子供にとっては、薄暗い室内で埃っぽい本を読んでいるより、
こうして外で身体を動かしている方が、ずっと好きだった。

 それに、剣術や体術を教えてくれる、この背の高いエルフも好きだった。

 練習用の軽い剣を振り回す。
自分も、グロールフィンデルのようにカッコよくなりたいと思いながら。

「右、左、・・・・遅い、もう一度。・・・・・・・そう、よくなった」

 褒められて調子付いて剣を振り回す。

「!」

 踏み込んだとたん、剣を高く飛ばされる。

「ああ・・・」

 剣が背後の茂みに落ちると、グロールフィンデルは取って来いと身振りした。

 子供は慌てて剣を拾いに行き、ふと目を上げると、
少し高いところにあるポーチに「彼」がいた。

 満面の笑みで子供が手を振る。そのエルフも微笑んで片手を挙げた。

「エステル! 何をしている?」

 子供はグロールフィンデルに振り返り、視線を戻すと、もうそこにそのエルフはいなかった。

 小首をかしげて剣を拾う。と、そのそばに小さなどんぐりが落ちていた。

 宝石のようにきらきら光る小さなどんぐり。
子供はどんぐりを拾うと、大切にポケットにしまった。

 

 

 

 翌朝、森のエルフたちは谷を発って行った。

「来年の、若葉が芽吹く頃・・・また来ます」

 レゴラスは、エルロンドにそう告げた。

 

 

 

 グロールフィンデルは見送ることもせず、部屋で一人本を広げていた。

「連中は帰っていったよ」

 部屋を訪れたエレストールは、そう言った。

「とりあえず、安泰が戻ってきた」

 心底ほっとしているのだろう。
エレストールのそんな姿に、グロールフィンデルは苦笑した。

「・・・あれから、私は考えたのだよ。一晩中ね」

 グロールフィンデルの前に腰を下したエレストールは、
指を組んで本を読むふりをしているグロールフィンデルを見つめる。

「結局、君はエルロンド卿の先回りをしていたわけだ。
エルロンド卿は森の王子に興味があった。だが、館主として直接手を出すことはできない。
慎重にならざるを得ない。
そこで君が、森の王子にちょっかいを出してエルロンド卿に先に進むきっかけを与えた。
その後も、エルロンド卿は谷の秘密を森の王子に明かしたかった。
が、当然そんなことはできない。だから君が森の王子に教えた。
誰でもない君がすることで、他の誰も異論を唱えることができない。
結果、エルロンド卿に行動の機会を与え、
また、他のノルドールから王子を守ったことになる」

 本を広げたまま、グロールフィンデルが苦笑する。

「・・・・買いかぶりすぎだ、エレストール。私は己の欲望のままに行動したに過ぎない」

 そう、その態度。
自由気ままに愚行を楽しんでいるように見せることで、
結局はイムラドリスとしての立場を守ったわけだ。

「君を疑って悪かった。私は神経質になりすぎていたようだ」

「お前が神経質でいてくれるから、他の者たちは安心できるのだよ、エレストール。
顧問長はお前しかできない」

 エレストールは口元をゆがめて笑った。

「時代は、流れを変えるかもしれない」

「それは、我々の時代の終りを意味するものだ。もう少しだ。
もう少しで、我々の役目は終わる」

「・・・・そうだな」

 エレストールは立ち上がった。

「しばし、ゆっくりと休むとしよう」

「休める時にな」

 君も休むのだぞ、そう言いたげにエレストールは唇を開き、
余計なことだと言葉を飲み込んだ。そして、部屋を出て行った。

 

 

 

   たくさんの時代が

   水の面を

   走り抜けていったのが 

   見えるような気がします

   そして今・・・・・・

 

 

 

 ノックの音に、はたと気付いてグロールフィンデルは本を閉じた。

 入って来たのは、エルロンドであった。

「今、歌を・・・?」

「歌? 私が歌など・・・・」

 ああ、そうか。部屋の中の声や物音が聞えなくても、開いた心の思念は読み取れるのだ。

 エルロンドほどの力を持つ者には。

「なつかしい。遠い昔に聴いた」

 グロールフィンデルは、視線を落とした。

「・・・・イドリルが、エアレンディルに歌っていたのです」

 エアレンディル・・・・その名に、エルロンドは目を細める。

 ほとんど記憶に残っていない、父。

 

    河のほとりに

    ふたり坐れば

    たそがれ風さえ

    ふと たちどまる

    黙ってこのまま

    そばにいてください

    あなたの肩に

    もたれていたいのです

    はじめからずっと

    知っていたような

    そんな気がする

    あなたが 好きです

 

 人間に恋をしたイドリル。

 はたして、幸せだったのだろうか。

 エルロンドに、知る由もない。

「それで、何かお話でも?」

 エルロンドに非難されることは、覚悟の上である。
エルロンドの意に背き、イムラドリスの秘密をスランドゥイルの息子に知らしめた。

「・・・グロールフィンデル。お前はイムラドリスの守りの要だ。
谷に訪れた者がどのような素性であるか、常に気を配っている。
特に、国交のなかった・・・シンダールの使いともあれば、刺客の可能性もありうる。
お前は、自らそのような危険をはらんだ者を調べなければ気がすまない。
レゴラスの容姿がああいったものであるが故、お前は手元に置き、試し、
他の者との接触に気を配った。・・・・・たしかに、ああいう試練は賛成はできない。
それでも、それで王子の意思を確めることができたのなら、許すしかないだろう」

 まったく。閉じた本を、グロールフィンデルはテーブルに置いた。

 彼が読む本は、すべてエルロンドが著作したものだ。

「エルロンド卿、貴方といい、エレストールといい・・・私はそれほどの者ではありません」

「現に、お前はレゴラスがこの谷を訪れてから一睡もしていないのであろう?」

 知られていたのか。さすがに、館主を欺くことはできない。

「ナイフも常に携帯していた。お前は、レゴラスを信用できると判断した。そうだな?」

「信用できるかどうかは、わかりませんよ」

 エルロンドは、グロールフィンデルの部屋を見回す。いつもと変らず、整然としている。

「信用できない者に、エステルの存在を教えたりはしない」

 グロールフィンデルが読んでいた本に手を置く。
たぶん、エルロンドをもっとも理解しているのが彼であろう。
しかし自分は、どれだけ彼を理解しているのか。

「お前が優秀なる戦士で、休養をあまり必要としないことはわかっている。
だが、・・・・今日は休め」

 本に置かれたエルロンドの手を見つめ、グロールフィンデルはエルロンドを見上げる。

「それは、ご命令ですか?」

「そうだ。今すぐ。私の目の前で」

 休む姿を見せるということは、無防備な姿をさらすことになる。

「貴方が出て行ったら、休みましょう」

「いいや、今、身体を横たえるのだ」

 なんて強情な。

「お前が休む場所も与えられない、愚かな主ではいたくない」

 ほくそえんで、グロールフィンデルが立ち上がる。

 エルロンドが眠る姿を、幾度目にしてきたか。
自分がそばにいるから、安心して眠るように、幾度諭したか。
ギル=ガラドが亡くなってから、ケレブリアンが去ってから。

「では、ご命令どおり眠るとしましょう」

 ベッドに身を横たえ、呼吸を静める。眠りさえ、コントロールできる。

 エルロンドはベッド脇に腰を下した。

「・・・思い出した。母が、歌っていたのだ。たぶん、父が母に教えたのであろう」

 

   河のほとりに

   ふたり 坐れば

   さざ波の かすかな歌がきこえる

   黙ってこのまま そばにいてください

   悲しい思い出

   流してしまうまで

   ずっと昔から 知っていたような

   そんな気がする

   あなたが 好きです

 

 エルロンドが口にする、かすかな歌に、
グロールフィンデルの意識が眠りの縁を落ちていく。
美しい金の髪に手を触れ、エルロンドは立ち上がった。

「たとえ一時の慰めであろうと、私はレゴラスが欲しいと思う。私を、愚かだと思うか」

(貴方が欲しいのは、王子の中の優しい記憶だ。
信じる国、愛すべき主、慕ってくる国民・・・。
貴方が持たないものを、レゴラスは持っている)

「その全ては、お前が失ったものだ。そうであろう、グロールフィンデル?」

(私には、貴方がいる。イドリルとトゥオルの子、エアレンディルの息子、エルロンド。
私が守るべき、最後の主)

 エルロンドはそっと後退り、静かに部屋を出て行った。  








(「河のほとり」/谷山浩子)