omoi2



 だめだ
 行くな

 その声は、伝わらない

 少女は振り向く
(my lord)
 紅く染まる唇が、そう呼ぶ
(スランドゥイル王)

 行くな

(どうか、民を)

 行くな

(レゴラスを)

 行くな!!

 ひとつだけ、笑みを残し、
 少女は戦士の顔になる

「…………!!!」
 両手を天にいっぱいに伸ばし、彼女の名を叫ぶ。
 スランドゥイルは寝台から飛び起き、胸を掻き毟った。
 また、
 あの夢だ。
 最後まで、彼女は、「夫」と呼んではくれなかった。
 My Lord
 我が王
 竜の炎に焼かれた、
 我が妻
 目を閉じ、気を静める。周囲に人の気配はない。
 いつまでも、彼女の夢を見続ける。これは、己への戒めだ。
 彼女を愛していた。
 だから、
 彼女の愛した森の民を、彼女が残してくれた息子を
 守る。



 王の玉座で、気だるげに頬杖をつく。
「久しいな、ミスランディア」
 灰色の魔法使いは、仰々しく頭を下げた。
「そなたとは、ゆっくりと話がしたい」
「わしも、王に大切な話があります」
 灰色の魔法使い、ミスランディア、別の名をガンダルフ。
老人に見えるその風体で、英知に満ちた若々しい輝きのある瞳で、
ミスランディアはスランドゥイルに意味ありげな笑みを見せた。

「内緒話は王の寝室、ですか」
 ミスランディアが通された部屋は、王の私室。テーブルにはワインの瓶とグラスが設えてある。
「会議室では会話は筒抜けだ」
「ここは?」
 スランドゥイルはふわり、と片手を持ち上げる。やわらかな光が部屋を包む。
「私の力では、この程度が精一杯なのでな」
 エルフの魔法。白い力で空間が閉じられる。
ミスランディアは、これでここでの会話が外には漏れないことを悟る。
たしかにもともとスランドゥイルは力の強いエルフではない。
上のエルフではないし、由緒ある王族の出でもない。
それに、力の指輪も……コホン、とひとつ咳払いをして、
ミスランディアは指輪の考えを頭から取り払った。
ロリアンの奥方のように、あの広いロリアンの森を美しく閉じておく力は、スランドゥイルにはない。
だから、このような宮殿が必要なのだ。力は、宮殿の入口に集中させればいい。
あとは、森の民、シルヴァンたちの不思議な力を守り、助長し、宮殿の周りをかろうじて闇の浸食から防いでいる。
 スランドゥイルは自らワインをグラスに注ぎ、ミスランディアに手渡す。
グラスを受け取ったミスランディアは、美味しそうに喉を潤した。
 ミスランディアの持ってくる情報は貴重だ。
方々に斥候を出しているとはいえ、情報収集には限りがある。霧降山脈を越えることも難しい。
 事実上、裂け谷のエルロンドやロリアンのガラドリエルとの国交はない。
 であるから、ミスランディアの情報は非常に重要なのだ。
 ミスランディアは、ワインを楽しみながら一通りの近況を話した。
「そちらは変わりないかね?」
「相変わらずだ。竜は眠ったままだし、エスガロスは貧しい」
「交易を行っているのだろう?」
「確かに、我が民に必要なものはエスガロスから買い求めているが」
 スランドゥイルはニヤリと笑う。
「私とて余るほどの財宝を有しているわけではない。国民を養うので精一杯だ。人間までは助けられぬ」
「じゃが、エスガロスからものを買い、交易と称して技術を教え、交易に使う道を守っておる」
「通行料は取るがな」
「それでも道がなければ彼らは生きられん」
「私は偽善者ではない」
 スランドゥイルの言葉に、ミスランディアは苦笑する。
「エスガロスの頭領は、がめついと聞いたが」
「ああ、だが、奴らが決めた頭領だ。私が口を出す事はない。
それに、確かに金にがめついが、それくらいでないと街は守れぬ。私にも堂々と金銭要求してくる」
 楽しそうに言い、グラスを傾け、一口飲む。それから笑みを消し、声のトーンを落す。
「街には、ギリオンの子孫が残っている」
 ほう、と、ミスランディアが眉を上げる。
「我らエルフとの交渉には、必ずその男をよこす様に言ってある」
「何故?」
「あれには、ギリオンの血を強く感じる。人の、王としての素質だ」
「人の、王、ですかな」
「まだ若い、幼い、と言っていいが」
「スランドゥイル王が育てるに値する、と」
「そこまで自惚れてはおらん。見守っているだけだ」
 ふふん、と鼻で笑い、ミスランディアはワインのグラスを空けた。
「私は世界の監視者ではない。森の外がどうなろうがかまわん。
私の森の民が守れれば、それでよい」
「そうでしょうとも。スランドゥイル王、あなたは、あなたの手の届く範囲を守っていらっしゃる」
 森のエルフだけでなく、昔交友のあったデイルの子孫、
人間たちも、エレボールのドワーフでさえ、気にかけている。
「ところで、スランドゥイル王」
 飲み干したグラスを、ミスランディアはテーブルに置いた。
「お会いして欲しい人間がいるのですか」
 眉を寄せ、スランドゥイルがミスランディアを見る。
「ドゥネダイン」
 スランドゥイルの眉間のしわが深まる。
「ほう? ドゥネダインとは」
「そう、ドゥネダインの現在の族長が、闇の森のエルフ王にお目通りしたいと」
 スランドゥイルは一度目を閉じ、過去に思いを馳せた。記憶を遡る。
「………エルロスの、系譜か。名は?」
「名前は、アラソルン」 
 


*



「申し訳ありません………私が…北の討伐などと言い出したから…」
 光溢れる緑森が闇に犯され始め、その原因を探ろうと必死になっていたときだ。
 シルヴァンは、愚かで短絡的なところがある。
それだけ純朴で、汚れなく、たかがひとつの宝石を巡って国を滅ぼした、
シンダールの気質に疲れ果てたオロフェアは、
彼らシルヴァンのその愚かさと純朴さに心惹かれ、彼らの国の王となった。
 最後の連合の戦いで、シンダールの兵のほとんどを失った。
今、森の王国の兵のほとんどは、シルヴァンだ。
 中でも最も美しく、気性が激しく、もっとも森を愛し、王を愛していたシルヴァンの少女がいた。
「私のようなものが、王の妃になどなれるはずがありません」
 何度求婚しても、彼女は断った。
「ならなぜ、愛の繋がりを許したのだ」
 寝台の上で、少女は困惑して目を伏せる。
「………私は……王を愛しております。
王が戯れで、ほんの一時の慰めで、私に触れてくださるのなら、私はこれ以上の幸せはありません」
「なぜ、私の愛を信じてくれぬ?」
「だって………わたしは…卑しいシルヴァンだもの」
 やがて彼女は王の子を宿し、産んだあと、その運命を決心した。
 北のグンダバドという地域に、悪しきオークどもが集結している。
それが、森を侵す闇の原因ではないかと、彼女は判断したのだ。
愛する森と、愛する王と、愛する子のために、森の闇を払いたい。
 わずかなシルヴァンの兵と共に、彼女は出陣し、
それを知った王は残った兵を集め、彼女を追った。
 スランドゥイルは、彼女らシルヴァンのように短絡的ではない。
もっとよく考察し、準備をしなければならないと考えていた。
たとえ準備を万端に整えたとしても、あの最後の連合の戦いのように、
敗北する事はあるのだ。そして敗北は、愛する者を永遠に失うという事。
 しかし、グンダバドがオークの巣であっただけなら、彼女を連れ帰ることもできただろう。
 そこに、竜がいなければ。
 彼女は、その恐怖の塊を目にしたとき、はじめて自分の愚かさを知った。
 同時に、
 王の愛を、
 信じる事ができた。
 こんなにも私は、
 あの方に愛されている。
「どうか………私が囮になります。王は、兵を率いて撤退を…」
「馬鹿を言うな! 一緒に、帰るのだ!」
「私は帰れません。私は、自分の過ちを償わねば…。それでも、まだ、王は、私を、愛してくださいますか」
「当たり前だ! 愛している! だから…共に帰ろう」
 彼女が、哀しく微笑む。
「行くな」
 唇を結んだ少女が、戦士の顔になる。
「行くな!!」



「父上」
 振り向いたレゴラスは、小首を傾げた。
「どうかされたのですか?」
 手にした弓を下ろす。
 弓を誰より上手に扱うレゴラスは、彼女の血を強く引いているからだろう。
自分は、弓より長剣の方が扱いやすい。シルヴァンたちは、長剣より弓とナイフの方が得意なようだ。
「レゴラス」
「はい?」
 王宮の外、まだ闇に染まっていないスランドゥイルの加護の魔法の中、レゴラスは父に武術を教わっていた。
 息子を、愛しいと思う。
 気の強い彼女によく似た目をしている。
 シルヴァンの中で育つレゴラスは、シルヴァンの気質を強く備えている。が、しかし。
 シルヴァンたちに、レゴラスに母の話は一切するなと口止めした。
 それは、哀しすぎるからだ。
 竜の炎に焼かれた彼女には、墓もない。
 あのグンダバドの戦いは、シルヴァンたちにとって、重く哀しい闇なのだ。
 だから、王に堅く口止めをされずとも、彼らは皆、あの戦いのこと、
竜のこと、王の愛した少女、レゴラスの母の事を口に出さなかった。
 シルヴァンたちの思考は単純で、己らの住まう森を守りたいと強く思っているが故に、
外の敵に対してなりふりかまわないところがある。それではだめなのだ。
情報を集め、作戦を練り、己が戦力を増強し、時には他の国、他の種族とも連携を取らなければ。
 しかしスランドゥイルは、国民にそうしたことを、そうした知識を強要する事はなかった。
常に、自分ひとりで抱え込んだ。
 彼らは、シルヴァンで、己は、シンダールなのだ。
 妻が、レゴラスの母が生きていた頃は、全く純粋にシルヴァンとしての育て方しかしなかった。
が、彼女が死んでから、スランドゥイルは息子を手元に置き、文字を教え、歴史を歌って聞かせた。
森を駆け回り弓とナイフを自在に操る術は、シルヴァンたちがレゴラスに教え、
知恵と知識と長剣の技はスランドゥイルが教えた。
「…父上?」
「弓の腕は上がったな」
 父の言葉に、レゴラスは微笑む。
 まだ若いレゴラスは、常に、父に認められたい、褒められたい、役に立ちたいと願っている。
若さゆえの愚直。否、それはシルヴァンの気質。
 それだけでは、ためなのだ。
(今はまだ、それだけでいいではないか)
 真に恐ろしいものを知らない。
(知らなくていい)
 勝てない相手と対峙する恐怖。
(そんなものに、立ち向かわなくていい)
 愛する者を失う恐怖。
(ここにいればいい。わたしがずっと守り続ける)
「これを」
 スランドゥイルは、腰の長剣を抜くと、レゴラスに差し出した。
「?」
 父がいつも大切にし、肌身離さない剣を、訝しみながら受け取る。
 思わず感嘆のため息が出るほど、美しい剣だ。ふわりと軽く、滑らかな肌触り、
冷たい金属は、触れたところからじわりと熱を持つ。不思議な感触。
普段使い慣れた弓やナイフはシルヴァンたちの作ったもので、それはそれで美しいし、
木の感触は心地よく手になじむし、とても使いやすい。
 だがこれは…。
「ドリアスで鍛えられた剣だ」
 うっとりと父の剣を撫でる。ドリアスの栄華を、レゴラスは知らない。
シンダールの知識と技も。そこに刻まれた文字を指でなぞりながら、レゴラスは小首をかしげた。
「なんて、書いてあるのですか」
 スランドゥイルは苦笑する。まだ、文字を完璧に覚えてはいないのだな。
「勉強不足だ。難しい事は書いておらぬ。あとで自分で調べなさい」
 レゴラスは眉を寄せ、唇を歪める。
「今は、長剣を扱えるようになることだ」
「私は、弓とナイフが…好きです」
「武器は一通り扱えた方がよい。その剣の扱いに慣れよ」
 レゴラスは片手で長剣をまわす。いつも父がしているように。
が、父のように器用には扱えず、指先から剣が零れる。
「あ」
 慌てて剣を掴み直そうとし、刃を手のひらに当ててしまう。
「!」
 自分でも驚いて、手を離してしまう。
素早く手を出したのはスランドゥイルで、剣が地に落ちる前に受け止めた。
「レゴラス、己の手をよく見なさい」
 刃の当たった手のひらを、恐る恐る見下ろす。そこには、傷一つない。
 スランドゥイルは、ひゅん、と、剣を一振りする。近くにあった木の葉が、きれいに二つに分かれる。
「この剣は、エルフを傷つけない」
 驚いた顔で、レゴラスは父を見つめた。
「本当、に?」
 スランドゥイルは、己で刃を握って、開いてみせる。
レゴラスは不思議そうに父に近寄り、その手を見つめ、父の剣に触れる。
「どうして…どうやって?」
「シンダールの…メリアン様の魔法がかけられている。これは、王族の剣だ」
 王族…レゴラスが、きらきらとした賞賛の眼差しでスランドゥイルを見上げる。
それは、本当に、彼女に似ている。
「では、私には扱えません」
 スランドゥイルは、もう一度、己の剣をレゴラスに握らせた。
「練習しなさい」
 レゴラスが戸惑っていると、斥候がやってきて、スランドゥイルに耳打ちをした。
どんなに小声で話しても、レゴラスには聞こえる。
『王に謁見したいと申す者が』
『何者だ?』
『ミスランディアの紹介だと。人間です』
 一瞬の間を置き、スランドゥイルは「わかった、すぐ行く」と応える。
「レゴラス、練習しておきなさい」
 父の剣を大切に抱え、レゴラスは「はい」と短く答えた。



 王族の剣。
 王族とは、いったい何を意味するのであろうか。
 レゴラスは、父の剣をじっと見つめる。
 強い力を感じる。
 シルヴァンたちからは感じることのない、強い力。
 気配を感じ、ハッと顔をあげる。
 その剣に似た、美しいエルフが立っている。
 銀色の髪、銀色の衣。
 あなたは、だれ
 …どなたですか…シンダールの、王族の方なのですか
 心の中で問う。
(スランドゥイル)
 その銀色のエルフは、水の流れのように滑らかな動きで片手を持ち上げると、そっとレゴラスの頬に触れる。
 これは、
 この幻影は…記憶?
(そなたに、恩寵を。そなたに、加護を)
 ふわりと近付き、唇が触れる。
 いや、あくまでも幻影。その感覚はない。
(メリアン様の恩寵を)
(わたしの加護を)
 その手が血に汚れようと。心に闇が迫ろうと。
「…………」
 レゴラスは、その名を口にして、ハッとして唇に手を当てた。
 幻影は消え、森の風だけが残った。
 


*


『私はこの先、たくさんの血を流すだろう』
『ならばこの剣で、その血を拭いなさい』
 その手を血に濡らす事はあっても、
 そなたの魂を汚す事はない。
 そなたはこれで、守るのだ。
 そなたの愛する者を。
 そして
 そなた自身を。

 愛する者を、守れなかった。
 あなたの、加護を持ってしても。

 違う。
 そなたを愛するものが、
 そなたを守ったのだよ。

 そうして、
 愛は繋がって行く。



 玉座に腰を下ろし、足を組む。側近に目配せをすると、側近は外套を目深に被ったその男を連れて来た。
 男はフードを後ろに払いのけると、膝をついて頭を垂れた。
「ドゥネダインのアラソルンと申します」
 アラソルン、ドゥネダインの族長か。
「何用か」
 冷たい問いに、その人間は上目遣いにスランドゥイルを見上げる。灰色の瞳は、曇りがない。
 ほう、いい目をしている。スランドゥイルは唇を吊り上げると、「顔をあげなさい」と言い放つ。
アラソルンは顔を上げ、森のエルフ王を見据えた。
「北方の野伏が何用か」
「闇の………緑森大森林に君臨するスランドゥイル王と和平を結びたく参りました」
 闇の森。以前は緑森大森林と呼ばれたこの豊かで恵まれた森は、今は闇に侵され、闇の森と呼ばれている。
「闇の森でよい。事実だ。が、北方のドゥネダインと和平など、わざわざ結ぶ必要もあるまい。
我らとそなたらには、接点はないのだからな」
「ええ、今まではそうでした」
 スランドゥイルはわずかに眉を寄せる。
「私は予言を携えております」
「予言、とは?」
「死、の予言です」

 スランドゥイルは、己の私室にドゥナダンを呼ぶと、いつものように封印を施した。
「封印?」
 男は不思議そうにその見えない結界を見る。
「ここで私が殺されても、わからないというわけですね」
「我が王宮のどこでそなたを殺しても、誰にもわからぬだろう」
「ではなぜ結界を」
「エルロンドは結界を張らぬか」
 よく聞き知った名前に、アラソルンは驚きの表情をする。
「なんだ?」
「いえ、王からエルロンド卿の名を聞くとは思いませんでしたので。
ええ、エルロンド卿も結界を張っております。ただもっと…」
 大規模な結界だ。
「秘密の話にはこの程度の結界で充分だ」
「秘密の話、ですか」
「違うのか」
「いいえ…ええ、秘密の話です。私も、部下には話しておりません」
 スランドゥイルは、ワインの注がれたグラスを人間の男に手渡す。
 若い、な。
 ドゥネダインの族長にしては、若すぎるくらいだ。
「では、アラドールは死んだのだな?」
 父の名に、アラソルンは再び驚く。
「王は、何でもご存知なのですね」
「いいや、そんなことはない。そなたがここに来た理由はわからぬ。
そなたの父、アラドールは、名前こそ知ってはいるが、会ったことはない」
 でしょうね、と、アラソルンは口元をゆがめる。
「飲め。毒は入っていない」
 自分のグラスにもワインを注ぎ、スランドゥイルはアラソルンが手にしたグラスを指し示す。
王自ら注いでくださるなんて、噂どおり変ったお方だ。
アラソルンは、グラスをかかげ、かるく会釈をしてワインを口に運んだ。
「これは、上物ですね」
 スランドゥイルは唇を吊り上げて笑うと、アラソルンの話を促した。

「まずは何から話しましょう。事の始まりは、私が年端も行かぬ少女に恋をしたことでしょうか」
 強い酒で唇を湿らせながら、アラソルンは恋した少女を思い出すように頬を緩める。
「とても美しく気丈な娘で…ただ、まだとても幼くて、族長の息子である私でも、
結婚を迫る事はできぬほど幼くて」
 一呼吸置き、続ける。
「しかし、私は彼女に心を囚われて、熱心に頼んだのです。そして、予言を受けました」
 瞳を上げて、スランドゥイルを見る。その口元は微笑んでいるものの、眼光は少しも笑っていない。
「私の命は、長くはない、と」
 ひとつ、ため息をつく。
「故に、彼女の父は短命な男と添い遂げさせるわけには行かないと猛反対をしましたが、
彼女の母が、それならば一層急がねばなるまい、我が娘の下に希望は生まれる、と」
 それからふと気付いたように、アラソルンは周囲を見回した。
「この話、」
「外には漏れない。安心せよ」
 結界を張ってあることをすぐに思い出す。
王は、アラソルンが秘密の話を持ってくることを予測していたのか。
 ほっと一息ついてから、また口を開く。
「先日、子供が生まれました。予言どおり、息子です。
ですが、私は息子の成長を目にすることはないでしょう。私の死は予言されています」
「予言は確定ではない」
「いいえ、私は死ぬんです」
 はっきり言い放ち、アラソルンはワインを一口、ごくりと飲む。
とたんに、強いアルコールに目が回る。
「死ぬんです。私は、こんなにも、妻と子を愛しているのに、死ななければならない。
守ってやれないんです」
 目眩に、こめかみに手を当てる。
ふと冷たいものを感じ、振り向くと、スランドゥイルが隣りに座り、アラソルンの額に指を当てている。
 冷たくて、気持ちいい。
「族長ともあろうものが、己の死を恐れるなど、言語道断。お笑いになるでしょう」
 スランドゥイルはにこりともせず、アラソルンの瞳を見つめる。
「ドゥナダン」
「…アラソルン、と、お呼びください。もっとも、我が一族に対する呼びかけなら別ですが」
 己を嘲笑うかのような口調。スランドゥイルは眉を寄せる。
「アラソルン、それほどまでに妻子を守りたいのなら、
ドゥネダインの族長の地位を捨て、妻子を連れて逃げればよい」
 森の王の青い瞳に、アラソルンは顔をゆがめる。
「私はドゥネダインの族長です。亡国の民、エダインの末裔。
北方を彷徨う野伏。誇りを捨てたら、何も残りません。
我らはヴァラールの恩寵も薄れ、やがて滅ぶ民かもしれません。
しかし、息子は希望です。この緑森が闇に飲まれる、
そんな暗黒の時代がやってくるかもしれない、その今の時代において、息子は希望なのです。
私は逃げません。今、私が息子にしてやれることをするのです」
「そなたが息子にしてやれることとは?」
「息子の敵を、一人でも減らす事です。できるなら、息子の味方を、少しでも増やしておきたい」
「私には関係ない。イムラドリスのエルロンドにでも頼め」
「もちろん、頼んでおります。私が死んだら、妻と子はイムラドリスで保護してくれる事になっています」
「なら、問題ない」
「たとえエルロンド卿でも、手の届かないところがあります」
「………」
「ここです。このロヴァニオンの森のエルフの王国。
ミドルアースで最大のエルフの王国と聞き及んでおります。
しかし森のエルフ王は偏屈で、イムラドリスともロリアンとも国交を持たない。
ですので、ガンダルフ、ミスランディアに頼んで王に会いに来たのです」
「偏屈か」
「気分を害したのなら謝ります」
「いいや、かまわぬ。その通りだ」
 そう言って唇を歪ませるスランドゥイルを、アラソルンは見つめる。
「不思議です。私も、たくさんのエルフに会いましたが、王は、その誰とも違う。なんていうか…」
「偏屈な王だ」
 真面目なスランドゥイルの口調に、アラソルンは失笑した。
「スランドゥイル王が偏屈な王ならば、私も是非偏屈な族長と呼ばれたいものです」
 顔を見合わせ、お互いにニヤリと笑う。
「アラソルン、そなたの願いを聞き入れよう。そなたの息子、名をなんと言う?」
「アラゴルンです」
「アラゴルンだな。私はアラゴルンの敵にはならぬ。
必要なら、助力もしよう。そなたが、安心して死ねるようにな」
 アラソルンは苦笑する。
「これは、王としての約束だ」
「ありがとうございます」
 スランドゥイルは、極々近い位置で、アラソルンの瞳の奥を覗き込む。
息がかかるほどの距離に、わずかに戸惑い、眉を寄せる。
「………王?」
 顔を背けようとすると、顎を掴まれ、また視線の先に引き戻される。
 諦めて、スランドゥイルの青い瞳を見つめ返す。
「……私の瞳に、死の影が見えましたか?」
 冗談口調で言ってみる。
「人は皆、死する運命にある。アラソルン、そなたは己の死に怯えているかも知れぬが、
そなたの妻は、それ以上にそなたの死を恐れているだろう。死は、残される者の方が辛いのだ」
 どくん、と心臓が鳴る。
 アラソルンは顔を伏せ、目を閉じた。



 ハッと目を開け、アラソルンは身体を起こした。
 眠っていた?
 強いワインのせいか?
 周囲を見回す。ここは、
 スランドゥイル王の寝室。サイドテーブルには、ワイングラスがふたつ。
「王………」
 裾の長いローヴを羽織ったスランドゥイルは、肘掛け椅子に深く腰掛け、
指を目髪に当てて、物思いに耽っていた。
「私は…眠って…?」
 ふとスランドゥイルは視線を上げてアラソルンを見た。
「しばしそなたを眠らせた。気分はどうだ?」
 アラソルンは、胸に手を当て、深呼吸をする。
「とても…体が軽い…胸も…」
 両手のひらを広げて、見下ろす。
「どんな魔法を使ったのですか? 心が軽い」
 つと立ち上がり、スランドゥイルはアラソルンの傍らに来ると、その唇にそっと口づけた。
「思い出したか?」
 その言葉と同時に、アラソルンは先ほどまでのことを思い出し、カッと顔が熱くなる。
 自分は、身体を重ねた、のだ。こともあろうに、この、森のエルフ王、と。
 ただ、快楽だけの情交に耽った。
「…も…申し訳ありません…私は…」
 あんな事を…してしまった…? 熱くなった顔から血の気が引いていく。
「楽になったろう?」
 スランドゥイルの言葉に、詰めていた息が吐き出される。
「………死ぬ事は怖くない。ヴァラールの恩寵だ。残された妻子の心配もない。
エルロンドが大切にしてくれる」
 もう一度、唇に触れる。
(そなたの魂と肉体に、一時の休息と安らぎと、快楽を)
「そなたのために、祈ろう。そなたの魂が、最後まで汚れぬよう。
そなたの勇気が、恐怖に怯えぬよう」
 スランドゥイルの青い瞳を見つめ、アラソルンは微笑んだ。
「私の魂が恐怖に負けそうになったときは、あなたの、王の、瞳の色を思い出しましょう」
 
私は誓う。
 私は死ぬまで、誇りあるドゥネダインの族長でいることを。
 死ぬまで、生きる事を諦めないことを。
 私は願う。
 その誇りを、息子が受け継いでくれることを。 



 結界を解き、ドゥナダンはまた目深にフードを被って森を出て行った。
(王、密談はいつも王の寝室でなされるのですか?)
(うむ、民は来客を好まないのでな)
(ガンダルフとも?)
(そうだ)
(では、ガンダルフとも、あのようなことを…)
(たわけもの)
(………冗談です。しかし、王にお会いできてよかった。本当に気持ちよくて、帰りたくなくなります)
(また来ればよい)
(ええ、次は)
「次は、もうないでしょう」
 アラソルンは森を振り返り、ひとりごちた。



 その翌年。
 ガンダルフがスランドゥイル王を訪ねて来た。
 ドゥネダインの族長、アラソルンの死の知らせを持って。