時は来た。

 動き始めた運命は、次第にその流れを速め、
多くの種族を飲み込んでいく。

 

 その流れの中心が、
もっとも醜い争いから縁遠いホビットであるのは、
誰も驚きを隠せなかった。

 

 この旅が、この戦いが、
ミドルアースの運命を決定付けるものであることは、わかっていた。

 この旅が、決して楽なものではないだろうこと、
多くの犠牲を払うであろうことは、わかっていた。

 故に、愛するものを旅立たせたくないと思うのは、当然の心情である。

 

 それでも、旅のメンバーは、全員が自ら志願したものであった。

 己の運命と立ち向かうため、友を、あるいは、己の国を守るため。

 

 

 

 レゴラスは、グロールフィンデルの部屋を久しぶりに訪れていた。

 エステルが谷を出てから、一度もこの部屋には来ていない。
その必要がなかったから。

 なのになぜ、この時になって連れて来られたのか。
グロールフィンデルが、ただの欲望のために行動するような性格でないことは、
わかっていた。

 そう、もう一度、対立するためだ。

「自ら志願するとは、愚かなことだ」

 グロールフィンデルは言った。

 その口調は、初めてここに来た時と同じ。
お前の行動は、愚かで無意味だ、と。

 その言葉の裏には、
レゴラスが己の起こした行動にどれだけの決意をもっているのか、
試す意味がある。

 敵対するノルドの国に、単独乗り込んできた時と同じように。

「お前は、モルドールの、サウロンの、本当の恐怖を知らない」

「だから? 知らないから何だと言うのです?」

 レゴラスも、鋭い視線を返す。

「お前は、その本当の恐怖の前に立ちすくみ、
抗う術もなく打ち滅ぼされるであろう」

 レゴラスは唇を結び、一歩、グロールフィンデルに進み出た。

「まだ見ぬ恐怖に、私は恐れおののいたりはしません」

「何故・・・・何がお前をそうさせる? エステルのためか?」

「父と、国のためです」

 その決意に満ちた瞳は、あの時と少しも変わらない。

 そしてレゴラスは、あの時と違い、
己が与えられるであろう屈辱の痛みを知っている。

 レゴラスが何を覚悟しているか、
グロールフィンデルもまた知っている。

「私の心を見せてやろう。本当の恐怖をな」

 

 

 

 ベッドに押し倒され、唇を押し当てられる。

 乱暴な口づけに、数刻前の人間の熱を思い出される。
ボロミアの横暴は、その内にある恐怖から来るものだ。

 恐怖など・・・・・。

 レゴラスはきつく目を閉じ、
グロールフィンデルを受け入れられるよう心の鎧を解いていく。

 国が、愛する森が滅びる以上の恐怖が、あるだろうか。

 森を守るためなら、どんな恐怖にも立ち向かおう。

 

 

 

 レゴラスは、グロールフィンデルの記憶の中にいた。

 目を見開き、周囲の地獄絵に息を飲む。

 

 燃える、街。

 

 滅んでしまった、ゴンドリンの美しい街並み。
炎に焼かれ、逃げ惑う女子供。傷ついた戦士たち。

(これが、恐怖だ。愛するものを失うということ)

 過去の記憶は、未来にもなりうる。

 そして、見たこともない悪鬼。

 暗黒の炎を身にまとった、バルログ。

(!)

 それを目の前にしたとき、レゴラスは足が震えるのがわかった。

 自分では、絶対に勝てないことがわかっていたから。

 そこに、深い悲しみを知る。

 グロールフィンデルの背負う、哀しすぎる記憶。

 レゴラスは、くるりと向きを変え、バルログに背を向けた。

「私は、未来を恐れない! 失うことに立ちすくまない! 
たとえこの身が業火に焼かれようとも、友を信じて戦う! 
あなたが、そうしたように!」

 

 グロールフィンデルは、
レゴラスの叫びに自分が飲み込まれていくのがわかった。

 

 ああ・・・・。

 

 引きずられていく。

 記憶がさかのぼっていく。

 あれは・・・敗北の戦い。数え尽くせぬ涙の戦い。

「王よ、間に合ううちに、お引き上げください」

 フーリンの言葉。

 忘れもせぬ。そのやり取りを、王の隣で聞いていた。
親友エクセリオンと共に。

 グロールフィンデルの唇が、悲しみに震える。

 あの時、王はなんと言ったか。

 グロールフィンデルに振り向いたトゥアゴンは、
しかし絶望していなかった。

「帰ろう」

 王は言ったのだ。

「たとえ一時の慰めであっても・・・・・」

 いつか(否、確実に)滅びるとわかっていても。

「帰ろう、ゴンドリンへ」

 それは、本当にトゥアゴンの言葉であったのか。

 

 帰ろう、と。

 

 グロールフィンデルが忠誠を尽くした王の顔が、別の顔に変わる。

 その男は、傷つき、血を流し、しかし、絶望はしていなかった。

 

「帰ろう、森へ」

 

 その男、シンダールの新たなる王、
スランドゥイルは、微笑さえ浮かべていた。

 

「帰ろう、我らの森へ」

 

 決して滅びはせぬ。希望をもて。

 敗北は、終わりではない。

 

 帰ろう

 

 なんて、暖かな響き。

 

 そうか、これが、レゴラスの強さの理由なのだ。

 帰る場所がある。

 待っている者がいる。

 信頼している、愛している者がいる。

 

 やわらかな金色の髪をした若い王は、
揺らいで、また別の顔になる。

 

「恐れるな」

 

 銀色の、透明な微笑み。

 

「失うことを、恐れるな」

 

 エクセリオン・・・・・。

 

「私はいつでも、お前と共にある」

 

 友の顔がまた揺らぎ、威厳ある王に戻る。

 トゥアゴンは、グロールフィンデルに片手を差し出した。

 

「そこに、希望はある」

 

 崩れ落ちそうな感覚。

 グロールフィンデルは、王の手を握った。

 

 

 

 その瞬間、一瞬にして現実世界が戻ってきた。

「・・・!」

 レゴラスの手を、強く握り締めている自分がいる。
レゴラスは、あの時の王の瞳で、グロールフィンデルを見つめている。

 

 グロールフィンデルは、ずるずるとベッドから滑り落ち、跪いた。

 

 レゴラスは、恐怖に打ち勝った。

 そして、グロールフィンデルの心内を映し出したのだ。

 

「私は、必ず森に帰る」

 体を起こしたレゴラスが、強い口調で言う。

 

 最後の連合の戦いで敗北した、スランドゥイルの強さ。

 

 希望を捨てない、強さ。

 

 グロールフィンデルは跪いたまま、
レゴラスの手のひらに、そっと口づけた。
右と、左に。そしてその手を両手で包んだまま、
レゴラスを見上げる。

「お前のこの手は、きっと己の国を守るだろう。
ゴンドリンの加護を。イルーヴァタールの恩寵を」

 グロールフィンデルが手を離すと、そこにわずかに光が残った。