*1* 「レゴラスを呼び戻せ」 王宮の一番高いところでその光景を眺めていたスランドゥイルは、 夜の闇に紅く光るその点から目を離さぬまま、呟いた。 「はっ」 同じところを、呆然と、愕然と眺めていた側近は、間の抜けた上ずった声を出す。 「王子は…」 「ドワーフどもを追ったタウリエルとエスガロスに向かったはずだ」 「あ、はい…きっとご無事で…」 「当たり前だ! そんなことを心配しているのではない! 今すぐレゴラスを呼び戻せ! 戦になるぞ!」 にわかに、王宮の中が騒がしくなる。 愚かなドワーフどもめ。 歯軋りをしながら忌々しげに呟く。 「はい、すぐに伝令を出します。王子と、タウリエルに…」 「タウリエルはよい。奴は追放だ」 「は?」 シルヴァンの側近は、眉を寄せる。 「何故ですか? ドワーフに同情したからですか? 王の命令に背いたからですか」 数瞬、スランドゥイルは唇を閉じ、目を細めて星を見上げた。 「…追放などと…どうかタウリエルに御慈悲を。彼女はまだ若く、何もわかっていないのです。 王が何故王国の守りに徹しているのか」 「だからだ」 かすかに漂う、炎と死の空気を吸い込む。胸が苦しい。 「どんなに言葉を尽したところで、真に理解はできぬだろう。 タウリエルも、レゴラスも、まだ本当に大切なものを失った事がない。 籠に閉じ込めようとしても、無駄に暴れるだけだ。外の世界を見てくるがよい。 たとえ傷つく事になろうとも。本当の愛情も、友情も、忠誠心も、傷つかずに得ることはできぬのだ」 側近は一度目を伏せるも、瞼の裏に浮かんだ光景に、ぞっとして目を見開く。 ドラゴンの炎と、炎に焼かれた娘。 この王国の、ほとんどの者は知っている。 王を、王子を、守ろうとして出陣し、ドラゴンの炎に焼かれた美しいシルヴァンの娘を。 王がただ1人愛した、娘を。 瞼に触れる手のひらに、側近は身体を硬直させるほどの恐怖心から開放される。 側近が浅くため息をついたのを見て、スランドゥイルは手を引いた。 「申し訳ありません…」 「お前達は、私が守る」 王の言葉に、側近は胸に手を当てた。 「王子を、呼び戻しに行きます」 「もしレゴラスが拒否するようなら」 一息ついて、スランドゥイルは続けた。 「好きにさせろ」 「よいのですか」 「レゴラスを繋いでおく鎖はない。エスガロスの現状を調べて報告しろ。必要なら、支援する」 「はい」 一度口を閉じてから、側近は思い切ってその事を口にした。 「あの…首飾りは…まだ山に?」 スランドゥイルは冷たい瞳で側近を見つめ、唇を吊り上げた。 「首飾りを、返してもらおう」 今は亡き、ドラゴンに焼かれたシルヴァンの娘。 亡骸も墓標もなく、王の胸の中だけに刻み込まれた、王国の妃。 自分は卑しいシルヴァンだと、王の寵愛を拒絶し続けた彼女に、 スランドゥイルは持っていたシンダールの至高の宝石を、彼女に送った。 送ろうとした。ドワーフに協力を頼んでまで。全てを彼女に送り、共にこの地で生きようと。 王国の誰もがそれを望み、シンダールの至玉をシルヴァンの娘が身につけることを、喜びとして待ち続けた。 高貴なシンダールの王が、粗野なシルヴァンの娘と、結ばれる事を。 彼女が失われても尚、 王が彼女を愛した証。 側近が去った後、スランドゥイルは夜の闇を凝視しながら、そっとため息をつく。 できれば、傷つけずに、大切に、育て、手元に置いておきたかった。 「死ぬなよ、レゴラス、タウリエル」 生きていれば 生きていれば、それでいい。 「戦の仕度だ!」 今一度、戦いの場に赴こう。 我が大切な息子と、大切な義理の娘を追って。 そして、 あの首飾りを取り戻す。 *2* 泣きじゃくる娘を、静かに見下ろす。 王の感受性は、彼女の心の痛みを、己が痛みのように感じていた。 こうなる事は、わかっていた気がする。 死別ほど、苦しいものはないのだ。 目の前で魂を持っていかれる苦しみは、 経験しないとわからないだろう。 そこには、理想も、理性も、常識も、良心も、悪意も、 何もない。 何もないのだ。 天寿を全うする者を見送る事さえ苦しいのに、 愛しい魂をこの手の中からもぎ取られてしまうなんて。 「キーリ…キーリ…」 彼女は、ただ繰り返す。何百回呼んでも、魂は戻ってこないのに。たとえ百年腕の中に抱いて暖め続けても、 もう、 その瞳を開くことはないのに。 「タウリエル」 泣き疲れて憔悴した娘が、青ざめた顔を上げる。 「マイロード」 震える唇が、そう呼ぶ。 王は、そのドワーフの傍らに跪いた。 「このドワーフを、皆のところに、返してやろう」 すがりつくタウリエルの手を、そっと退け、スランドゥイルはキーリの亡骸を抱き上げた。 トーリンの亡骸の前に集まっていたドワーフの仲間は、エルフ王に抱えられたキーリの姿に悲鳴を上げた。 それは、まだ若すぎる彼の死に対してであり、エルフ王ともあろう方が、 一介のドワーフを、衣の汚れも気にせず、抱えている事に対してでもある。 よろけるように走り寄ったバーリンが、両手を差し出す。思いつく限りの礼の言葉を呟きながら。 「かまわぬ」 エルフ王は、今まで誰も聞いたことがないほど静かに憂いだ声で言った。 「我が娘の想い人だ」 隣を歩いていたタウリエルが、一瞬目を見開いた後、悲痛な声を上げて泣き崩れた。 「これを」 バーリンが差し出したのは、あの、石、だった。 「これを、どうか、持っていてもらいたい」 石を見下ろしたタウリエルは、静かに首を横に振る。 「どうか………それは、キーリと一緒に。キーリのお母さまの想いですから」 そうですか、とバーリンは石を握り締める。 「お嬢さん…」 「タウリエル、です」 呼び辛そうに、バーリンはその名前を口にする。 「私は、森に帰ります。王が、そうすることを許してくださったので。 私は、王と、民と、森を守ります。人間の国と、ドワーフの国を、守ります。私は、ずっとキーリのそばにいます」 少しだけ微笑んだ彼女の瞳は、まだ涙で濡れていた。 バーリンも、悲しい笑みを返す。 「ドワーフと、エルフは、また、仲良くできますよね?」 タウリエルは、瞳を伏せるように頷いた