静かな夜明けの、その瞬間を、レゴラスは東側のポーチで迎えていた。

 疲れを、感じていた。

 夜明けの光は、心を癒してくれる。

 ボロミアの激情も、グロールフィンデルの耐えがたい苦痛も、まだ胸の内に残っている。
自分のとるべき道を、ひたすら走ってきた。それが、正しいのかさえ考える間もないほど。

 どれだけ虚勢を張ってみても、どこか心の弱い部分が震えている。

 

 旅が始まる。

 

 アラゴルンを信じている。か弱く見えるホビットの芯の強さも、信じられる。

 

 でも、

 今旅立てば、長い間森には帰れない。

 

 ボロミアの気持ちがわかる。
もし、自分がいない間に、愛すべき国が攻撃を受けたら・・・。

 それでも、行かなければならない。

 

 白い夜明けの光を浴びながら、レゴラスは、愛すべき森に思いを馳せた。

 

 朝の光の中、一羽の小鳥が舞うのを見た。

 ツグミが、まっすぐにレゴラスに向かって飛んでくる。

 レゴラスは片手を出し、小鳥を導いた。白い指先に、ツグミがとまる。

「・・・・・」

 まだ・・・従者は森に帰り着いていないはずだ。

 父は、まだ息子がモルドールに向かうことを知らないはず・・・。

 

 ツグミは、レゴラスに語りかけるように、鈴の音のような歌声をあげた。

 

 

 

  空にうつれ 水にひびけ

  空気にそまれ みどり

  静かな腕に 力をこめて

  たたけ 風のドラム

 

  梢を渡る声が おまえの名前を呼ぶ

  遠い過去をうつす 鏡 みどり 光る

  それとも銀の靴で あしたの空を翔ける

  おまえのその指の中に みどり あふれるもの

 

  空をつかめ 水をくだけ

  彼方に 夢の世紀

  ほほをそめて 想いをこめて

  鳴らせ 時のシンバル

 

  透きとおる者たちが おまえのうなじに降る

  ふせたまつげの先に きらり みどり 雫

  記憶の森の乙女 黒い土の中から

  涙とほほえみ 限りなく みどり つむぎ出すよ

 

  空をつかめ 水をくだけ 彼方に 夢の世紀

  はげしく深く みどり

 

(谷山浩子「風になれ〜みどりのために」)

 

 

 

 レゴラスの頬を、涙がつたい落ちる。

 胸の中の黒いものが、涙と共に流れ出ていく。

 

「・・・・鳥の声が?」

 背後からかけられた声に、レゴラスは振り向いた。

 エルロンドは、涙を流すレゴラスの姿に、一瞬眉を寄せた。
何が彼を苦しめているのか? 
だが、レゴラスはエルロンドに、目を細めて微笑んだ。

「スランドゥイル王の、使いです」

 このツグミが?

 レゴラスは小鳥に視線を戻し、そっと囁いた。

「・・・・・・ありがとう。王に、愛していると伝えてください。
私は、必ず王のもとに戻ります。森に帰ります・・・・・・」

 ツグミは丸い小さな目をくるくると動かし、また朝日の中に飛んで行った。

 ツグミの小さな影が見えなくなるまで見送ってから、
エルロンドはそっとレゴラスの肩に手をかけた。

「王は、なんと?」

「歌を」

 ツグミの歌を、静かに繰り返す。やわらかな、歌声。

「王は、子息の旅立ちを知っておられたのか」

「父には予見の力はありません。でも、時の動きは感じています。
私が、その渦中に飛び込んでいくことも・・・・父にはわかっていたのでしょう」

 レゴラスの銀色の涙を、エルロンドは指ですくった。

 結局、レゴラスを癒せるのは、父王だけなのだ。

「・・・辛い旅になろう」

「大丈夫です。私は、友を信じています」

 未来を。

 そっとレゴラスを抱き寄せ、すぐに体を離す。森のにおいが、鼻腔に残る。

 レゴラスの、その強さは、どこから来るのか。

「強いのだな」

 その言葉に、レゴラスははにかんで笑う。

「信じられるものが、あるから」

 信じられるもの・・・・・。友は、お前を裏切るかもしれない。
お前が愛していたエステルが、別の愛を選んだように。
あるいは・・・・・心弱き人間は、指輪の誘惑に負けてしまうかもしれない。
かつての人間の王、イシルドゥアのように・・・・。

 それでも、信じるというのか。

「私は、アラゴルンを信じています。きっと目的を果たすであろうと。
ボロミアの、国を、家族を、愛する心も信じています。
ドワーフも、ホビットたちも。
私は、ヴァラールの愛を信じています。
この世界を、決して見捨てることはない、と。
私は・・・・父の愛を信じています。
父が私を愛していてくれる限り、私は父を裏切ることはありません。
私は、生きて帰ってきます」

 愛・・・・なんて不確かなもの。

 そんなもので、世界が変えられるのか。
しかし、きっと、冥王の一番恐れているもの。
愛に支えられ、友を信じ、信頼に結ばれた者たちを、引き裂くことはできないであろう。

 わかっている。
だから、フロドに友情を捧げた頼りないホビットたちの同行を、認めたのだ。
彼らの結びつきは強く、なにものにも負けないだろう。

「レゴラス」

 そっとその手を取ると、手のひらに強い力を感じた。

 誰かの祈り、だ。

 手のひらの輝きに唇を寄せる。強い思念が流れ込んでくる。

 国を愛し、友を信じ、肉体の崩壊を恐れずに戦った、ゴンドリンの英雄の、強い祈り。

 

 グロールフィンデル、お前は、この若き王子に己の受けた寵愛をすべて捧げたのだな。

 お前の思いは、きっとこの王子を守るだろう。

 

「出発の支度を」

 エルロンドが手を離すと、レゴラスはそっと手のひらを握った。

「旅の仲間に、祝福を」

 エルロンドの言葉に、意志の強い目を細め、レゴラスは館の中に入っていった。