エルロンドの部屋の前で立ち止まり、大きく深呼吸をする。

 訊ねたいことはたくさんあった。

 あの子供は、いったい何者なのか。エルフとどういう関係なのか。
なぜ館に幽閉され、来客と口をきいてはいけないのか。

 あの子供が、この館の秘密、なのか。

 はたして答えてもらえるだろうか。

 

 助けてください。私を守って。こんな屈辱には耐えられません・・・・。

 

 胸の奥から湧き上がってくる言葉を、唇を結んで飲み込む。

 今、エルロンドと会ったら泣き言を訴えてしまいそうだ。きっとあの方なら・・・・。

 

 だめだ、絶対。

 子供のこと・・・・あのきらきらひかる純粋な瞳だけを思い描くんだ。

 

 軽くノックをして返事を待ち、中に入る。

 緊張しているのか、エルロンドは寝室の窓辺に立ち、こちらをじっと見つめている。

「何故呼んだのか、わかっていると思う」

「子供のこと・・・ですね? しかし、なぜ私室なのでしょうか? 
個人的なことではないように思われますが」

 エルロンドは、ふと気付いたように片眉を上げた。
そうか、まだこの王子には教えていなかったのだ。

 エルロンドはテーブルと椅子を指し示し、座るように促した。
言われるままにレゴラスは対になった椅子の片方に座る。

「確かにこれは私の個人的な話ではない。だが、執務室で密談はできない」

「密談?」

「私を含め、顧問たちの私室はプライバシーを守る為に
内側の音や声が外に漏れないようにしてある。来客用の部屋のいくつかもだ。
そう、レゴラス、君が使っている部屋も。執務室はそうではない。
だから、他者に聞かれたくない話をする時は私室で行うのが慣例になっている」

 レゴラスは、言葉の意味を確めるように眉を寄せた。そして、驚きと怒りの表情になる。

「・・・・・私は・・・騙されていたのですか? 
私の使わせて頂いてる部屋のことは納得できます。
私どもが信用できるまで、密談をさせないために黙っていたのだと。
しかし・・・しかし、それではあの日・・・・私は・・・・・」

 エルロンドは、その怒りはもっともだと肩を落とす。

「グロールフィンデルのために言っておくが、奴が君にそれを言わなかったのは、
たぶん、君のプライドの為だ。もし仮に、あの日君が泣いて許しを請うたとしたら、
きっと奴はそれ以上のことはしなかっただろう。
それに、そのことは・・・・君が許しを請うたことは内密にできる」

 試された! それだけではない。
自分がどれだけの犠牲を払ったのか・・・あんな屈辱を・・・・!

 手のひらを握り締め、怒りに震えるレゴラスに、
エルロンドは視線を外すことしかできなかった。

「あ・・・・貴方は・・・・! ご自分の顧問の愚行を、お許しになるのですか! 
それとも、私など何をされてもかまわないと!?」

「違う!」

 声を荒げ、背を向けたエルロンドは、首を横に振った。

「・・・・・すまない。
グロールフィンデルは、本来私の意に背いて愚行を行うような奴ではない。
・・・今となっては、言い訳に過ぎないが。奴なりの考えがあるのだろうと思う。
私が君を守る手立ては、一つしかない。私の保護を受け入れることだ。
私の保護下に入ると君が誓うなら・・・グロールフィンデルといえど
君に手を出すことはできなくなる」

 エルロンドの保護下に入る。

 守って欲しいと願いいれる? 
そんなこと・・・・自分の身も自分で守れないと公言するのと同じだ。

「けっこうです。自分の身に起きたことくらい、自分で処理します。
こちらの・・・ノルドールのやり方は理解できました。
私たちとは、ずいぶん違うようですが」

 振向いたエルロンドの瞳の色は、悲しげに見えた。

「話を戻しましょう。子供のことです。
公にできないことはわかりましたが、何の説明もしていただけないのでしょうか」

 エルロンドは、小さく溜息をついた。自分は、この王子に何もしてやれない。

「そうだ。何の説明もできなし、子供のことは内密に願いたい。
もちろん、スランドゥイル王にも、君の従者たちにも」

「納得できません。子供は見なかったと、そういうことにしたいのですか」

「そうだ」

 握った手のひらを開き、レゴラスはそれを膝に乗せて大きく息を吐いた。

「私は、見てはならないものを見てしまった。
つまり、彼がこの館の秘密、私たちを追い出したがっていた理由、なのですね?」

「君たちを追い出したがってなどいない。それだけは・・・わかってもらいたい。
私は歓迎している」

「ずいぶん乱暴な歓迎のようですが」

 返す言葉もない。

「レゴラス・・・・」

「わかりました。もう何も話すことはありません」

 のばしかけたエルロンドの手をすり抜けて、レゴラスは立ち上がった。

「失礼します」

「レゴラ・・・・」

 振向いたレゴラスの瞳は、苛立ちと怒りに光る。

「では、グロールフィンデル殿に伺いと立てるとしましょう」

 驚いたのはエルロンドの方だ。無意識に声に力がこもる。

「奴は最高顧問の一人だ。秘密を漏らすわけがない!」

「それはどうでしょう? あの方はずいぶんと私の体が気に入っておいでですから。
言うことをきけば何か教えていただけるかもしれません。今日も・・・
私を陵辱した後、自分の言うことを聞けば欲しいものを与えるとおっしゃっていました」

 今日・・・・今日だと?!

「子供の為に・・・辱めを受けるというのか!」

「今更恐れることはありません!」

 エルロンドはレゴラスの腕を掴み、
乱暴に引きずってベッドに押し倒してその上にのしかかった。

「お前は・・・・! 私がどんな思いでいるかもわからずに! 
奴には平気で身体を開くというのか!」

 胸の留め金を外し、指を滑り込ませると、レゴラスは硬く目を閉じて歯を食いしばった。

 滑らかで白い肌。

 征服欲に駆られる。

「・・・・・・・」

 はだけた胸を目の当たりにして、エルロンドは我に返ってその上から退いた。

 馬鹿な・・・自分は、なんて愚かなことを・・・・! 見てわからないのか? 
こんなにも、怯えているのに!

 結んだ唇が震えている。

 ただ虚勢を張っているだけなのに・・・なぜわかってやらない!

「・・・すまない」

 そっと髪を撫で、乱した服を整えてやる。

 恐る恐る目を開けたレゴラスの瞳は、怯えて潤んでいる。

 優しく手を差し伸べて、胸に抱き寄せる。

 その身体は、まだ震えている。

「すまない。私は・・・お前に何もしてやれない。許してくれ。
・・・・何度か谷を訪れてくれたら、その信用が保障できれば、
子供のことも教えることができよう。だが、今はまだ、だめなのだ」

 抱きしめられ、レゴラスはそのままもたれかかっていたかった。 

 この館主に、甘えていたかった。

「・・・・・父は、兵を揃えています。攻め入られれば、いつでも反撃できるように。
それ以外では・・・強い兵を揃えることは、威嚇になるのだと。
無駄な戦いを避ける為にも、こちらに十分な力があることを示しておくのだと。
私は、対等な立場であらねばありません。何者にも屈しず、服従もしません。
他の誰も頼りません。私のプライドは、父の信念そのものなのです」

 そっと体を離し、レゴラスはベッドから降りた。

「谷を発ちます。明後日の早朝。
エルロンド卿が約束してくださるのなら、また私は谷を訪れます。
信頼を得られるまで、何度でも」

 それが、今できる精一杯なのだから。

「子供のことは・・・・」

「誰にも言いません。私を信頼してくださるまで・・・父にも」

 エルロンドは肩を落とす。

 自分に、できることは、本当にないのか。

「レゴラス、私は君の役に立ちたいと思っている。君を・・・・・」

 好いているのだという言葉を、レゴラスは首を振って制した。

 

 聞いてはいけない言葉なのだ。

 

「失礼します」

 静かに、頭を下げてレゴラスは出て行った。

 

 

 

 執務室で苛立たしげに歩き回るエレストールに、
訪れたグロールフィンデルはおかしそうに唇を吊り上げた。

「ずいぶんと機嫌が悪いようだ」

 指摘され、エレストールは自分の椅子に深々と座る。

「何の用だ?」

「ご機嫌伺いに」

 エレストールはグロールフィンデルを睨み、溜息をついた。

「エステルを、闇の森の王子に見られた。エルロンド卿が王子を呼んで話をしている」

 それはそれは、と大げさに驚いて見せ、
グロールフィンデルは別の椅子を引き寄せて座った。

「グロールフィンデル、君は今日、
いなくなったエステルを探していたのではないのかね?! いったい何をしていた!」

「王子が一人でいたので、少々ちょっかいを出して遊んでいた」

 またか! 叫びたいのを押え、拳を机に押付ける。

「君はエステルを探しに出たのであろう!」

「探したさ。もちろんね。子供の後を追うのなど容易い。
足跡を見つけて、後をつけた。そこで王子に会ったのだ」

「エステルの探索より、己の欲情を優先したというのか!」

 いつになく機嫌の悪いエレストールに、グロールフィンデルはなだめることもせずに笑う。

「王子がエステルを見つけて連れてきたのだぞ!」

「そう、それはよかったではないか。無事に見つかって」

「よかっただと・・・?」

 じっとグロールフィンデルを凝視して、エレストールはハッと気付いて顎を落とした。
そんなエレストールの表情を、グロールフィンデルはおかしそうに見ている。

「・・・・・グロールフィンデル・・・・君は、エステルを探していた。
どこに向っているか、見当をつけていた。川べりで足止めを喰らうことはわかっていた。
わかっていて・・・・王子を襲い、体を洗わせるように仕向けた・・・・・。
そういうことか?」

 そ知らぬふりで、グロールフィンデルは目を細める。

「どういうことだ?! エステルの保護は最高機密なのだぞ! それを・・・・」

「今ごろ、エルロンドが教えているかもしれないぞ? 
エルロンドはレゴラスをかなり気に入っているからな」

 ばん、と机を叩いてエレストールは立ち上がった。

「グロールフィンデル! 私は君の私的な行動に口を出すつもりはない。
だが、イムラドリスの秘密に関わることとなれば別だ。
常軌を逸するような行動を取るなら、私は君に処罰を与える」

 いきり立つエレストールを見上げ、グロールフィンデルは鼻で笑った。

「どうぞ、謹慎でも、追放でも」

 ぎりぎりと歯軋りをして、エレストールがまた腰を落す。

「・・・・・なぜだ、グロールフィンデル? あんな王子のために、我らを裏切るというのか」

 すっと立ち上がったグロールフィンデルは、エレストールの前に立ち、身をかがめる。

「心配のしすぎだ」

「し・・・・・!」

 叫びだそうとする口元を、そっと指でふさぎ、細めた目でエレストールの瞳の奥を覗き込む。

「私はエルロンドを裏切ることは、ない。多分に誤解されることはあっても。
もし王子が腑抜けで、私の予想外の行動を取るのなら、
私が直接闇の森に行って邪魔者を消してこよう。それでいいな?」

 まるで魔法にでもかけられたように、エレストールの力が抜ける。
ぐったりと椅子にもたれかかり、溜息をついて肩を落とす。

「・・・グロールフィンデル・・・・」

「エレストール、私を信用しろ」

「グロールフィンデル、レゴラスの前で、君の方が腑抜けにされるのではないか?」

「そうかもな。彼を犯していると、自分が止められなくなると感じることがある。
その時は、その時考えよう」

 脱力して溜め気をつくエレストールに背を向け、ドアに向う。

「エルロンドは秘密を漏らすまい。王子に手も出せまい。せいぜいフォローしてやれ」

「君は・・・どうするのだ?」

「エルロンドの返答に納得できない王子が私を必要とするかもしれないからね。
部屋で待つとしよう」

 エレストールは、もう一度グロールフィンデルを睨んだ。

「ゴンドリンは、身内の裏切りで滅んだ」

「わかっている」

 痛いほどに、わかっている。
身を裂かれるような記憶を心の奥底にしまい込み、
グロールフィンデルは悲しげな瞳をエレストールに向けた。

「あれ以来、私は満たされたことがない。何をしても」

「レゴラスは、君を満たしてくれるのか?」

 そうかもしれない。

 

 いや、違う。憎いのだ。純粋に信じるものを持ち続ける、あの王子が。
敗北を知らない、あの王子が。
自分が守りたくても守れなかったものを、彷彿させられるあの王子が。

 

 何も答えず、グロールフィンデルは出て行った。