卿をとても愛しておられた。
だって・・・・ほら、こんなに暖かな思念が残っている。
ここで愛し合えた事を、とても喜んでおられた。でも・・・・・」

 

 これは、罰、なのです。

 

 妻の言葉が、耳に届いた気がした。

 

 ノルドールである母、ガラドリエルの、
貴方にすべてを託したギル=ガラドの、これは、罰なのです。

 

 すべての罰をその身に受けたケレブリアンは、二度と微笑むことはなかった。

 愛を口にすることも。

 

 ベッドに横たわるレゴラスの隣に、腰をおろす。

 レゴラスは、まるで愛の告白を受けた少女のように、頬を染めていた。

「でも、きっと、私の受ける罰より、貴方の受ける罰の方が厳しいでしょう。
なぜなら、私はこれで開放されるけど、
貴方はまだずっと開放されることがないのですから。
でも・・・どうか忘れないで。私が貴方を愛していたことを・・・・」

 エルロンドは、レゴラスの頬に手を触れる。
レゴラスの口から、ケレブリアンが最後に言った言葉を聞いたとしても、
もう驚きはしない。

 自分が、繰り返し繰り返し、反芻してきた言葉なのだから。

 心を読まれたのではない。

 エルロンドの心を、鏡のように映し出されたのだ。

「私は、更に罪を犯そうとしている」

 そっと、レゴラスの唇に触れる。

「時間の止まったこの部屋で、君を愛したい。
名を捨て、業を捨て、束縛を解き放ち、何も持たない小さな存在として、
君に愛を語りかける」

 レゴラスは、不意に扉の方を見た。

「・・・・・外に、誰か・・・」

「誰もいない」

 エルロンドはレゴラスの顎を掴み、自分の方に向けた。

「誰もいないのだよ、レゴラス。君は、とても敏感なようだ。
グロールフィンデルのわずかに残った思念を読み取ったな?」

「?」

 己の敏感さに、レゴラスは気付いていない。

「妻がこの地を去った時、私は悲観に暮れ、3日3晩ここに篭った。
その時、グロールフィンデルはずっと扉の外にいて、私に夢を与えてくれたのだ」

「夢・・・・?」

「そう、夢だ。遠い記憶。
ゴンドリンの栄光の日々・・・・愛と喜びに溢れていた頃の記憶。
グロールフィンデルは、私の父であるエアレンディルを愛していた。
その母イドリルも、トゥオルも、グロールフィンデルのかけがえのない友であった。
その優しい記憶を、私に与え続けてくれた。
君が、さっき妻の残した思念を読み取ったように、
グロールフィンデルの残した思念の欠片を、感じたに過ぎない」

 それは、エルロンドの心に強く残る記憶。

「私は、ここにいるとき、強き指導者ではありえない。
己の弱さをさらけ出してしまう」

 もう一度唇に触れると、レゴラスはゆっくりと瞳を閉じた。

「今、私はイムラドリスの主ではなく、君は闇の森の王子ではない」

 ため息のような言葉を吐き出して、唇を重ねる。

 

 どんなにそれを切望したことか。

 開放されることのない呪縛を、ほんの一瞬だけ忘れる。

 

「夢・・・・を」

 優しい口づけに応えながら、レゴラスは吐息を漏らした。

 

 ああ、これは魔法だ。

 メリアンの、恋の魔法。

 すべてを忘れ、時を止める。

 空白の中に、

 愛する心を封じ込める。

 縛られることのない、裸の心。

 

 エルロンドの記憶が、流れ込んでくる。

 遠い記憶。

 哀しげな母の微笑み、

 兄弟の決断、

 上級王の力強さ、

 人間との友情、

 裏切り、

 恋、

 喜び、

 悲しみ、

 絶望・・・・・・・

 

 やがて、夢は未来を紡ぎだす。

 

 心を重ね、体の奥でエルロンドの存在を確かめながら、
レゴラスはその夢を共有した。

 

 耳元で囁く愛の言葉が、体中に満ち溢れる。

 

「あ・・・・・」

 

 押し寄せる快楽の波に、抗う事無く漂う。

 

 それが絶頂に達する時、まばゆい光と共にレゴラスはその映像を見た。

 

 

 

 

「?」

 エレストールと茶を酌み交わしていたグロールフィンデルは、
不意に頭を上げた。

「どうした?」

 さんざん文句を言って、エレストールはもう機嫌を直していた。

「エルロンドが・・・呼んだ・・・気がした」

 また、か。エレストールがため息をつく。

「君はエルロンド卿のことしか考えていないのだな。
エルロンド卿は、今何をされている?」

「もう、休んでいるはずだ。・・・・私を呼んだのではない、な。
夢を、見たのだ」

 眉根を寄せて、エレストールはグロールフィンデルを凝視した。

「君は、エルロンド卿と思念を通わせているのかね? 何が見えたのだ?」

 ふ、と、グロールフィンデルがおかしそうに笑う。

「私はそれほど強い思念を持ち合わせてはいない。
何か、強い衝動がエルロンドに与えられた。それを感じただけだ」

 エレストールが頭を振る。

「強い衝動? それは、何かの予見か?」

「たぶん」

「では、明日お伺いを立てることにしよう。
グロールフィンデルが貴方の心の動きを読んだ、とね」

 グロールフィンデルは冗談のように両手を広げて見せる。

「心を盗み見たとあれば、またエルロンドに嫌われてしまう。
黙っていてくれ」

 今更。エレストールは笑った。

 

 

 

 

 目を見開いたレゴラスは、その瞳にいっぱいの輝きを宿した。

「あれは・・・・・未来・・・・・?」

「見えたのかね?」

 体を起こして、エルロンドが問う。

「未来・・・・確かな、希望」

 ベッドの上で体を起こし、レゴラスは両手で顔を覆った。
全身が、喜びに打ち震える。

「・・・・・ああ・・・・光が・・・・・光をいっぱいに浴びた、森・・・! 
僕の、森!!」

 見開いた両目から、ぼろぼろと涙が溢れ出る。

「緑が・・・光に溢れる!」

 喜びを表現する言葉が見つからず、何度もしゃくりあげてエルロンドを見る。

「私にも見えた。あれは・・・・・スランドゥイルの王国」

 満面の笑みでエルロンドを見つめ、レゴラスは喜びの涙を流し続けた。

「人間の王が、冥王を退けるだろう。その時、世界は光を取り戻す」

「エステルが!」

 確かな、希望。

「私は、そのためにエステルに出会った! そのために・・・! 
私は、彼に命を捧げます! 変わることのない友情を! 
たとえこの身が滅びようとも!」

 こんなにも、喜びに溢れたエルフを、見たことがあったか。

 エルロンドは、己の心に楔を打ち込まれた気がした。

 

 レゴラスは、永遠に誰のものにもならない。

 彼の喜びは、

 光溢れる森の中にのみ、存在するのだから。

 

 ベッドから降りたエルロンドは、部屋のカーテンを引いた。

 この部屋に外の明かりが取り込まれるのは、ここの主がこの地を去って以来だ。

「レゴラス、私は君を愛している。
だが、君の許しを得るまでは、二度とそれを口にはすまい。
それでも、理解して欲しい。私は君の役に立ちたい。
それは、君のためだけではない。
君がアラゴルンに誠心誠意を尽くすことは、この世界の、そして私の娘の、
未来に関係することなのだ」

 喜びを表情に残したまま、レゴラスは両手を胸に当てた。

「エルロンド卿は、私の支えです。どうか、見守っていただきたく思います」

 

 強いのだな。

 

 エルロンドは口元に笑みを作り、脱ぎ捨てた衣装を身につけた。

 

 グロールフィンデル、私を軽蔑するか?

 

 細く笑った胸の内が、そう告げる。

 

(アレは、誰のものにもなりませんよ。シルヴァンは純粋なのです。
我々より、ずっと。
まだ、本当の喪失を知りません。恐れを知らないのです)

 

 誰かを切に必要とするほど、穢れてはいない。

 

「エルロンド卿」

 呼ばれて振り向く。

「どうか、今しばらく・・・・触れていてはいただけませんか? 
今だけ・・・ですから」

 それは、レゴラスにとって、精一杯の愛の告白だった。

「触れることを、許してもらえるのなら」

 小さく首を傾げて微笑むレゴラスを、そっと抱きしめる。

 

 光の差し込むこの部屋で、エルロンドは、ケレブリアンの微笑を感じた。

 

 貴方の心が、少しでも癒されますように・・・・。