レゴラスが谷に来なくなってから、エステルは驚くべき成長を見せた。
甘える相手がいなくなったせいか。急に大人びてくる。
それまでおざなりにこなしてきた勉強も、剣術も、自ら進んでするようになった。

 

 レゴラスが来なくなってから、
グロールフィンデルは彼のエステルに対する影響力を強く感じた。
彼がどれほどのものをエステルに教えてきたのか、初めて実感した。

 風の読み方、周囲に対しての洞察力、身の潜め方・・・。
グロールフィンデルが教えてきた以上のものを、エステルは身につけていた。

 ただひとつ、気になったのはレゴラスの癖の模倣である。
弓を射るとき、首を横にかしげる。それだけは、エステルに直させた。
エステル自身は、それがレゴラスの癖であることに気付かずにいた。

 エステルはレゴラスの名を口にすることはなくなり、まるで忘れ去ったかのように見えた。

 

 

 

 そして、更に数年が過ぎていった。

 

 二度目の転機が、訪れる。

 斥候が、闇の森からの使者の来訪を継げた。

 

 エステルは、高いところにあるお気に入りの場所で本を読んでいた。
窓辺から何気に見下ろすと、谷の門にエルフの一団が見えた。

「・・・・・・!」

 白い馬に乗った、高貴な若いエルフが一人。その後ろに数人の従者を従えている。

 濃い緑の服を着たエルフは、馬を下りると出迎えたエルロンドに片膝をついた。

 二言三言、言葉を交わし、連れ立って館の中に入っていく。

「・・・・・」

 エステルは言葉を失って、しばらく立ちすくんだ。
心臓が、まるで独立した生きもののように激しく波打つ。
頭の中がガンガンと鳴り響いて、目眩を感じるほど。

 動揺して視線をうろうろと漂わせ、もう一度窓から見下ろす。
もうそこにあのエルフの姿はない。

 

 幻・・・・

 

 いや、そんなはずはない。

 エステルは足をもつれさせながら、駆け出していった。

 

 

 

 エルロンドの執務室へと続く回廊で足を止め、壁に背を持たせかけて何度も深呼吸をする。
来客は、必ずここを通ってエルロンドに挨拶に行く。
見間違いでなければ、彼もここを通るはずだ。

 動悸が止らない。

 足が震える。

 一秒一秒が、まるで百年のように感じる。

 やがて、やわらかな光を感じて顔を上げる。
角を曲って、そのエルフはゆっくりと近付いてきた。背後から二人のエルフがついてくる。

 

 高貴な者

 

 今まで感じなかった、そんな印象を与えられる。

 日の光のような金色の髪が、彼が歩むたびに揺れ動く。

 壁際で、まるで彫像のようにエステルは動けなかった。

 ゆっくりと近付いてきた彼が、エステルの前で足を止める。

 

 振向く。

 

 緑色の瞳でじっと見つめられ、エステルはとたんに不安を覚えた。

 そのエルフは、不思議そうにエステルを眺めていたのだ。

「・・・・・俺が・・・・わからない?」

 言葉を詰まらせると、そのエルフはやっと微笑を見せた。

「わかるよ。エステル・・・・とても大きくなって、立派になって、驚いていたんだ」

「レゴラス・・・」

 とろけるようにその名を口にする。

 そうすることを、どれだけ切望していたことか。

 夜の闇の中で、一人っきりで何度その名を口にしたことか。

「心配していた」

 大人びた表情を守るように、そんなことを言う。本当に最初に言いたかった言葉は違う。

 

 会いたかった。

 ずっと、待ってた。

 

「僕も君の事を心配していた」

 自分の知っている、あの時のままの表情。

「俺はもう、子供じゃない」

 成長した自分を、見せたかった。

「・・・そう、だね」

 レゴラスの従者が、後から耳打ちをする。レゴラスは、わかっているよと片手を挙げた。

「ゆっくり話をしたいのだけど、今はエルロンド卿に挨拶をしに行かなきゃいけない。また後で」

「秘密の中庭で?」

 冗談めかして言うと、レゴラスはおかしそうに笑った。

「そう、秘密の場所でね」

 従者に目配せをして歩み去るレゴラスの後姿を、見えなくなるまで見送る。

 

 秘密

 

 それは、昔も今も、魅惑的な言葉だ。

 何か楽しいことが起こるような、わくわくした気持ち。

 二人だけの秘密。

 

 二人だけの・・・・

 

 胸の奥が熱くなる。

 

 二人だけの秘密、

 それは、

 レゴラスが自分だけを見ていてくれること。 

 

 

 

 従者を従えて、エルロンドの執務室に入る。

 エルロンドは立ち上がった。
レゴラスも、その従者たちも今まで以上に丁寧に挨拶をする。
エルロンドの隣には、顧問長エレストールが控えている。

「スランドゥイル王の親書を持って参りました」

 従者に手渡されたそれを、エルロンドに渡す。
エルロンドはそれを広げてざっと目を通し、エレストールに渡した。
エレストールもそれを読み、エルロンドに返す。

「ご苦労であった。闇の森からの正式な使者として、我々は貴方方を歓迎する。
昼食の後会議を開くので、列席してもらいたい。それまでしばし休まれるように」

 レゴラスは深く頭を下げ、執務室を出た。

 

 執務室を出ると、そこに警備兵のようにグロールフィンデルが立っていた。
従者たちが一瞬たじろぐ。レゴラスは、心配ないというように、従者たちに目配せをした。

「会議の時間まで客間で休まれるように。昼食は運ばせる。
今まで同様、館の中を自由に歩き回ることはかまわないが、
会議が終わるまで、それはあまり賢明ではないだろう」

「ご指示に従わせていただきます」

 レゴラスの表情は感情がこもったものではなく、あくまで使者として訪れた冷静なものだった。

「では、部屋まで案内しよう」

 

 

 

 初めて会議に参列した時のような、嘲笑の眼差しはもうなかった。

 エルロンドの両脇にエレストールとグロールフィンデルが座る。
その正面に、レゴラスと従者が座る。

「スランドゥイル王は五軍の戦いにおいて、
小さき人、ホビットのビルボ・バキンスの功績を高く評価されております。
ホビット族の里がエリアドールの西にあることはうかがいました。
そして、その隠れた里を西方人ドゥネダインが守っていることも、ガンダルフから聞きました。
そこでスランドゥイル王は、ビルボ・バキンスへの感謝の気持ちを表すため、
できうる限りドゥネダインに力を貸したいとの事です。
ガンダルフから聞くところによりますと、ドゥネダインは裂け谷と深く関わっているとの事。
我が王はエルロンド卿を上級王ギル=ガラド殿の後継者として、その地位を認め、
和平を取り持ちたいと願っておられます。
以後、ロヴァニオンをノルドールが自由に歩き回る権利を与えること、
必要とあらば我が森の兵もお貸しするとの事です」

 今更・・・・。顧問たちも、エレストールでさえ、「今更」と思った。

「頑ななスランドゥイル王の心を動かしたのは、たった一人のホビットとは」

 誰からともなく、そんな言葉が聞こえる。

 レゴラスは、口元に笑みを作った。

「十分ではありませんか? たった一人の小さき人の勇気が、王の心を溶かしたのです。
もっとも大切なのは、そんな些細に見えることなのではないでしょうか? 
私もビルボ・バキンスに会いました。とても素朴で、勇敢な、すばらしい者です。
それを守る為に立ち上がることが、愚かしいと言えましょうか」

「もっともだ」

 エルロンドは口を開いた。

「小さな勇気が、世界を動かすこともある。それをないがしろにしてはいけない。
スランドゥイル王のご決断に感謝しよう。
イムラドリスはスランドゥイル王の申し出を喜んで受け入れる。
スランドゥイル王が必要とするときがあれば、いつでも申し出て欲しい」

「ありがとうございます」

 レゴラスは輝ける笑みを見せた。

「もうひとつ、親書にも書かれていることですが」

 誇りある笑みを保ちながら、エルロンドを見据える。

「五軍の戦いにおいてスマウグを倒した人間、バルドですが、
二年程前谷間の国を再建し、王となられました。
独立国としての認知をお願いいたします。
谷間の国は現在、我らと友好関係にありますが、まだ若い国です。
折を見て、人間の国「ローハン」や「ゴンドール」とも手を結びましょう。
しかし、誇り高き独立国として、大国に従属はいたしません。
そのところをご理解いただきたく思います」

「了承した」

「私からは以上です」

 レゴラスが腰をおろす。エルロンドは顧問たちを見回した。
何か意見はないか、というように。
エレストールもグロールフィンデルも、
反論がない証拠に眉ひとつ動かさずじっと前を見据えている。

「闇の森からの一行を歓迎する。好きなだけ滞在して欲しい。
貴方方は館を自由に歩き回る権利を有する。
今後、闇の森からの来客は、いつでも歓迎する。また、情報交換も望まれる」

「裂け谷からの使者を、スランドィル王は受け入れると申されておりました。
私どもの森へ、いつでもおいでください」

 和やかにレゴラスは微笑み、会議は閉会された。

 

 

 

 会議が終わり、従者たちと別れてレゴラスは庭を歩いた。

 久しぶりだ。

 木の葉を手に取り、咲く花を確認する。風の匂いをかぎ、大きく深呼吸をする。

「終わった?」

 庭にいた少年が・・・背が高く、立派に成長した少年が、レゴラスに語りかける。

「終わったよ」

「いい結果だったみたいだな。さっき会った時より緊張してないみたいだ」

 レゴラスは満面に笑んだ。

「わかるかい?」

「わかるさ」

 レゴラスのことなら何でも。そう言いたげに、歩み寄る。

 レゴラスはエステルの肩に触れ、その感触を確めた。

「本当に立派になったね。たくましくなった。殿、僕に庭を見せてくださいますか?」

 ふざける口調に、エステルは笑いながら咳払いをする。

「いいとも。あのリスは子供が増えて、新しい巣を作ったよ」

「本当? 見たいな!」

 エステルは子供に戻ったように笑いながら、レゴラスの手を引いて走り出した。