「…………」
 スランドゥイルは、視界に光を感じた。
 眠っていたのだ、と、気付く。
 エルフはあまり眠りを必要としない。
 寝台に横になる事など、ここ数年、あるいは、数十年、なかったかに思う。
 しかし、自分は眠っていたのだ。
 己の不覚に舌打ちをする。
 深く眠るという事は、無意識に己の守りを弱める事になる。
 スランドゥイル王の守護力は、そのままこの森の守護力でもあるのだ。
 年々、日々、弱まっていくのを感じる。
 眠りを必要とするほどに、憔悴している。



 寝所を出ると、侍女たちが足早に通り過ぎる。
「騒がしい。何かあったのか」
 眉を寄せて問うと、侍女は膝をついて頭を垂れた。
「おやすみのところ申し訳ありません。娘を探しております。今朝から姿を見せず………」
「娘?」
「シルヴァンの娘でございます。どうかお気になさらず。闊達な娘でして」
 スランドゥイルはぐるりを王宮を見回す。
「………扉が、開いたか………」
 眠っている間に、誰かが王の許可なく王宮の扉を開いた。
起きていればそんなことはさせないのに。
 また、己の不覚に舌を打つ。
「レゴラスに探させろ。そう遠くにも行くまい」
 


 少女は、川の流れを眺めていた。
 いつも思う。この川は、どこまで行くのだろう。
 自分の知らない世界。
 王宮は安全だけど。
 小石を拾って、水面に投げる。
 ぽちゃん、と気持ちのいい音がする。午後の日差しが、水滴をきらきら輝かせる。
 しばらくそうして遊んだあと、少女は森の中に戻っていった。
そうだ、どんぐりを拾って帰ろう。お花が咲いていたら、それでもいい。
王宮にはない、何かを探して帰ろう。
 きょろきょろしながら歩くうちに、帰り道を見失う。
「あれ?」
 目の前に、白い糸が、一本、二本。
「!」
 しまった!
 気がつくと、クモの糸に取り囲まれている。
 悲鳴は声にならず、見開いた瞳の視界いっぱいに、クモの目が…。
 瞬間、目をぎゅっと閉じ、うずくまる。
「――――――――!」
 神経を逆なでする、音。あれは、クモの悲鳴だ。
あちこちで甲高いおぞましい悲鳴があがり、ばさり、ばさり、と何かが落ちる。
 がくがくと震え、体に力が入らない。
「タウリエル」
 聞き覚えのある声がして、少女はふわりと抱き上げられた。
顔をあげた少女は、夢中になって、その者の首にしがみついた。



「何故、外に出た」
 王の前で、少女はうなだれて涙を零す。
「外は危険だ、ひとりで外に出てはならぬと何度も言った筈だ」
 しゃくりあげて、少女はしゃべれない。
「父上、無事だったのですから、もうよいではありませんか」
「わかっておるのか?! 命を落すところだったのだぞ!!」
 びくり、と少女は身を震わせ、またぼろぼろと泣き出す。
「よいな、わしの許可なく、今後一切、王宮を出てはならん!」
「……はい」
 レゴラスは肩をすくめ、少女の手を取った。
「タウリエル、王は心配しておられるのだよ。王はきみを死なせたくないんだ。
わかるかい? 王の守りの魔方陣から出てはいけないよ?」
 こくこくと、少女は頷く。
「さあ行こう。みんながきみを心配している」
 レゴラスは少女の手を引いて、歩き出した。



 魔法で閉じた扉を、もっと強固なものにしなくては。
 何者も入り込まないように。
 何者も出て行かないように。



 寝台に座り、グラスに注いだワインを口に運ぶ。
 スランドゥイルは、酷く疲労を感じていた。
『まるで、眠りの王国ですね』
 瞳だけを上げて、前方を見る。
『この三千年、眠り続けていらっしゃる。何も見ず、何も聞かず、ひっそりと』
 スランドゥイルはグラスのワインを飲み干すと、
立ち上がってサイドテーブルの瓶から、またワインを注ぐ。
『闇は増し、あなたの力は衰えてきている』
「わしは、衰えてなどおらぬ」
『スランドゥイル王………』
「去れ。わしに干渉するな、エルロンド」
 ぷつり、と何かが途切れ、寝所に静寂が戻る。
「どうかされましたか?」
 入ってきた息子から、目を背ける。
「父上?」
 一瞬、幻を見た。息子の影に、愛した女の面影を。
今はもういない、シルヴァンの女性。
聡明で一途な彼女は、王の子を産むと、疲れ果て、アマンへと去った。
 疲れているのだ、と思う。何もかも。
エルロンドの思念が入り込むのを許してしまったのも、
シルヴァンの少女が出て行くのを許してしまったのも、
息子に妻の幻影を重ねるのも。
「少し、お休みになった方がよろしいのではありませんか」
「大丈夫だ」
 守りを、固めねば。

 誰の侵入も許さず、
 誰が出ることも許さず。

『ネムリノ王国』

 そう呼びたければ、呼べばいい。何千年でも、眠り続けようぞ。
 我は我の民を守るのだ。

「父上」
 足音を立てず回り込んできたレゴラスが、スランドゥイルを真っ直ぐに見上げる。
いつか見た、澄んだ青い空が、そこにある。
「お休みください。私が見回りをしてまいります。
領地からクモを一掃し、オークが足跡一つつけることも許しません」
 スランドゥイルは息子の髪を指に絡めると、その額に唇を寄せた。
「案ずるなレゴラス。わしは大丈夫だ」
 レゴラスは瞳を閉じ、父の存在の大きさを感じる。

 他の誰がスランドゥイル王を非難しようと、
「私が父上を守ります」
 愛しさと切なさがこみ上げ、一度父をしっかりと抱擁し、レゴラスはあとずさった。
「森を見回ってきます」

 緑葉
 それは、希望。

 いつかまた再び、

 この森に光が戻る事があるだろうか

「レゴラス」
 愛しさを込めて、その名を呼ぶ。
「はい、父上」
 手の中にある希望。
 一度身体を離した息子を、抱きしめる。

 もう二度と、失いたくない
 失わせはしない

 

 ひっそりと、
 闇の森は眠りにつく。
 ネムリノ森の
 ネムリノ王国

 ネムリノ王国の
 眠らない王