永遠の時間を生きる者にとって、歳月を数えることにどれだけの意味があるのか。

 闇に侵された森で、レゴラスは考える。

 闇の中にいると、季節の移り変わりさえ感じない。

 あれから、どれだけの月日が過ぎていったのか。

 『待つ』という行為が、どれだけいらだたしいものか。

 

 気分転換に出た蜘蛛狩りにも飽きて、王の領土、その恩恵の光の中に戻る。
自分が生まれる前、この森全体が、これだけの光を得ていた。
いつかもう一度・・・・否、自分にとっては初めてになるのか、
再び森が、闇ではなく緑に溢れる姿を見たい。

 冬枯れの木立を、ゆっくりと歩く。

 あれからどれだけの冬を迎えただろう。

 たくましい枝のひとつに目をとめる。
指を走らせ、そこに光る宝石に触れた。自然と顔がほころぶ。
そこに、小さな緑色の宝石が光っていた。

 

 王宮に戻り、玉座の王に跪く。
そしてレゴラスは、手の中の小さな宝石を差し出した。

「春の訪れです」

 黄緑色の、柔らかな若葉。

 父王が、なぜ季節の花や木の実を冠として戴くのか。
昔はそれが単なる慣習だと思っていた。

 今ならわかる。

 そうやって、父王は季節を数えているのだ。

 闇に侵されない自分を、象徴するように。

 スランドゥイルは息子から新芽を受け取った。
いかつい王は、微笑んで緑色の宝石を撫でる。

 王の愛する、自然の恵み。

「王よ、私はイムラドリスへ赴きます」

 王の微笑が消え、息子をじっと凝視する。

「あれから、6つ目の春の訪れです。
この地の動向を探りに、エルロンド卿に会いに行きます」

「闇の均衡は保たれている。その必要はない」

 レゴラスはゆるゆると首を横に振った。

「父上、ホビットの里のこと、気になっているのではありませんか?」

 ホビット・・・ビルボ・バキンス・・・。
スランドゥイルは口元を歪めた。

「有限の命の種族にとって、6年は決して短いものではありません。
里に行くことができぬのですから、それを知る者に尋ねて見るのが常套手段かと」

 痛いところをついてくる。
スランドゥイルは、ホビットという種族に、強く惹かれている。
純朴なその種族に。彼らの生き方は、まさしく己の理想とするところだ。

 スランドゥイルは苦笑した。

「ホビットのことなど、単なる理由付けであろう? 
何が目的だ、レゴラス? エルロンドに会いたいか」

 ずきり、と胸が痛む。

 会いたい。

 そう、会いたい。

「父上は鋭い」

 ノルドールのように心で会話をすることはできなくても、通じるものはある。
それは、絆、だ。

「エルロンドに惚れたか」

「あのお方は、シンゴル様の直径の血筋です。
シンダールとして魅了されてもおかしくはないでしょう」

「だが、ノルドールとしての生き方を選んだ」

「では、きっと、メリアン様の魔法をお持ちなのでしょう」

 心を捕らえる、恋の魔法。

 スランドゥイルは声を出して笑った。

「違うな?」

 穏やかなレゴラスの笑みに、釘をさす。

「何が目的だ?」

 ベールのような柔らかな微笑の後ろで、レゴラスは唇を噛んだ。

「・・・・・言葉以上の意味はありません。
エルロンド卿に会って、闇の動向を探ってまいります。
そうですね、もし私が父上に隠し事をしているとすれば、
エルロンド卿の双子の息子、エルラダンとエルロヒア、
彼らと友情を結んだことでしょうか。
頭の固い父親や、わからずやの側近たちの愚痴をお互いにこぼして楽しむくらいです」

 頭の固い王と、わからずやの貴族たち、か。
口元を引きつらせながら、スランドゥイルは鼻を鳴らした。

「許可しよう。ただし、愚痴はほどほどにしておけよ」

 レゴラスは再び笑みを深めた。

「冗談です。私は父上を愛しておりますし、あの双子も父親を尊敬していますよ」

 戯れを楽しむように、スランドゥイルは鼻で笑った。

「しかしな」

 父の言葉に、笑みが緩む。

「お前が森を出るたび、
わしはお前が二度と森に帰ってこないのではないかと思うのだよ」

 驚いたように目を見開いた後、レゴラスはおかしそうにクスクスと笑った。

「私の帰る場所は、ひとつです」

 その時、レゴラスは父の真意を知ることがなかった。
レゴラスが別の帰る場所を得るのは、まだ先の話である。

 深く頭を下げ、玉座を去る。

 息子の後姿に、スランドゥイルは己の予見が外れることはないだろうと思った。

 風に舞う、一片の木の葉のように、
小鳥を魅了する、一粒の木の実のように、
レゴラスはやがて飛んでいってしまうだろう。

 

 その時が来たら。

 

 

 

 若葉がいっせいに木々を彩る頃、レゴラスは谷に向けて旅立った。

 

 

 

 期待と不安。

 そんな言葉がぴったりと当てはまる。

 人間の子は、成長しただろう。驚くほどの速さで。
グロールフィンデルの言っていたことが正しいのなら、
彼は自分が何者であるか教えられたはずだ。

 期待と不安。

 不安の方が、どんどんと膨らむ。

 エステルは、もう僕を必要としないかもしれない。
あんなになついてくれないだろう。

 彼はもう、大人なのだから。

 断ることのできなかった従者が、レゴラスの表情を敏感に見て取る。

「何か、心配事でも?」

 レゴラスは首を横に振った。

「ノルドの国に行く時は、いつだって緊張するものさ」

 従者も同意するように顔をゆがめた。

 

 

 

 谷に着くと、エルロンドに出迎えられた。
少し前に谷の斥候に会い、素性を知らせていた。

 今までと違う空気を感じる。

「闇の森からの使者を、歓迎する」

 エルロンドの言葉に、深く頭を下げる。
目を上げた時、エルロンドが何か言いた気なのに気が付いた。

「・・・・どうかされましたか?」

 表情を読まれたことに、エルロンドがわずかに苦笑する。

「旅の埃を落とし、私の執務室に来られたし。その時、話をしよう」

 

 

 

 エルロンドの執務室では、
いつしかのようにエレストールがエルロンドのそばに立っている。

スランドゥイル王の書状は、簡単な挨拶のみであった。

 レゴラスが独断で谷を訪れたのは、間違いない。

 エレストールとの約束どおり、6年間、レゴラスは間をあけたのだ。

 従者の手前、型どおりの挨拶を交わす。
エルロンドはレゴラスに伝えなければならない事を伝えられない、
そして、レゴラスは知りたいことを教えてもらえない苛立ちを、
お互い隠した。

 差しさわりのない会話が続いた後、
エルロンドは意を決したように従者たちに視線を送った。

「王子と重要な話をしたいので、よろしかったら席をはずしていただけないか」

 従者たちは目配せをし、戸惑うようにレゴラスを見る。

「それは、谷の秘密に関することですか?」

 従者たちの視線を気にしながら、レゴラスが問い返す。

「そうだ。約束どおり、我々が極秘としてきたことをお話したい。
ただし、事が事ゆえ、まず王子に直接話したい。
その後、それを公にするかどうかの相談をしたい。
ご理解いただけるだろうか」

 レゴラスは従者たちに振り向き、小声で指示を出した。
戸惑いながらも、従者たちが頷く。

「では、私たちは退席させていただきます」

 従者たちは軽く頭を下げ、エルロンドの執務室を出て行った。

 エルロンドがレゴラスにそのことを伝えるということは、
エレストールも承知しているようであった。
何も言わず、エレストールは人形のようにエルロンドの隣に立っている。

「エレストール、すまないが二人だけにしてもらえないか」

 顧問長は、心外だというように眉根を寄せる。

「エステルのこと、なのでしょう?」

「そうだ」

「なら、私が退席する理由はありません」

 エルロンドはエレストールに厳しい視線を送る。
エレストールは、何を警戒しているのか。否、わかっている。
レゴラスとエルロンドを二人きりにする、その状況を危ぶんでいるのだ。
エレストールは、彼なりにエルロンドの心情を知っている。
エステルと同等か、あるいはそれ以上に、
エルロンドはレゴラスの来訪を待ち望んでいた。

 

 闇の森の王子に、心惹かれている。

 

 たしかに、エステルのことを伝えるだけのことに、
顧問長を退席させる理由はない。

「失礼します」

 頃合を見計らうように、執務室のドアが開けられ、
グロールフィンデルが入ってきた。
条件反射のようにレゴラスが身をすくめる。

「顧問長殿、ドゥネダインの使いの者が訪れました。
接見をお願いします」

 なぜ邪魔をする? エレストールがグロールフィンデルを睨む。
グロールフィンデルはレゴラスに目もくれない。

「王子との話が済み次第、ここに呼ぶように。
エレストール、すまないが用件を聞いておいてくれ」

 エルロンドの言葉に、エレストールはしぶしぶ頭を下げて出て行った。

「来客中、申しわけありませんでした」

「いや、ご苦労であった」

 裂け谷の顧問らしく、
グロールフィンデルは優雅に気品ある態度で胸に手を当て、
執務室を後にした。

 他に誰もいなくなると、無意識にレゴラスはため息をついた。
谷の顧問たちの前では、非常に緊張する。
特に、顧問長と、裂け谷ナンバー2と言われるグロールフィンデルの前では。
ほんの少しの無作法も許されない。

「かけてくれ」

 エルロンドも、安心したようにレゴラスに椅子を勧めた。

「では、失礼します」

 頭を下げてから、エルロンドの正面の椅子に座る。

 エルロンドもレゴラスも、しばしの間、お互いに視線を漂わせた。
目を見ることを恐れているように。

「・・・・・谷の秘密について」

 エルロンドは、重い口を開いた。

「すでに察しているとおり、あの人間の子供、エステルを我々は保護してきた。
エステルは成人を迎え、己の素性を知る次第となった。
かねてからの約束どおり、君にもそれを教えよう」

 レゴラスは、漂わせていた視線を、エルロンドに向けた。

 

 聞きたくない。

 

 心は、そう言っている。

 聞いてしまったら、あの小さなエステルは、
自分にとってただの純粋な子供ではいられなくなる。

 あのまま、秘密の庭で戯れていた、
あの日のまま、どうして時は止められないのだろう?

 レゴラスの心情を、エルロンドは察していた。
だが、教えないわけにはいかなかった。
エステルが特別な存在である以上、
いつまでもレゴラスの愛眼の対象であってはならないのだ。

 それに・・・・・・

 今のエステル・・・・彼は、もう、レゴラスの愛らしい子供ではない。

 人間の大人だ。

 それを告げれば、レゴラスはショックを受けるだろう。

 レゴラスが、谷を訪れることを禁じられた、
あれほどの騒ぎを起こした彼は、今は別の者に目を向けているのだ。

 

「エステルは・・・・本当の名を告げられ、二年程前に谷を去った。
私の娘、アルウェンに求愛をして」