エステルがいない。

 

 夕方から、そんな話が囁かれた。

「何かあったのでしょうか?」

 レゴラスは一人部屋で過していたが、従者の一人が訪れて言った。

「私たちには、関係のないことです」

 そう返しながらも、胸がざわつく。

 従者に適当なことを言って追い返した後、レゴラスは様子をうかがいに部屋を出た。

 廊下の隅で、立ち話をしているエルロンドとグロールフィンデルを見つける。
かなり距離をおいて、立ち止まる。動揺した足が、逃げることもできない。

「レゴラス」

 立ちすくんでいるレゴラスを見つけたエルロンドが、歩み寄ってくる。
レゴラスは頭を下げて、そのまま上げられなかった。

「エステルが戻らない」

 ずきん、と胸が痛む。頭をたれたまま、目だけでグロールフィンデルを追う。

「何があったかは問わない。エステルを探してきてくれないか」

 息を飲み、身体を固くする。

「・・・・エルロンド卿・・・・」

 グロールフィンデルの、戸惑ったような声色。

「きっと、エステルは心を閉ざしているだろう。誰が迎えに行っても拒絶するだけだ」

「・・・・・私には・・・・できません」

 震える唇を開く。

「レゴラス、君にしかできない。エステルを探して連れ戻してくれ」

 恐る恐る顔を上げ、エルロンドを見、グロールフィンデルを見る。

「朝までに」

 グロールフィンデルは、溜息のように言った。

「朝までに必ず戻ってきなさい。エルロンド卿の信頼を裏切らないように」

 レゴラスは、もう一度エルロンドを見た。
エルロンドの表情は、グロールフィンデルの言葉を肯定している。

「わかりました」

 唇をかみ締め、レゴラスは礼をして走っていった。

 エルロンドは、意思を確認するようにグロールフィンデルを横目で見た。
グロールフィンデルは、走っていくレゴラスを目で追っている。

「後で、私が様子を見に行きましょう」

「エステルの居場所が、わかるのか?」

「見当はつきます」

 さすがに、侮れないな。

 エルロンドはグロールフィンデルの肩に手を置いた。

 

 

 

 夜の闇は、あっという間に周囲を包み込んだ。

 真っ暗な闇の中でも、レゴラスの足は躊躇することがない。
その瞳は、しっかりと周囲を見据えている。

 音を立てずに林を降りていく。

 川のせせらぎが耳に入る。

 

 エステルの、しゃくりあげるわずかな音も。

 

「エステル・・・・」

 闇の中にうずくまる影に、そっと近付く。

 恐れながら。

「エステル、そこに、行ってもいい?」

 顔を上げたエステルは、燃えるような瞳をレゴラスに向けた。

「何しに来た! 淫乱なエルフめ!」

 目の前に火の手が上がったように、レゴラスがビクリと動きを止める。

「お前、グロールフィンデルのモノなんだろう?! 
エルロンドに花を贈ったり、グロールフィンデルと欲情に耽ったり・・・・
軽薄で淫乱で・・・・汚らわしい!」

 目の前が真っ白になって、近くの木に寄りかかる。

 

 ああ、こんなにもあの森から遠くに来てしまった・・・。

 

 森に帰りたい。

 

 父の統治する、あの森へ・・・・。

 

「僕は・・・・・誰のものでもない」

 青ざめた唇が、そう呟く。

「どんなにエルロンド卿が優しくしてくださろうと、
グロールフィンデル殿がどんなに僕を辱めようと、僕は誰のものにもならない・・・・」

 足の力が抜けて、ずるずると座り込む。

 気がつくと、目の前にエステルが立っていた。

 こんなに・・・・

 

 こんなに「男」であったのか?

 

 エステルは、レゴラスの髪を掴んで引き寄せた。

「俺のものになれ」

 長い髪を引っ張られ、よろめく。

「俺のものになれよ! 
エルロンドにもグロールフィンデルにも渡さない! 俺だけのものになれ!」

 そのまま地面に引き倒される。エステルはレゴラスに馬乗りになり、白い首に手をかけた。

「誓えよ! 俺のものになるって! でなければ、お前を殺す!」

「・・・・エステル・・・・・」

 レゴラスは苦しげに顔をしかめる。

 そんなことは気にも留めず、エステルは乱暴にレゴラスの服をむしり取る。

「や・・・・やめて! エステル!」

「うるさい! 黙れ!」

 レゴラスの頬を平手で打つ。

「どうせグロールフィンデルに弄ばれているんだろう! 犯されて悦んでいるんだろう!」

 頬を打たれた痛みではなく、言葉の切っ先に嗚咽が漏れる。

「こんなふうに!」

 開かれた足の間に鋭い痛みを感じて、悲鳴を飲む。

 エステルの息は荒く、熱い。

「俺のものになれ! 俺のものに!」

 懇願にも似た叫び。

「谷を出よう。二人で暮らそう。誰にも渡さない・・・・! だから・・・・!」

 力任せに打ち付けられ、レゴラスは噛締めた歯から悲鳴を零し続けた。

「レゴラス! レゴラス!・・・・・・・」

 何度も何度も名前を呼び、ついに包み込まれるように彼の中で果てる。

 引きずるように体を離したエステルは、膝を抱いてうずくまった。

 しゃくりあげ、すすり泣く。

 落ち葉の上に身を横たえていたレゴラスは、ゆっくりと頭を上げた。

「何でだよ・・・・・なんで俺のものにならないんだよ・・・・・・」

 乱れた髪が、顔にかかる。

 下半身が、重く、熱い。

 

 熱い・・・。

 

「わかんないよ」

 涙声ではき捨てる。

「わかんない・・・・・何もかも、わかんないよ! 俺は誰なんだ? 
どうしてここにいるんだ? 誰も彼も俺の向うの、知らない誰かを見ている。
俺はどうすればいい? どこに向っている? 俺は、何で生きているんだ?」

「エステル・・・・・」

 熱をもった腰を引きずるように、うずくまる少年に近寄り、その頭をそっと胸に抱く。

「俺のものになってよ! 俺には、レゴラスしかいないんだ!」

 

 不安・・・・なんだね。

 

 僕が君を不安にさせるのかな。

 

「君は君だよ、エステル」

 泣き濡れたエステルが、レゴラスを見上げる。

「僕も、君の素性は知らない。何で君がここにいるのかも、知らない。
でも、関係ないよ。君は君、僕の目の前にいる、君が僕にとってすべて」

「俺に・・・・愛を誓ってくれる?」

 痛む胸に、苦笑する。

「僕が誓うのは、愛ではなく、友情だよ」

 慈しむようなレゴラスの瞳に、今自分の犯した罪に背筋を震わせる。

「俺・・・・・・俺を、許す?」

「君が、僕を許してくれたら」

 エステルの顔を両手で包み、そっとキスをする。

「君を傷つけてしまった僕を、許してくれる?」

 引き込まれるような、緑の瞳。

「僕は・・・・確かにエルロンド卿に好意を抱いているし、
グロールフィンデル殿と何度かそういう関係になった。言訳はしないよ。
でも・・・それでも、僕は、誰のものでのない。誰にも跪かない。
僕はね、僕の国にだけ従属している。だから・・・君のものにもなれない。
わかってくれる?」

 エステルは、駄々をこねるように首を横に振る。

「そのかわり、僕は君に永遠の友情を誓う。たとえ君が誰でも。
君にどんな運命が待っていても・・・・」

 

 君がどんな道を歩もうと

 君が何を失っても

 君が僕を忘れても

 

「愛してる・・・・レゴラス。離れたくない」

 しがみついてくるエステルの髪を、そっと撫でる。

「愛してるよ、エステル」

 歌うように囁く。

「離れたくない・・・・・そばにいてよ。ずっと、そばにいてよ」

 優しく髪を撫でながら、肯く。

「そばにいるよ。ずっと。ずっと・・・・・」

 

 だから、もう、泣かないで。

 

「お眠り。歌を歌ってあげるから」

 泣き濡れるエステルの頭を、そっと膝の上に乗せる。

 

  どこで泣いているの かすかな声がする

  どこで泣いているの きこえてくるかすかに

  とても悲しいと わたしを呼んだ

 

  そんなにもささやかな おまえの願いを

  打ち砕く無慈悲な手 よこしまな闇の力

 

  どこで泣いているの かすかな声がする

  ひとりで凍えている 暗闇の中

 

  どんなに離れていても 思いはとどく

 

  だからもう泣かないで わたしはここにいる

  どんな寂しい時も おまえを守っているよ

 

 寝息をたてるエステルの髪を撫でながら、レゴラスは星を仰ぎ見る。

 なんで、こんなにも愛しい。

「いつから、そこに?」

 夜空を仰ぎながら、背後の木陰に問う。

 わずかに光を放ちながら、その金色の髪のエルフは姿を現した。

「エステルの居場所がわかっていたのなら、ご自分で迎えに来ればよかったのに」

 グロールフィンデルは答えない。

 こうなることが、わかっていたというのか。

 だから貴方は、私にエステルから離れろと言ったのか。

 

 でも

 

 結局は同じ事。

 

 いつかは、エステルの心の内側と向き合わなければならない。

 

 エステルのために

 自分のために

 

「・・・・エステルが、自分の運命を知るのは、いつ?」

「あと、四年」

 それは、長いのか、短いのか。

「永遠の愛を、信じますか」

 星の輝きを眺めながら、問う。

「私は、エステルを失うことを恐れない」

「それは、大切なものを失ったことがないからだ」

 頭だけを動かして、グロールフィンデルを顧みる。

「貴方は・・・・愛を失ったのですか?」

 愛しげにエステルの髪を撫で続ける、レゴラスの白い指を見る。

 

 友情と愛情の境目を、行ったり来たり。

 目の前から消え失せてしまった時、
初めて自分が彼をどれだけ愛していたか、必要としていたのか、気付く。

 

「愛は・・・消え失せることはない。見失うことはあっても」

 

 遥か彼方、星の沈み行く先を見る。

 

「夜明けには、戻りなさい」

 ロウソクの炎を吹き消すように、グロールフィンデルは姿を消した。

 

 

 

 レゴラスは川で身体を洗い、何事もなかったかのように服を整えた。

 眠り続けるエステルの隣に座り、夜空を渡る星々を眺める。

 やがて、空が白み始める。

 淡い宝石の輝きのような光が、地平線からいく筋も昇って来る。

「エステル」

 気持ちよさそうに眠るエステルの、頬を撫でる。

「エステル、起きなさい。朝だ」

 夢の続きを惜しむように、エステルは目を開けた。

「・・・・・レゴラス?」

 昨夜のことは、昨日のことは、すべて夢だったのか。

「レゴラス・・・・俺は・・・・」

 言いかけたエステルの唇を、そっと指を当ててふさぐ。

「僕は君の友達だ。永遠にね」

 にっこりと笑って見せ、レゴラスは立ち上がった。

「夜が明ける。戻ろう」

 片手を差し出し、エステルがその手を取る。

 そして、二人は何も言わないまま、館に向って歩いていった。

 

 言葉は要らない。

 この指先のぬくもりだけを信じて。

 

 

 

 それから半日が過ぎた。

 午後、レゴラスは執務室に呼ばれた。

「今回の件に関し、私の独断で処罰を決定する」

 そこにいたのは、エルロンドと、グロールフィンデル、そしてエレストールであった。

 エレストールは、普段ほとんど発言をしない。だが、今回は違った。

「レゴラス王子、明後日、イムラドリスを出て、以後5年間は来訪を控えてもらいたい。
これは公けな処罰ではない。
従う従わないは王子の判断に任せるところであるが、私はそれを希望する」

「公けではない・・・のですか?」

「今回の件、エステルが王子との間に問題を起して館を勝手に抜け出し、
規定時間内に戻らなかった事であるが、それを公けにすることは望ましくない。
我々にとっても、そちらにとっても。このことは、できるだけ内密に済ませたい。
よって、会議を通さず、私個人の判断でそうさせていただく。異論は?」

 冷静を取り戻した表情で、レゴラスは「ありません」と答えた。

「尚これはグロールフィンデルのエステルに対する管理不行届きの結果である。
よって、グロールフィンデル、君のエステルに関する保護及び教育の全権利を剥奪。
私がそれを受け継ぐ。異論は?」

 いつもの、感情の読めない表情で、グロールフィンデルは「ない」と短く答えた。

「よろしいですね、エルロンド卿?」

 成り行きをじっと見守っていたエルロンドは、静かに肯いた。

「この処罰に関し、レゴラス王子、できれば貴方の従者及び国王には内密にしていただきたい。
エステルの存在と立場を、まだ知らしめたくはない。よろしいか?」

「寛大な配慮、ありがとうございます」

「では、戻りなさい」

 レゴラスが出て行ったあと、エレストールも一礼して執務室を出た。
そのあとにグロールフィンデルが続く。

 周囲に人影がなくなると、エレストールは足を止めた。

「憎まれ役を、買って出たな」

 グロールフィンデルが唇を吊り上げる。エレストールは、小さく溜息をついた。

「・・・・何もかも、一人で背負いすぎだ。グロールフィンデル。
少しは頼りにしてもらいたいものだな」

「頼りに? しているさ。友であろう?」

 エレストールが眉を寄せる。
グロールフィンデルから、そんな言葉を聞くとは思わなかった。

「王子はエステルに何と?」

「これは友情だと押し通した。本当にそう思っているのかもな」

 エレストールは、自分よりわずかに高いグロールフィンデルを見上げる。

「違うのか?」

 グロールフィンデルは、ほくそえんで答えなかった。

 

 

 

 その夜、エルロンドは私室にレゴラスを呼んだ。

「エレストールを恨まないでやって欲しい」

 そんなことを言うエルロンドに、目を細めて首を横に振る。

「寛大な措置だと、感謝しています」

 きっかけは何であれ、エステルが館を出たのは自分の責任なのだから。

 それに・・・・

 

 エルロンドには、告白しておかなければならない。

 きっと、グロールフィンデルがもう告げたであろうが。

 

「私は昨夜・・・・エステルと」

 言葉を探して戸惑う。

 

 これは、懺悔だ。

 

「エステルが欲望を君にぶつけ、君がそれを受け入れた・・・・そうであろう」

 そんなふうに、グロールフィンデルは説明したのであろうか。

「・・・・いいえ」

 レゴラスの笑みは、悲しげに歪んでいた。

「私がエステルを受け入れることを、望んだのです。
エルロンド卿、いくら私でも、人間の子供を撥ね退ける力くらいはあります。
でも、そうしなかった。私は・・・エステルとの情交を望んだ」

 エルロンドの視線を、真向から受け止める。

 非難して欲しかった。

 あの時のエステルのように。

 拒絶されてしまった方が、どんなに楽か。

 それでも、エルロンドの目は、怒りも侮蔑も表してはいなかった。

「エステルを・・・愛しているのかね?」

「はい」

 それは、エステルに諭したように、本当に純粋なる友情なのだろうか。

「エステルを、愛しています」

 そう発言した時、口元が微笑むのを感じた。

 エルロンドが、小さな吐息を吐く。

「人間は、か弱く脆い。命に限りもある。いつか、君を裏切るかもしれない」

「かまいません」

 本心が、そう告げる。

「エステルは、やがて自分の道を歩くでしょう。もう、私を必要としないかもしれない。
それでも私は、エステルを守り、助けるでしょう。彼の命が尽きるまで」

 ためらいのない、輝ける唇の動き。

 

 そう、

 そうであろうな

 

 エルロンドは、遠い日の自分を思い起こした。

 そうやって自分の奥底にある秘めたる感情を垣間見る時、
エルロンドはグロールフィンデルの言葉を思い出していた。

 レゴラスは、心を鏡のように映し出すのだと。

「レゴラス、君がエステルを守りたいと切望するように、私も君に手を貸したいと望んでいる」

 切なげな表情で、レゴラスは微笑んだ。

 

 わかっています

 

 と。

 

「しばらく・・・・たぶん、5年か6年、私はこの谷には来ません。
エレストール殿は、その後私が谷を訪れることを許してくださるでしょうか」

「あれは、表向きの措置だ。いつでも来るがいい。
エレストールとて、本気で君を遠ざけたいと思っているわけではない。
何らかの処罰を見せなければ、事が収まらないからだ。
本来なら私が下さなければならない処分だが、
エレストールは私がグロールフィンデルや君に対して
寛大でありたいと思っていることを見越している。
それに、エレストールはグロールフィンデルの良き理解者で友人なのだよ。
グロールフィンデルへの処分は、君に対しての謝罪の意味もある。
もっとも、エステルの管理についてはすぐにグロールフィンデルの手に戻るだろうが。
エレストールは、子供の面倒など見ることができない」

 エルラダンやエルロヒアは、グロールフィンデルを信頼している。
自分たちを教え導いてくれたのはグロールフィンデルなのだと言っていた。
エステルに対しても、そうなのであろうか。

「レゴラス」

 エルロンドが手をのばし、そっと頬に触れる。

 レゴラスは一度目を閉じ、俯いた。

「ここの方たちには、建前と本音、嘘と真実が混在しているのですね」

「森のエルフたちのように、純粋ではいられない。
もうずっと、気の遠くなるほどの長い間、戦いと憎しみに生きてきたのだから」

 唇を噛み、ひとつ息を落とす。

「レゴラス、君に好意を抱く価値がないのは、私の方だ」

 顔を上げたレゴラスは、悲しげに微笑んだ。

「・・・・いいえ。
世界の善良たるものたちを統治し、守ってくださっているのは、
エルロンド卿のような力あるエルフです。
その犠牲の上に、私たちは暮らしているのですから」

「私たちの時代は、じきに終わる」

 頬に触れるエルロンドの指に触れ、レゴラスはその指にそっと口づけた。

 彼が、木の葉によくするように。

「エステルに別れを告げても?」

「君の好きにするといい」

 エルロンドの手を離し、レゴラスは退室の許可を得るように胸に手をあて、頭を下げた。

 

 

 

 静かな夜。

 レゴラスは、星明りが好きだった。
生まれ出でたエルフがそうしていたであろうに、星の光の中で、
その恩恵に包まれているのが好きだった。

 父は、夜いつも宴を開いた。

 星明りの下で、飲み食い歌い踊る。

 

 ひどく、懐かしい。

 

 次の夜明けには、懐かしい森に出立できる。

 きっと、明日の夜は従者たちと帰りの相談をしなければならない。
眠りも必要だろう。従者たちは、少しでも早く森に帰りたがっているから。
帰りの旅は、ほとんど休息を取らないだろう。

 では、貴重な今日の夜明けは、何をして過す?

 

 昨夜のように、エステルのそばで歌っていたい。

 

 人間は眠っている時間だと、わかっていてもレゴラスはエステルの元を訪れた。

 開け放した窓から入り込むと、案の定エステルはベッドに横になり、寝息を立てていた。

 グロールフィンデルやエレストールから、何か言われたのだろうか。疲れた顔をしている。

 寝顔を覗き込んでいると、ぱっとエステルの目が開いて、レゴラスの腕を掴んだ。

 驚いて一瞬身を引く。

「捕まえた!」

 エステルは、悪戯が成功したように笑った。

「・・・・エステル・・・起きていたんだ?」

「眠れないんだ。エレストールに散々叱られたし。
・・・・・俺が、レゴラスにしたことは知らなかったみたいだけど・・・・
勝手に館を抜け出して規則を破ったことをね、すごく叱られた。
グロールフィンデルが俺を甘やかしすぎるからだって。
あんなに厳しい奴は、他にいないよ? 
グロールフィンデルは、すごく厳しいんだ。
なのに・・・・俺はグロールフィンデルを頼りにしてたんだよな。
だから、余計なものまで見る羽目に・・・・」

「グロールフィンデル殿は、優しいよ」

 明かりのない闇の中、レゴラスはエステルの隣に座った。

「あんなことされたのに? ・・・・そりゃあ、俺だってヒトのこと言えないけど」

「理由が、あるんだ」

 腕を掴むエステルの手をそっと振り解き、指を絡めて二人の間に置く。

「理由?」

「うん、そう。・・・・説明するのは、難しいな」

 からめたエステルの指に、力がこもる。

「・・・・・俺の、知らないことばかり。何も、誰も、俺には教えてくれないんだ」

 エステルの不安。

 レゴラスは自分の事のように胸が痛む。

 本当のことは、まだ何も教えられていない。

「君のため・・・・なんだよ」

「俺はもう子供じゃない。隠し事ばかりでうんざりする」

 そうだね、君はもう、幼子ではない。

「グロールフィンデル殿は・・・・君が僕に執着しすぎると。
それで、少し距離を置くように言われたんだ」

 エステルは、そんなことを言われる覚えはない、というように唇を尖らせる。
そんな表情は、まだ子供っぽい。

「レゴラスも、そう思ってる?」

「そう・・・かもしれない。でも僕は、君と離れるつもりはない。
そうしたら、あんなことに・・・・」

 握った手を、エステルはぐいと自分に引き寄せた。

「俺のせい・・・俺のために?」

 その力強さに少し戸惑いながら、レゴラスは微笑んで見せた。

「君のことばかりを考えている、僕がいけないんだ。
そんな方法しか取れないグロールフィンデル殿を、哀れにも思うよ。
それにね・・・僕にとって、肉体を弄ばれる屈辱なんか、それほどの痛みではないんだ。
心は痛んでいないもの。エステル、君が望むなら、僕は君にこの身体をあげてもいい。
でもそんなこと、不毛だよ。肉体を奪ったって、心は手に入らないもの」

 レゴラスをじっと見つめていたエステルの視線が、ふと外される。

「俺は・・・レゴラスの心が欲しい」

「君の所有物にはなれない。エステル、それは無理なんだ」

 俯いたまま、目だけを上げてレゴラスを見上げる。

「エルロンドを・・・・愛してる?」

 エステルの言葉に、胸に痛みが走る。

「それも違う。違うよ。言っただろう? 
僕は僕の国を愛していて、僕の王に忠誠を誓っている。
エルロンド卿はここの領主で、僕の国とは対等な立場にある。
偉大な方だとは思う。尊敬もする。でも、愛を捧げる対象ではない」

 エステルの視線は、訝しげだ。嘘を、ついていないか、と。

「じゃあ、俺の知らない・・・・ナントカって弓の上手い王様は?」

「バルドは、友人だよ。友人のために手を貸すのは当然だろう? 
谷間の国は、僕の国と友好関係にあるしね」

「・・・・・・・・俺は? ただの、友達?」

 トモダチ・・・・友達でありたい。

「エステルは、友達だと思ってる。そうありたい。
でも・・・・そうだね、特別な友達・・・・かな」

「特別って、何が特別なんだ?」

 不思議な笑みのまま、レゴラスは黙り込んだ。

 友達は、たくいさんいる。バルドもそうだし、エルラダンやエルロヒアも友達だ。
・・・・彼らと、エステルはどこが違うのだろう?

「・・・・君という友達の為に、僕は全てを棄ててもかまわない」

「それは、愛と違うのか?」

「そういう愛なんだ。そうたとえば・・・・友達である君を、僕は束縛しない。
君がいずれ誰かに恋をしてもかまわない。
今エステルにとって僕が一番であるかもしれない。
それが、いつか二番になって、三番になって、君に大切なものがたくさん増えて、
僕のことを見ている暇がなくなるかもしれない。僕のことを忘れてしまうかもしれない。
それでも、僕は君の友達だから、君のために自分を捧げると思う」

 誓うよ。

 レゴラスはそう付け足した。

「君がもっと大人になって、自分の道を自分で歩いていくようになる。
君は自分の道を、前だけを見て歩いていけばいい。僕はその後ろをついていくから」

 大きく息を吸い込み、エステルはレゴラスにしがみついた。

「・・・・・レゴラス・・・・・」

「何も、不安なんて感じなくていい。ねえ、僕は、いつも君と一緒にいるから。
たとえ、離れていても。君が転んだら、手を差し伸べてあげる。
エステル・・・・僕は、こんなにも君を愛してる」

 レゴラスの細い身体に回した手に、力がこもる。

 そのまま、長い長い時間を過す。

 その存在を、腕に感じながら。

「レゴラス・・・・お願い。もう一度・・・・もう一度だけ・・・・」

 不意に手を離すと、エステルはレゴラスの身体をベッドに押し付けた。

「どうしようもないんだ。身体が疼く。慰めてよ。俺の事、嫌いになってもかまわないから」

 何の事を言っているのか。レゴラスは目を細めた。

「そんなことは、無意味だよ」

「レゴラスにとっては無意味かもしれない。
他の誰かと身体を重ねるのと、同じかもしれない。でも、俺にとっては特別。
俺は・・・人間なんだ。エルフじゃない。心のつながりだけで安心してはいられない。
レゴラスがそんなふうに俺を思ってくれているの、すごく嬉しいけど・・・・
だから、余計に・・・・体の奥が疼いて、どうしようもない。体中で感じていたい。
・・・・・レゴラス、次の夜明けには、森に帰ってしまうんだろう? 
そして、しばらくここには来ない。エレストールが教えてくれた。
俺がもっと大人になって、自分の欲望やその場の感情だけで行動しなくなるまで、
会ってはいけないと。このままでは、俺は自分を否定し続ける。
レゴラスに対する思いを、誤ったものだと自分を責め続ける。
・・・お願いだよ、俺に、自分を肯定させて」

 そんなふうに求められて・・・・拒絶できるはずもない。

 やっぱり、自分は甘いのだろう。

 本当は・・・・・自分だって彼を求めているのだから。

「それで、納得できるの?」

「俺を、肉体の欲望を抱えた俺を、受け入れて欲しい。
もしどうしても嫌なら・・・・俺は、そんなつながりはいらない。
レゴラスのことは、諦める。忘れる」

 

 本当に、忘れることなどできはしないのだけど。

 

 エステルを見上げていたレゴラスは、そっと息を吐いて体を起した。

 押さえつけていたつもりなのに、するりとかわされて、エステルは唇を噛む。

 無理矢理にでも犯したいと思っていても、そんなことは本当は不可能なのだ。
自分は、グロールフィンデルのような力はない。レゴラスに、何かを強制することはできない。

 

 力ない、人間。

 

「エステル・・・・」

 くるりと身体の位置を変え、レゴラスはエステルの肩を軽く押してベッドに倒した。

「君がそれしか望んでいないなら・・・・・。でも忘れないで。
これは、今一時的に君を慰めてあげるだけだよ。僕は君の恋人じゃない。
君はちゃんと、自分を見つめて、自分のすべきことを見失わないと」

 驚いたように目を開くエステルに、軽く口づけをして、レゴラスはその服に手をかけた。

 

 

 

 それは、官能的な夜になった。

 

 こんな感覚が存在するのかと、快楽とはこういうことをいうのかと、
エステルははじめて知った。

 自分の上で揺れる、レゴラスの金色の髪が、光の粒を放つ。

 紅く染まった唇が吐息を吐くたび、エステルの心臓は締め付けられ、
繋がった部分以外の感覚を失う。

 光も音もない世界。

 温かくて、内側から湧き上がってくる悦楽。

 

 俺だけに見せて。

 その表情・・・・その声・・・・。

 透明なガラスの瓶に閉じ込めて、大切にしまっておくから。

 

 何かがはじけるように、エステルはレゴラスの腰を掴んで自分に押し付けた。

 愛しいエルフの、奥深くに自分を流し込む。

 苦しげに眉を寄せたレゴラスが、エステルをぼんやりと見下ろす。

 体を離そうとするレゴラスを、掴んで引き寄せ、
キスをしてからエステルはその耳元に囁いた。

「まだ、足りない」

 小首をかしげ、レゴラスがクスクスと笑う。

「・・・・・いいよ。気がすむまで」

 その唇が誘っているようで、エステルは息を飲む。

 繋がったままレゴラスを押し倒し、今度は自分から彼を攻め立てた。

 

 もう、レゴラスの中は俺で溢れてる。

 それは、感触でわかった。

 ぐちゅぐちゅと音を立てて、シーツに滴っている。

 それでも、まだエステルはレゴラスから引き抜きたくはなかった。

「・・・・レゴラスが、イクとこ、見たい」

 鼻先をあわせて囁かれ、レゴラスは困ったように口元をゆがめる。

「それとも、ぜんぜんよくない? グロールフィンデルとするときは、イクの?」

 ますます困ったように視線を外すレゴラスに、
エステルは自分ばかりがいかされる不満を感じた。

「それだけは・・・・ゆるして」

「何故? 本当は、俺とするの、そんなに嫌だった?」

 嫌じゃない・・・・・そうじゃなくて・・・・

 

 認めたくないんだ。

 

「レゴラス」

 顔を上げたレゴラスは、エステルに唇を重ね、滑らかに舌を動かした。

「エステル・・・・絶対に秘密だよ。僕自身にも、絶対に言わないで。約束して」

 半信半疑で肯く。

 レゴラスは紅潮した唇でエステルの唇を、舌を、吸い、瞳を閉じた。

 

 声を押し殺しながらも、動きにあわせて短い息を吐く。

 さっきまで以上に、エステルは興奮した。

 レゴラスは頬を染め、喘ぎ、快楽に溺れるように唇を舐める。

 エステルが何度目かに達すると、レゴラスもこらえきれない嗚咽を漏らして、
エステルの身体に快楽の印を吐き出した。

 

 暖かな液体。

 

 エステルはそれを指ですくい、舐めてみる。

 

 レゴラスの、味。

 

 それがもっと欲しくて、自分を引き抜いてレゴラス自身に食らいつく。

「・・・・エステル?」

「食べてしまいたい。今度は、レゴラスのもので俺を満たして」

 

 

 夜が明けるまで、

 まるで理性を失った獣のように、

 二人はお互いを貪りあった。

 

 

 

 傍らで深い眠りに落ちるエステルの髪を撫でながら、
レゴラスは窓から差し込む朝日を眺めた。

 静かに子守唄を口ずさみながら。

 もう時間だ、と、朝日が告げている。

 ベッドを抜け出し、服を着る。

 髪を整えて、窓に歩み寄る。

「さようなら、エステル。愛しい子。今夜のことは、どうか忘れて」

 

 忘れないで。

 

 銀色の朝日の中、レゴラスは窓から飛び降りた。

 

 

 

 次の夜明け。

 レゴラスは従者たちを連れて、森に帰っていった。

 

 エステルの管理は、グロールフィンデルの手に戻っていた。

 エステルは変った。

 グロールフィンデルは気付いていた。

 レゴラスとのつながりが、彼を変えたのだ。大人へと。

「エステル、私を憎んでいるか」

 そんな問いを、エステルは笑い飛ばした。

 

 少年の時は、終りを告げていた。