中庭で、アラゴルンはボロミアと旅の行程について話をしていた。
エルロンドやガンダルフと散々話し合った結果を、ボロミアに伝えるに過ぎない。
アラゴルンやガンダルフにとって、ボロミアはその程度の参加者に過ぎなかった。
そしてボロミアも、ただそれに従う姿勢を見せていた。

「ああ、こんなところにいたんだね!」

 突然木の上から声がしたかと思うと、一人の若いエルフが降ってきた。
ボロミアは驚き、アラゴルンは苦笑する。レゴラスの登場の仕方は、いつもこんなふうだ。

「いよいよあさってだね」

 どちらにともなくレゴラスが微笑む。

「行程は決まったのかい?」

 アラゴルンは頷き、レゴラスを交えまたその話を繰り返した。
レゴラスもまた、決定に従うだけであった。

「そういえば、ホビットを見たかい? 
驚いたよ、いつ見てもなにかを食べているんだ。彼らは一日何食食べるのだろうね」

 おかしそうに笑い、ボロミアをちらりと見る。

「彼らを満足させるだけの食料を持って歩くのは、大変そうだ。
体が小さいから、足も遅いし。ボロミア、どう思う?」

「そうですね」

 レゴラスのふってくれた言葉に、
ボロミアは少し口元をゆがめてからアラゴルンに向き直った。

「行程にもっと余裕をもたせた方がよいかと思われます。
ボビットは・・・・我々とは違うのですから」

 ボロミアの言葉に、レゴラスがアラゴルンを見る。

「エルフだけなら、その半分以下の日程で歩けるけどね」

 アラゴルンは顔をしかめた。

「そう思わないかい? 野伏のきみ」

 レゴラスの言葉は・・・・ボロミアの意見はもっともだ。

「・・・・・そうだな。考慮に入れよう」

 

 

 

 ボロミアと別れたあと、アラゴルンは自室のバルコニーで物思いに耽っていた。

「ボロミアの意見を、素直に受け入れてくれて嬉しいよ」

 声のする方向を向かず、組んだ指の上に額を乗せる。

「レゴラス、どれくらいボロミアのことを理解した?」

「さあ。人間を理解する事は難しい。でも、彼は軍人だ。指揮官だよ。君とは違う。
軍勢を率いることに関しては、君はボロミアにはかなわない。
もっと、ボロミアの意見を聞くべきだと思うな。
それに、君の印象より、たぶんずっとボロミアは優しい。弱いものに対してね」

 舞い落ちる木の葉のように、レゴラスはふわりとアラゴルンの隣に舞い降りた。

「君ひとりの旅ではないんだ」

 アラゴルンは、溜息をついた。レゴラスも知らないわけではあるまい。
アラゴルンも昔・・・名を偽っていた頃、ローハンやゴンドールで軍隊を指揮し、
勝利へと導いたことはある。
ただの人間であるボロミアなどより、ずっといろいろな経験をしているし、
自分が意見を聞くべきはガンダルフやエルロンドのような賢者であるのだ。
今更、ボロミアなどに指図される覚えはない。

 ふと目を上げると、
レゴラスはアラゴルンの心情を読むように口元で複雑な笑みを作っていた。

 レゴラスの方が、年上だと、いつも忘れてしまう。
その永遠の美しさや、シルヴァン特有の無邪気さは、
レゴラスを永遠の少年のようにしてしまっている。

 それだけではない。レゴラスには、傲慢さがないのだ。
助言はしても、いつだって他者に従う。

 いや、己の従者に対しては傲慢か。
国のものに対してだけは、王子の威厳を保っている。

「俺は、ボロミアを誤解している、と?」

「そう思うよ。君だけじゃない。たぶん・・・みんなそうだと思う。
ボロミアを危険な人間としか思っていない」

「ボロミアは・・・危険だ」

「その理由を、考えた事がある?」

 アラゴルンは唇を結んだ。

「そうだね、君には理解できないかもしれない。エルロンド卿にも。ガンダルフにも」

「お前には、わかるというのか」

 ふう、と小さくレゴラスが息を吐く。

「・・・・僕が何故、どんな屈辱を受けようとイムラドリスに固執したか、
知っているだろう? 
父王にしてみれば、それは両刃の剣だった。
僕が失敗すれば、エルロンド卿率いるノルドールを永遠に敵にまわす。
そう、グロールフィンデル殿に攻め入られれば、きっと僕の森は壊滅してしまうだろう。
それでも僕は、必死だった。
僕の森を救うためには、それがどうしても必要だと信じたからだよ。
なりふりなどかまわない。どう思われようと、どう扱われようと」

「それは結果正しい判断であった。指輪の力を欲するのとは違う」

「もしだよ・・・・もし、本当に力の指輪が国を救ってくれるのだとしたら、
僕は指輪の所持者を殺してもそれを国に持ち帰りたいと思うだろう」

 アラゴルンは、息を飲んだ。レゴラスの瞳が、冷たく光ったからだ。

「シルマリルという宝玉のためにその身と国を滅ぼしたシンダールの血が、
僕にも流れている」

 レゴラスの白い指が、己の胸を指す。

「なぜ・・・・」

 止めていた息を吐き出しながら、アラゴルンはゆっくりと疑問を口にした。

「俺やエルロンドが、ボロミアを理解できないと言う?」

「君は愛すべき国を持たない。
エルロンド卿は、責任をもってはいても、この谷に愛情をもっているわけではない。
生まれ育ち、愛情を注いでくれた者達、愛情を注いだ風景、
それらが存在する場所・・・・それを持たない。
わかるかい、何を犠牲にしても守りたいものが、君にはないんだ。

 故郷は、その者を強くしてくれるけど、弱みも生まれる。
ボロミアは、今追い込まれている。
だから、歴史から学ぶべき善悪の判断をつける余裕がないんだ。
僕だって、ひっきりなしに森を攻め入られて、
精神的に疲れきっているときに絶対的な力を目の前に差し出されたら、
それを掴みたいと思ってしまう」

 レゴラスは、アラゴルンの髪を指で梳いて、
子供にするようにやわらかな笑みをつくった。

「君が今必死なのはわかっている。
君が向き合わなければならない宿命と、今対決していることも。
だけど・・・だからこそ、ボロミアをもっと信頼してあげてほしい」

 強弓を操るとは思えないほど滑らかな指を自分の指に絡め、
アラゴルンはそっとその指に唇を寄せた。

「レゴラス・・・・俺は、もうお前を求めないと誓った」

「そうだよ」

「だが、お前がボロミアと身体を重ねていると思うと、嫉妬に狂いそうになる」

「・・・・エステル、僕は誰とでも身体を重ねるんだ。
知っているはずだよ。ボロミアだけじゃない」

「だが、ボロミアのことを熱く語る」

「じゃあ、別の話をしようか。
つい先日、グロールフィンデル殿と情交を重ねた時の話を」

「レゴラス!」

 声を荒げ、アラゴルンはレゴラスを抱き寄せた。
強靭なエルフの肉体は、なんて儚げなのだろう。

「・・・・エステル、君はアルウェン嬢を選んだ。
己の宿命を選んだ。もう、後戻りはできない」

「最初から、俺に選択肢などなかった」

「でも君は、アルウェンを愛している」

 レゴラスの腕が、アラゴルンの背中に回される。

 

  ボクハ、キミノタメニ クニヲステテモ ヨカッタンダ

  ナノニ キミハ   ベツノダレカヲエランダ

 

  モウ ボクハ キミヲ   エラベナイ

 

 どくん、と心臓が鳴る。

 レゴラスは、一瞬の抱擁のあと、アラゴルンの身体を押し戻した。 

「裏切ったのは、俺の方か」

 曖昧な笑みのまま、レゴラスは首を横に振った。

「運命に従っただけ。僕も、君も」

 背後にある長椅子に、レゴラスは腰をおろした。その隣に、アラゴルンも座る。

「本当に辛いのは、これからだよ。旅の先に何があるのか、誰にもわからない。
だからこそ、旅の仲間を信じることだけが、僕らの持てる最大の武器。真の力」

 促されるように、アラゴルンはレゴラスの膝に頭を乗せた。そして、目を閉じる。

 

 でもきっと、僕らはたどり着ける。

 

 

  あなたにあうために わたしはうまれた

  星の船にみちびかれ ここまできた

 

  ふたつの魂が 呼びあうように

  そしてふたり この場所でめぐりあった

 

  わたしの人生が あなたにつづいてる

  それは遠い過去からの 約束

 

  ずっと夢みていた はなれていても

  風の中に聴こえてた あなたの声

 

  きつく抱きしめたら 炎になりそうな

  胸の想い こんなにも愛している

 

  明日をおそれないで 愛におびえないで

  どんな悲しい運命も 変えてみせる

 

 (約束・谷山 浩子)

 

 

 目を閉じたアラゴルンの髪を撫でながら、レゴラスは顔を上げた。

「私に、何ができるのでしょう」

 美しい黒髪のエルフ。レゴラスの口元が、優しげに微笑む。

「どんなに愛していても、私には待つことしか・・・できない」

「待っているひとがいなければ、・・・・戦うことは不毛です。
帰る場所は、喜び。貴女は、アラゴルンの帰る場所」

 身をかがめて、アルウェンはレゴラスの頬に触れる。

「あなたのように、共に戦うことができたら」

「それは私の運命。貴女の運命は違います」

 まるでつむじ風が吹くように、音もなくふたりの位置が入れ替わる。
アルウェンは、膝の上のアラゴルンの、年老いた額に唇を寄せた。

「私もいつか、私の選んだ運命と向き合い、
恐怖と戦わねばならない時が来るでしょう。
その時、私はどうやって光を見出せばよいのでしょう。
愛する殿と、遠く離れて」

「信じることです」

 アルウェンの指が、そっとアラゴルンの胸元に触れる。
己の託した、命の象徴。

「きっと・・・・きっと、守ってやってください。
エステルが、暗き道に迷わぬように」

「人の王は、私の希望。私の森に、光を導いてくれる者。
約束します、アルウェン嬢。私はアラゴルンと離れることはありません」

 胸に手を置くレゴラスに、アルウェンは少しだけ首を傾げて口元を緩めた。

「お兄様たちが、あなたと話を。最後の時間を語り合いたいと言っていたわ。
あなたは、人間にばかりかまって、エルフのことは忘れてしまったのではないかと」

 レゴラスはふき出すように笑みをこぼした。

「では、自分がエルフであることを思い出しに行ってきましょう」

 足音を立てないエルフの中でも、レゴラスは特に軽やかだ。
アルウェンに丁寧に礼をした後、木の葉が滑っていくようにレゴラスは姿を消した。

 レゴラスを見送り、アルウェンはアラゴルンの髪を撫でながら谷の風景を眺める。
冬が近付いている。エルフの時が、終わろうとしている。

「すまない、アルウェン」

 人の王の呟きに、アルウェンはただ微笑んだ。

「俺は・・・・・」

「あなたは風に恋をしたのね。それとも、森の若木。それとも、昇り来る朝日」

「・・・俺を、許してくれるか」

「風に恋する者を、憎む者などいないわ。きっと、お母様も」

 アラゴルンは、閉じていた目をぱっと開けた。

「お父様も、同じ風に、恋をしている。でも風は、誰のものにもならない。
・・・そうでしょう? ただ生まれた場所に還っていくだけ」

 アルウェンを見上げるアラゴルンは、小さな溜息をついてまた瞳を閉じた。

「しばらく、こうしていてほしい」

「いつまでも」

 

 谷に、秋の風が吹いてくる。

 

 冬の訪れを告げながら。