「イシルドゥア、指輪を」 火口に投げ入れるのだ、と。 それは、願い、だった。 ああ、頼む、 指輪を 手放してくれ 人間とは、心弱き存在。 あの、没落した9人の王のように。 どうか、 お前を信じさせてくれ・・・・ エルロンドの祈りは、ついぞその人間に届くことはなかった。 指輪を握り締めたイシルドゥアは、歪んだ笑みを見せた。 「これは、私のものだ」 と。 エルロンドの胸に、すでに勝利の喜びの光はなかった。 我らは、敗北したのだ。指輪の魔力の前に。 戦陣に戻ったエルロンドは、更なる衝撃を目の当りにした。 最後のエルフ王 ギル=ガラドは死の淵にあった。 傍らに跪き、手当を試みようとするエルロンドの指を、王は力なく握った。 そして、ゆっくりと首を横に振った。 エルロンドは師の頭を己の膝に乗せ、せめてもの慰めに乱れた髪を手櫛で整える。 そうしながら、指輪のこと、イシルドゥアのこと、どう伝えようかと思い悩む。 残ったわずかな気力で、なんとか口を開こうとすると、ギル=ガラドは黙るように指を立てた。 「・・・・・私の時代は、終った。次は・・・・」 お前の時代だ、と。 乾いた唇が、そう告げた。 やるべきことはやったのだ。なせるべき、精一杯を。そして、サウロンを打砕いた。 あとのことは イシルドゥアが持去った指輪と共に、エルロンドの手に委ねる。 空を滑り落ちるやつれた指先を、エルロンドはそっと握った。 再びその手を開いた時、そこにひとつの指輪が残されていた。 エルフに贈られた、3つの指輪のうちのひとつ。 最上の敬意を払い、師の魂が肉体から離れていくのを見守る。 重い ギル=ガラドの、残された傷ついた肉体。 エルロンドは、その指輪と共に、彼の背負っていた全てを受け継いだ。その瞬間に。 師の頭を彼の絹のマントの上に乗せ、エルロンドは立ち上がった。 エルロンドのすぐ後に、ひとりの男が控える。 「指輪は?」 エルロンドにだけ聴こえる微かな声で尋ねられ、 エルロンドは目だけを動かして、その男、グロールフィンデルを見た。 「ゴンドールに持去られた」 グロールフィンデルは片眉を上げて驚きを示す。 それから、ちらりとギル=ガラドの亡骸を見下ろした。 「全ては、貴方に委ねられたのですね」 そうだ。グロールフィンデルの言うとおり。ギル=ガラドは悟っていた。 指輪を葬れなかったこと。その上で、エルロンドに全てを委ねたのだ。 唇を閉じたグロールフィンデルが、 姑息な そう呟いたのを、エルロンドは聴いた。 グロールフィンデルにとって、ギル=ガラドは、ノルドの王は彼の主ではなかったのだ。 グロールフィンデルの主は、あくまでもトゥアゴンとその血を受継ぐ者のみなのだ。 そして、それがエルロンドなのである。 エルロンドを守るため・・・・彼の魂は海を渡ることを許されなかった。 「以後私はイムラドリスで指揮をとる。撤退の準備を」 あえてグロールフィンデルを無視するように、エルロンドは指示を出した。 伝令が四方に走ってゆく。その中で、ひとりの斥候がエルロンドに耳打をした。 沼地に追いやられたシルヴァンたちが、撤退している、と。 瞬間、エルロンドの脳裏に何かが輝いた。 すべきことが見えたのだ。 「北の退路に駐屯するオークを殲滅せよ」 ギル=ガラド直属の指揮官たちは(後にイムラドリスの顧問となる者達だ) 不満と疑問を口にした。 己らとて十分な兵力が残っているわけでもない。 それなのになぜ、同盟を拒否した田舎者たちの退路を確保してやらねばならぬのか。 「命令だ」 命令、という言葉を、エルロンドははじめて自らの意思で口にした。 「エルロンド卿は私がお守りする。そちらに兵を裂いてよい」 グロールフィンデルはそう言い、反論する者達を一喝して師団を組ませた。 兵を送りだした後、エルロンドの元に戻り、またその耳元で囁く。 ロスロリアンは、この悪しきモルドールを監視するには、 ちょうどよい位置にありますからね 歯に衣を着せぬグロールフィンデルの言葉に、唇を結ぶ。 「お前に、情 という感情はないのだな」 ふ、とグロールフィンデルはほくそえんだ。 「・・・・これは、予見だ。生き残ったシルヴァンの中に、希望が生れるであろう」 唇に笑みを残したまま、グロールフィンデルの瞳は過去の情景を見た。 希望 グロールフィンデルは頭を下げ、エルロンドに背を向けた。 スランドゥイルは先頭を進み、時折襲ってくるオークの残党どもを切り捨てた。 内心、焦りはある。それなりの戦力で攻められたら、我らはもたない・・・と。 「スランドゥイル殿!」 戻ってきた斥候が、スランドゥイルに耳打をする。 「!」 斥候の示した場所に、急ぎ走る。 そこには、オークの死体が累々していた。 オークに突き刺さった矢羽を引きぬき、眉を寄せる。 「ノルドール・・・・ギル=ガラドの兵のものだ」 忌々しげに矢羽を投げすて、溜息をつく。 「借りを、つくったな」 「・・・・では、ノルドと和解を?」 和解? スランドゥイルは苦々しげに唇をつり上げた。 「私は、森に帰ったらシルヴァンの王となる。森の中でひっそりと暮そう。 奴らと和解などせぬ。・・・・・今しばらくは、な」 斥候は小さな溜息をつき、オークを前にした圧倒的な力を見回した。 結局、 ノルドールの叡智と技術の前には、シルヴァンなど森の小動物程度でしかないのだ。 生き残るには、平伏すのも、またしかり。 「あなたは、お強い。我らロスロリアンの民とは、道を違えるかもしれません」 そうかもな。 スランドゥイルは、その斥候の肩に手を置いた。 「ハルディア、といったな。帰路を急ごう」