ガンダルフがピピンを連れてゴンドールに向かった。

 生死をかけたひとつの戦いが終わって、すぐのことだ。

 勝利の喜びは、一時の小休止でしかないのか。

 そして今は、ガンダルフからの、何かしらの知らせを待つばかりだ。

 

 

 

 新たなる戦いの予兆。

 それでも、エオメルにとっては貴重な束の間の休息だった。

 戦いの運命に翻弄され続けた連日にあって、
救世主とも呼べるアラゴルンたちの存在は異質なものであった。
食事や睡眠の時間の確保できる今となって、
やっとエオメルはアラゴルンと話を持つ機会ができた。

 アラゴルンの存在以上に異質で興味深かったのは、
馴染み薄い異種族、エルフとドワーフであった。
ドワーフのギムリは、わりと人懐こい方で、好んで話をしてくれたが、
エルフの方は人間たちとの接触を避けているかに見えた。

「エルフは人間が嫌いなのでしょうか」

 エオメルの問いに、アラゴルンは苦笑した。

「そんなことはない。
レゴラスは友好的な方だが・・・・・いや、そうだな、
森のエルフは誤解を受けやすいかもしれない。
むしろ、近付かない方が賢明かもしれないぞ」

 眉間にしわを寄せて首をかしげるエオメルに、
冗談っぽくアラゴルンは微笑して見せた。

「森のエルフは気に入らない人間を・・・気に入った人間もかもな、
魔法で眠らせて森の奥深くに閉じ込めてしまうと言われている。
それゆえ、レゴラスの森の近くにすむ人間は、エルフを恐れてもいる」

「人間だけじゃないぞ!」

 驚くエオメルの背中を、通りすがったギムリが「ばん」と叩いた。

「ドワーフだろうがなんだろうが、気に入らない奴は皆地下牢行きだ! 
好きになれないね! まったくエルフって奴はよ!」

「・・・・ギムリ殿」

 悪態をつきながらも、それが本気ではないというようにギムリは高笑いをする。

「気取っててすかしてて、ホント、ムカつくぜ!」

 アラゴルンは肩をすくめて鼻で笑う。

 ああ、彼らは、本当に仲がよいのだ。エオメルは直感した。
初めて会ったとき、ギムリに槍を向けたローハンの騎士に、
レゴラスは迷う事無く弓を向けた。仲間を愚弄された時の不快な表情で。
ふたりを留めたのは、アラゴルンだ。

「気になるなら、話し掛けてみるといい」

 アラゴルンの言葉に、ギムリが続ける。

「どうせまともな返事は返ってこないだろうがな」

 エオメルは返答につまり、口元を歪ませた。

 

 

 

 その日のうちに、エオメルは一人でいるレゴラスを見つけることができた。
アラゴルンの所在はいつも明らかであったし、
ギムリも探そうと思えば誰かに居場所を聞けばよかった。
ただエルフだけは、神出鬼没で、居場所を知っているのはアラゴルンだけのように思えた。

 高台で地平線を眺めているレゴラスに、背後から近付く。

「あの・・・話をしてもよろしいですか」

 振り向いたレゴラスは、驚いたふうもなく、また、にこりともしない。
人間という存在に、興味がないのか。

 話しかけたはよいが、結局話題に詰る。
エルフは、ただじっとエオメルの言葉を待った。

「・・・・・あなたは・・・・人間が、お嫌いなのですか」

 やっと出た言葉に、レゴラスはふと視線を外した。

「嫌いではありません。ただ・・・・」

「ただ?」

「人間は、すぐに死んでしまうから」

 その瞳は、悲しみを帯びている。

 戦場でのことを言っているのか。エオメルは再び言葉に詰った。

「こんなところにいたのか」

 ちょうどいいタイミングで現れたアラゴルンが、ふたりに笑いかける。
それをきっかけに、レゴラスはその場を去っていった。

「・・・・嫌われてしまったようです」

 苦笑いするエオメルに、アラゴルンは目を細めて首を横に振った。

「レゴラスは・・・恐れているのだ」

「恐れる? 何をです?」

 アラゴルンには、思い当るふしがあった。エオメルの率直さは、誰かを髣髴させる。
それは、旅立ちのとき、仲間であった男だ。

「ここにたどり着く前に、我々は一人の仲間を失った。
人間の男で、まっすぐな戦士だった」

 アラゴルンにとっても、それは苦い記憶だ。

「レゴラスは彼をとても気にかけていてね。
たぶん・・・再び信頼をおく人間の死を、恐れているのだ」

「・・・・・・・」

 エオメルには、何のことかわからない。

「エルフには、死と言う概念がないんだ。
彼らの肉体は滅んでも、魂は約束の地へと運ばれ、やがて再会できる。
だが人間は・・・死んでしまえば、それで終りだ」

 アラゴルンは肩をすくめて見せた。

「・・・・不思議な種族なのですね」

 エオメルの言葉に、アラゴルンはちょっと口をゆがめて見せるしかなかった。

 

 

 

 勝利の歌声は、去っていった。

 勝利の歓喜が過ぎ去ると、失ったものの重みが増してくる。

 エオメルは、その重圧を感じ取っていた。
王も、妹も、決して口には出さなかったが、ローハンの失ったものは大きい。

 夫を、息子を、父を、恋人を、失った女たちの悲しみが、夜の闇に溶けてのしかかる。

 そんな静かな夜の闇の中、エオメルは街に出た。

 自分とて、悲しむ権利くらいはあるはずだ。

 ひとりで悲しみに沈みたかった。

 夜の空気はひんやりとしていて、沈んだ心を冷たく冷す。

 静まり返った悲しみの闇の中、エオメルは風の音に気がついた。

 それは、夜そのものが歌っているようであった。

 ひとつの家の前で足を止める。戸口に、年老いた女が立っていた。
彼女は、夫と息子を角笛城で失っていた。
夜の闇を見つめる女の目に、涙が溢れ、零れ落ちる。
女は、見えない何かを見つめていた。

 慰めの言葉を捜すエオメルに、女は気付いて振り向いた。
悲しみにくれているかと思った女の表情は、薄く笑んでいた。

「男たちは、立派に戦ったのですね。
このローハンを守り、そして、名誉ある死をとげ、胸を張って先祖の元に赴いた。
そうですね?」

 気丈な言葉に、エオメルが頷く。

「ああ、慈悲深き神よ! 私の愛する者たちが、今ここに現れたのです! 
そして、微笑んで、黄金に輝く馬に乗り、東へと去っていったのです! 
私はもう、悲しみません! 
愛する者たちを誇りに思い、この国の再建に力を注ぎます!」

 エオメルに深く頭を下げ、女は家に入っていった。
彼女には、怪我をした嫁と産まれたばかりの孫が残されていた。

 悲しみがあまりに深すぎて、きっと女は幻影を見たのだろう。
エオメルは思った。

 夜の歌声が、家々の明りを眠りに誘っている。

 ふとエオメルは、目の前にぼんやりとした明りを感じた。

「・・・・・セオドレド!」

 胸がつまり、息を吐く。

 輝かしい騎士の衣装に身を包んだ従兄弟は、エオメルに微笑みかけていた。

(エオメル)

 懐かしい声。

 懐かしい笑み。

 生きていたのか!?

 否、そんなはずはない!

(エオメル、この国を・・・・父を、頼む。私は、一足先に、先祖の元に行く)

 輝く馬に乗った従兄弟が、東の彼方に駆けて行く。

 唇を震わせたエオメルは、手のひらを握って周囲を見回した。

 死んだ人間を見るなんて・・・・・!

「どうした?」

 背後からかけられた声に、飛び上る。

「アラゴルン殿!」

 眠りの支度をしていたのだろう、アラゴルンは薄いシャツだけを羽織っていた。

「今・・・・! いえ、お笑いになるだけでしょう」

 頭を大きく振るエオメルに、アラゴルンは肩をすくめた。

「お前が見たのは、幻影だ」

「幻影?」

 小さく頷き、アラゴルンは上方を顎でしゃくる。
女の家の屋根の上、ぽうっと薄明りが灯っている。

「エルフの見せる、幻影だ」

 エオメルは目を凝らして薄明りを凝視した。そこに、ぼんやりと浮ぶ影。

「・・・・・・レゴラス殿?」

「奴の歌が、人間に幻を見せる。
エルフの歌は時として、姿かたちとなって目の前に現れる。エルフの魔法だ」

 驚いたエオメルが、息を飲む。

「レゴラス」

 アラゴルンの呼びかけに、夜の音が止んだ。本当に、彼の歌であったのか。

「一晩中歌っているつもりか」

「おやすみなさい、アラゴルン。よい夢を」

 薄明りから声が響き、また夜露の音色がひろまっていく。

「・・・・レゴラス殿は、何を歌っておられるのですか?」

「戦士を称える歌だ」

 それだけ言って、アラゴルンはくるりと背を向けた。

「エオメル、眠れる時に眠っておいた方がいい。
世界の闇は、まだ完全に去ったわけではないからな」

 去っていくアラゴルンに、エオメルは溜息を吐いた。

 

 彼らは・・・・いったいどれだけの重荷を背負っているというのだろう。

 

 

 

 翌朝、エオウィンの表情に少しだけ笑みが戻ってきた。

「昨夜はゆっくりと眠れたの。不思議ね。疲れていたのかしら」

 男たちの世話をしながらつぶやく妹に、エオメルは何も答えなかった。

 

 

 

 戦況の把握と再建の計画。王族と側近たちに休みはない。

 多忙な一日を過したあと、眠りの時間になって、エオメルはまた黄金館を抜け出した。

 アラゴルンはガンダルフからの便りを待っている。

 多分その知らせは、エオメルの今後にも大きくかかわってくるだろう。
今この休息が、一時のものでしかないことは、わかっていた。

 眠らなければいけないことも。明日も多忙であるだろうことも、わかっていた。

 それでもエオメルは、まるで夢遊病者のようにベッドを抜けだし、街に出た。

 もう一度、

 もしかしたら、あの歌声が聞けるかもしれない。

 そんな予感があったのかもしれない。

 

 自分が何を求めているのかもわからず、エオメルは寝静まった街を彷徨った。

 番兵がエオメルに気付くと、エオメルは散歩をしているだけだと片手を挙げて見せた。

 何も異常はない。

 眠りにつくため、再び館に足を向ける。
と、何かの気配に気付いて、エオメルは館の裏に足を運んだ。

 ちょうど雲を抜けでた月が、明るく照らし出している方向だ。

 そこに、金色に光る影を見た。

「・・・・・」

 エオメルは足を止めた。

 月の光の映し出す幻影・・・・幻のように、ゆらゆらと揺れる光。

 エオメルの足に根が生え、動けなくなる。

 月の投げかける金糸が、夜の闇に舞い、光の粒を軌跡として残す。

 風の声は、心を揺さぶるようにしなやかで、足をそこに残したまま、
エオメルの身体を引きずっていく。

 緩やかに揺れていた光が、ゆっくりと瞼を上げ、エオメルを見た。

「!」

 蒼い瞳が、エオメルを捕える。

 紅く染まった唇は、ただ規則的な息を吐くだけで、エオメルに向って言葉を発しない。
ただ揺さぶられながら、じっとエオメルを見つめている。

(どうした、レゴラス?)

 エルフ語なのだろう。その名前しかエオメルには聞き取れない。
紅色の唇が何かを言い、その金色の光の下から、黒い影が現れた。

 

・・・・・・アラゴルン・・・・・

 

 わかっていた。

 それは、わかっていた気がする。

 エオメルから目を離さないレゴラスが、ゆっくりと立ち上がる。

 その姿が一糸まとわぬものであっても、エオメルは驚かない。
うっすらと光に包まれ、その肌を直視することはできない。

 レゴラスは、歌うように何かつぶやいた。白い指が、エオメルの頬にかかる。

「・・・・・・」

 ひんやりとした指先の感覚に、エオメルは抗いきれない眠気に誘われた。
視界がぼやけ、身体の力が抜ける。
何かが自分を支えてくれるのはわかったが、
それ以上指一本動かすことができなくなっていた。

 冷たい石畳に横たわり、ぼんやりと開いた目で影を追う。

「何をした?」

「眠らせただけだよ」

 それは、はっきりとした共通語だ。

「こんな時にこんな所でするから」

「明日には旅立たねばならぬかもしれないのだ。
それに、月の明りの下の方が、お前が喜ぶ」

 何を言っているのか。

 それとも、これも夢なのか。

(続きをしよう)

 光に影が覆い被さる。

 あとは、かすかな吐息だけがエオメルの耳に届いた。

 

 

 

「おはよう、お兄様」

 明るい朝の光と、明るい妹の声。

 エオメルは目をこすりながら身体を起した。

 そこは、自分の部屋で、自分のベッドの上だ。

 

 すべては、夢か幻。

 

 それでも、エオメルは悟った。

 あのエルフの存在を。

 

 

 

 その日のうちに、アラゴルンはセオデン王のところに駆込んできた。

「狼煙です!」

 

 

 

 忙しく旅立ちの支度をする騎士たち。

 与えられた馬の手綱を引くレゴラスに、エオメルは話しかける機会を求めた。

「あなたは!」

 周囲の騒音の中、ぐいと身体を近づける。
レゴラスの表情は、相変わらず冷静で人間に興味を示さないふりをしていた。

「あなたは、・・・・アラゴルン殿のためだけに戦っておられるのですか」

 エオメルの真剣な眼差しに、レゴラスの瞳がはじめて揺らいだ。

「彼は、人間の王。私は彼と共に、人間のため、エルフのため、
・・・・この世界のために戦っています」

 無意識に、エオメルはレゴラスの肩を掴んでいた。

「望みは?」

「アラゴルンが存在し続ける限り、希望はあります」

 エオメルの口元に、笑みが広がる。

 レゴラスは同じようにエオメルの肩を掴んだ。

「レゴラス! はやくわしを馬に乗せろ!」

 足元からの声に、レゴラスはにっこりと笑うと、ギムリを馬の背に押しあげた。
そしてひらりと自分も馬に乗ると、先頭を行くアラゴルンに駆寄っていった。

 

 常に希望はある。

 

 エオメルも、己の王、セオデンのもとに馬を駆った。