レゴラスは、夜中を双子、エルラダンとエルロヒアと共に過し、
そして語り明かした。

 

「お前たちは、どう評価する?」

 エルロンドに問われた時、
エルラダンとエルロヒアは顔を見合わせ、唇を吊り上げた。

「父上は、ガラドリエルの奥方の言葉を覚えていますか?」

「ガラドリエルの?」

「そうです。シルヴァンを侮ってはいけない、と」

 ガラドリエルは、今、シルヴァンを統べている。

「その通りだと思いますよ。
確かに、歴史や伝承には疎いかもしれません。
しかし、生きる知恵をよく身につけています。
それに、シンダールの誇りや気品も持っています。
私たちは、ずいぶん長い間話をしましたけどね、
エレストールの心配するようなことは微塵も感じられませんでした。
レゴラスは・・・もっと純粋なんです。
我々より、もっと。我々は、何かを忘れているのかもしれませんよ。
レゴラスはそれを持っているから、
・・・それを忘れてしまった顧問たちの苛立ちを誘うのかもしれません」

 息子たちの言いたいことは、エルロンドには薄々感付いていたことだった。
レゴラスは、自分たちとは違う。

「ある意味、それは我々にとって危険かもしれませんが」

 エルロンドは息子たちを見据える。その瞳の色に、二人は気がついた。
父の心を読むように、頭を横に振る。

「父上」

 エルラダンは、複雑に表情をゆがめた。

「私たちは父上を恨んでなどいませんよ。
父上に愛されていることはよく理解しています。
それでも、・・・私たちは、自ら憎しみの道を選んだのです。
レゴラスを羨んだりはしません。
むしろ、運命の糸に縛られて動けないでいる父上に、同情さえ覚えるのです。
父上も、レゴラスに惹かれているのでしょう? 
何にも縛られることなく、愛され守られて育ってきたレゴラスに」

 息子たちに見透かされ、エルロンドは苦笑した。

「・・・・・否定はしまい」

「レゴラスは父上に魅了されていますよ。智恵深く寛大な方だと。
レゴラスは何にでも興味津々ですからね。
エルロンド卿は知らぬことがないので、
そばに引っ付いて思う存分知りたいことを学べばいいと言っておきましたよ」

「それは・・・困るな」

 双子たちは笑い、エルロンドもつられるように笑った。

 

 

 

(エルロス、エルロンド、私はお前たちを愛しているよ)

 そう言ったのは、誰だったか。

 母を海に追い詰めた男。

 ただ必要とされ続けた。何の為かも考える暇もなく。

 私は妻を、ちゃんと愛せただろうか?

 なら何故、彼女を救えなかったのか?

(眠りなさい、エルロンド)

(グロールフィンデル?)

(エアレンディルの子。私の愛した、ゴンドリンの寵児)

(グロールフィンデル、今どこにいる?)

(私はここに。いつでも貴方のおそばに)

 

 小さな物音に、エルロンドはハッと顔を上げた。

「申しわけありません。・・・お休みになっておられるとは・・・」

 動揺したレゴラスの視線が、宙を漂う。

「いや、すまぬ。少し考え事をしていた」

 エルロンドの書斎。書きかけの本が、目の前に広げられている。

 レゴラスは戸惑い、立ち尽くしている。

「何か用でも?」

 口元に笑みをつくり言葉をかけると、
レゴラスは改めてちゃんと礼をして入ってきた。

「庭を散策していましたら、見た事もない花がありましたので
・・・・もしよろしかったら教えていただきたいと」

 花?

 エルロンドは口に手をあて、笑った。

「すみません・・・こんなこと。
エルラダンもエルロヒアも知らないと・・・それで、
エルロンド卿なら知っているだろうから、
聞いてくるといいと言われましたので」

 花・・・花、か。
もっと他に、知るべきことがたくさんあるだろうに。
館のことも、ノルドールのことも、
・・・我らがミドルアースにどう関わっているのかも。

「レゴラス、それは君にとって大切なことなのか?」

「はい!」

 迷うことなく速答する。

「いつか、もっと自由にこの地を歩けるようになりましたら、
私はもっとたくさんのものを見て知りたいのです。
いつか・・・光溢れる森で・・・輝く緑に囲まれて暮らしたい」

 夢見るように話すレゴラス。その姿は、埃っぽいこの部屋には似合わない。

「海を・・・渡らないのかね?」

 いずれ、エルフの時代は終わる。皆、この地を去る。

「海には憧れます。私の血の半分は、シンダールですから。
海を目指したいという気持ちもあります。
でも、それは・・・まだきっと、ずっと先のことです」

 そっと握っていた手のひらを開くと、そこには紫色の小さな花。

 エルラダンとエルロヒアは、レゴラスとそんな話ばかりをしていたのだろうか? 
確かに、心の鎧を解いた王子と共にいると、
まるで自分まで自由になった気がしてくる。

 

それは、恐ろしく甘い誘惑。

 過去も未来も、与えられた使命も、重すぎる指輪の力も、
すべて棄てて風に身を任せていられたら・・・。

 

 エルロンドは花をちらりと見て、重たい本を引き出してきた。
ページをめくり、ペンで描かれた花を指し示す。

 近付いてきたレゴラスは、
そこに描かれた、たくさんの植物に眉根を寄せた。

「・・・文字が、読めないのかね?」

 エルロンドの問いに、苦笑する。

「読めます。読めますが・・・・その、慣れていないもので」

 手のかかる子だ。

 そんな言葉が浮かんできて、口元で笑む。

 そう、手をかけられて育ってきたのだ。
きっと、自分で調べろとは教わらなかったのだろう。
知らない葉を見つけてきては、知っている誰かがそれを丁寧に教えてきたのだろう。

「天人唐草。早春に咲く花だが、今ごろ咲くとは珍しい」

「これが咲いていた所は、春は日陰になっているんです。
ですからきっと、この花にとって今が春なんですね」

 花のことがわかって、嬉しそうにレゴラスは微笑む。
ペンで描かれた花に、見つけてきた花を重ねる。

「よく描かれているけど、本物の方がずっとキレイ・・・」

 無邪気なレゴラスの顎をそっと持ち上げ、唇を寄せる。

「・・・・・・」

 触れるだけのキスに、レゴラスは頬を染めて視線を落とした。

「・・・・・・いけません、エルロンド卿」

「何故だね?」

 唇を結び、小さく深呼吸をする。

「あなたは、ご自分のお力をご存知のはず。
貴方に触れられたら・・・私はかしずいてしまいます」

「私は、お前の立場を尊重する。私に従属させようとは思わない」

「対等になど、なり得ないのです」

 顔を上げたレゴラスの瞳は、シンダールの輝きを持っていた。

「お許しください」

 胸に手をあて、レゴラスは足早に去っていった。

 残された本と、小さな花を見下ろす。

「この花が・・・キレイだと思ったことはない・・・」

 エルロンドは呟き、紫の花を乗せたまま、本を閉じた。

 

 

 

 昼間、双子は時間が許す限りエステルとレゴラスを会わせてやった。
レゴラスは、彼自身も幼い子供のように、エステルと遊んで過した。

 夜は双子と語り合うか、広間で従者たちと歌って過している。

 たわいない時間が過ぎてゆく。

 さすがのエレストールも、神経を尖らせることをやめていた。
エルロンドは、息子たちと戯れるレゴラスを、微笑ましく見ていた。

 

 このままずっと、彼がこの谷にいてくれたら・・・。

 

 時折、レゴラスはエルロンドを訪ね、
自分の知らない動植物について教えを受けた。
それ以外の歴史や政治的なことには、まったく興味がないように見える。
ほんの少し指をのばせば届くところにある金色に髪に、
忘れていた心の動揺を感じることがある。
グロールフィンデルのように、強引に奪ってしまいたい欲望を感じることもある。
シンダールなど、ましてやシルヴァンなど、取るに足りない。
そう感じる心を強く押さえつける。レゴラスの信頼を、裏切ってはいけない。

「・・・指にインクが」

 一生懸命本を眺めていたレゴラスが、顔を上げる。
エルロンドはその指をそっと支え、そばにあった布で拭いてやった。

「いつまで・・・いられるのかね?」

 そうしてやりながらも、さりげなく問う。

「あまり長くは。月が欠け始めたら帰ります」

 もうほとんど満ちた月。あと、長くても三、四日か。

「そうか。次は、いつ?」

「もし、エルロンド卿のお許しがいただければ、また一年後に」

 きれいになった指を放すと、レゴラスは自分の指をそっと引き寄せ、握った。
まるで、大切なものをしまいこむように。

「息子たちは君を気に入っている。
エレストールも、君を認めざるを得ないだろう。
次に来訪された時には・・・私はもっと君に何かしてあげられるだろう」

 レゴラスは顔を上げ、エルロンドを見た。

 子供の秘密を打明けられてもらえるなら、
もっとエステルと公けに会うことができる。
期待するようなレゴラスの表情に、エルロンドは微笑んだ。

「レゴラス」

「はい?」

「・・・私の好意を受け入れてはもらえぬか?」

 ここで肯いてしまえば・・・この先谷での待遇は安泰なものになる。
それに・・・レゴラスは、自分が決してエルロンドを嫌ってはいないことを、
むしろ好意を持っていることを自覚している。

 

 エルロンドの腕は、きっと温かいだろう。

 

 だけど、それだけはできない。

 むしろ、強引に奪ってくれればいいのに。
それなら・・・心を許さないという建前だけをもって、肉体を預けられる。

 あれは・・・・・

 

 あれは、悦楽だ。

 

「いや、いいんだ。すまない」

 レゴラスは視線を落とし、自分の手をきつく握った。

 知ってしまった熱を、否定しながらも求めてしまうと言うのか。

「すみません・・・」

 レゴラスは、落とした視線を上げられなかった。

 

 

 

 エルロヒアは、珍しくワインを部屋に持ち込んだ。
エルラダンとレゴラスがそれを待ち受ける。
谷では、食事の時以外にワインを飲んだり宴会をしたりという習慣はない。

「もっと、いろんなことを楽しめばいいのに!」

 父親譲りの口調でレゴラスが言うと、双子は笑った。

「ロリアンのシルヴァンは、飲んだくれてなんかいないぞ?」

「おかしいなあ」

 真顔でレゴラスが首をひねる。

「ロリアンに行った事は?」

「ないよ。父さんは今のロリアンの統治者を嫌っているもの」

「嫌いなものだらけだな」

「アムロス様とは仲がよかったみたいだけど? 私が生まれる前の話だけど」

 そんな調子でワインを酌み交わす。
顔に似合わずレゴラスはワインをよく飲み、そして強かった。

「・・・グロールフィンデル殿って・・・どんな方?」

 さりげない問いに、ほろ酔いの双子は口調も軽い。

「子供好き」

「世話焼き」

「心配性」

 思いがけない返答に、レゴラスは目を丸くする。

「父上は不器用だから、
俺たちは小さい時はずいぶんグロールフィンデルに世話になった。
悪戯をして叱られたり。
今だって、エステルの世話は結果的にグロールフィンデルの監視下だよな」

「そうそう。あいつは、子供に好かれるんだ」

 思い出したように双子は笑う。

「・・・そうは・・・見えないけど」

 レゴラスは、手にしていたワインのグラスを置いた。

「そうか? レゴラス、お前のことも頼まれてるんだ」

「監視、でしょう?」

「他の顧問たちに睨みを効かせておけってさ。手を出したら後が怖いぞって」

 目を瞬かせて、レゴラスは双子を見つめた。

「でも、あの方は・・・・」

 あんな酷いことを・・・・無理矢理僕を犯したのに・・・・?

 レゴラスが唇を噛む。

「冷たい言い方とか、強引な手法とかを取るんだ。
時々、もしかしたら、嫌われたいんじゃないかと思うときがある。
なぜかな。
父上に、あんな冷たい視線を向けるのは、グロールフィンデルくらいだろう。
仲が悪いのかと思うときもあるさ。
でも本当は、父上は誰よりグロールフィンデルを信頼している。
グロールフィンデルも、突き放すような態度を取りながらも、
「裂け谷のエルロンド」を守っているんだ」

「だって僕は・・・・」

 言いかけた口を閉じる。何を告白しようとしているのか。

「だって?」

 エルラダンが聞き返す。

「・・・・・いや、だって、
グロールフィンデル殿は、私にとても冷たいから」

「気に入れば気に入るほど、冷たくするのさ。
本当に嫌いな奴は、相手にしない。そういう奴なんだよ、グロールフィンデルは。
・・・そうだなあ、甘えさせてはくれるけど、甘やかしてはくれない。
そんなカンジかな」

「でも・・・強引過ぎるよ」

 レゴラスの呟きに、エルラダンは唇を吊り上げた。

「お前と、父上に対する威嚇だろう。
お前と言う存在が、父上を魅了することはわかっていたはずだ。
もちろん、他に方法はあるのかもしれない。
でも、そうすることでお前は父上に助けを求め、
父上はお前を保護したい欲望に駆られる。
それと同時に、安易に関係を結ぶことへの警告を発することにもなる。
グロールフィンデルは、お前が今回谷を訪れることを知っていながら、
自ら進んで谷を出た。・・・なあ、レゴラス、本音を言えば、
俺たちだってノルドの血が濃い。無邪気に笑っていられると、
蹂躙したい欲望を感じる事だってある。でもな、それは絶対にできない。
グロールフィンデルが手をつけた者を、遊びの延長で抱くことなんかできないんだ」

 息を飲み、レゴラスはエルラダンを見る。彼は、苦笑いをして見せた。

「今お前は、グロールフィンデルに守られているんだよ。
その証拠に、グロールフィンデルと関係を持った後は、
顧問たちの態度が変ったはずだ。お前の価値が引き上げられた証拠だ」

「知って・・・?」

「公然の秘密、ってやつさ」

 公然の秘密・・・? エルラダンの言葉に、唇が震える。

 エルロヒアは、エルラダンの肘をつついた。言いすぎだ、と。

「レゴラス、すまない。それが、ここのやり方なんだ」

 エルロヒアは、肩を落とす。

「卑劣で、姑息で、狡猾。
だから、君の父上はノルドールとの関係を絶ちたがっているんだ。
でも、わかってほしい。そうやってノルドは長い間冥王と戦ってきたのだ」

「レゴラス、そんな我々を統べる、父上を、エルロンドを軽蔑するかい?」

 噛締めた唇のまま、首を横に振る。

「わかったよ。
つまり・・・グロールフィンデル殿は、
汚さの全てを自分にかぶせてるわけなんだね。
私が、エルロンド卿を軽蔑しないように」

 手酌でワインを注ぎ、グラスの半分ほどを一気に飲み干す。
それから、レゴラスは眉を寄せて笑って見せた。

「私は、貴方たちが好きだよ。エルロンド卿のことも・・・・
たぶん、愛してる。現実を受け入れてしまえば、たいしたことはないんだ。
きっと、私がここで気丈でいられるのはグロールフィンデル殿のおかげなのだろうね。
それに、グロールフィンデル殿は、痛みと交換に色々な情報をくれたし」

 残りを飲み終え、ワインの瓶を双子に差し出す。
エルラダンもエルロヒアも、両手を挙げて拒絶を示した。

「全部、飲んじゃうよ?」

「酒豪なんだな。どうぞ」

 グラスに注ぐこともせず、レゴラスは直接瓶に口をつけてワインを飲む。
空になったワインの瓶を掲げ、ニヤリと笑う。

「酔いつぶれたりはしないのか?」

「この程度じゃね」

 空の瓶をテーブルに置き、ふとレゴラスは思い出したように笑みを消した。

「白い・・・・」

「白?」

「うん、白い・・・あれは、都、かな? 知ってる?」

「ゴンドールじゃないのか?」

 答えるエルロヒアに、レゴラスは首を振る。

「違う。もっと古い」

 双子は顔を見合わせた。

「ゴンドリン・・・かな?」

「ゴンドリン?」

 エルラダンもエルロヒアも、つたない歴史の記憶を探る。

「グロールフィンデルの故郷だよ。
モルゴスに滅ぼされたのは、第一紀だ。
詳しくは、父上に聞けばいい。でもなんで、そんなことを?」

「グロールフィンデル殿の、記憶の中にあった」

 エルラダンもエルロヒアも、大げさなほど驚いた。
驚く二人に、レゴラスは首をかしげる。

「見たのか? 奴の記憶を?」

「うん・・・ちらっと」

「いつ?」

「いつって・・・・」

 さすがにレゴラスが頬を染める。それで、双子は悟った。

「知ってるか、レゴラス。
グロールフィンデルは固く心を閉じていて、絶対に誰にも覗かせたりしないんだ」

「そうなんだ?」

 そうか、シルヴァンは心で会話をすることもないのか。
だから、それがどれだけ重要な意味を持つのかも知らない。

「なんとなく、ぼんやり見えただけで・・・すぐに閉じられてしまったけど」

 それは逆に、無意識に心を許したことになる。
グロールフィンデルがそんな失態をするとは・・・
いったいどんな関係があったというのだろう。
双子は追及してみたい気持ちを押えた。

 確かに、レゴラスは魅力的だ。容姿だけの問題ではない。
エルロンドの心も惑わす。

「レゴラス、父上のものになると、宣誓してしまえ。お前のためだ」

「どうして?」

「父上はお前に酷いことはしない。
お前が嫌なら、その身体に手を触れることもしないだろう。
でも、宣誓してしまえばお前は父上のものと認められ、
誰もお前に手を出すことはできない。グロールフィンデルでも」

 エルラダンの言葉に、苦笑して首を振る。

「それは・・・できないよ」

「なぜ? 父上が嫌いか?」

「違う・・・違うけど・・・私は、シンダールの王の子だもの」

 レゴラスのプライド、か。肉体は許しても、精神は曲げない。
だから・・・グロールフィンデルは強引にその肉体を引き寄せる必要があったのか。
上のエルフに力で負けたとしても、平伏しなければプライドは保たれる。

「強いんだな」

「スランドゥイルの子だからね。たとえ敗北しても、強い力に服従したりはしない」

 その強さも、レゴラスの魅力のひとつなのだ。

 双子は溜息をついた。

 

 レゴラスは、もうひとつ、グロールフィンデルの中に見たものは口に出さなかった。
それは、決して口にしてはいけないような気がしたからだ。

 それは、銀色のエルフだった。