バルドは、老齢を感じていた。 再建された谷間の国は、見事に復興し、成人した息子バインに王位を譲った。 最後にレゴラスに会ったのは、バインの即位式の日だった。 自分はこんなに年老いたのに、レゴラスは初めて出合った時のまま、その美しさは少しも損なわれていなかった。 彼はエルフで、自分は人間なのだ。 彼はエルフの生を歩み、自分は人間の生を全うしてきた。 レゴラスと交わった時間はほんの一瞬で、エルフにしてみれば、ほんの瞬きの間でしかない。 それでも、彼と交わった短い時間、それはまぶしすぎる太陽のようにバルドの心と身体に焼き付いている。 あんな快楽は、比類するものはなく、そしてもう二度とないのだ。 焼け付く快楽の時間を、後悔はしていない。 もう一度あれを味わいたいと願うには、バルドは年を取りすぎた。 バインの即位式の日、正装したレゴラスは、それまで以上に美しかった。 あれから、一度も会っていない。 闇の森からの使者は、定期的に訪れるが、そこに王子の姿はない。 噂では、レゴラスは頻繁に裂け谷に通っているらしい。もっとも、エルフの頻繁は、人間の「稀」かもしれないが。 それでも、もう一度、彼に会いたいと思う。 年老い、年々自由の利かなくなっていく身体は、ベッドの上で過ごす事を余儀なくさせていた。 たぶん、もう、時間はあまり残されていない。 バイン王の統治する谷間の国は、繁栄を続けている。 が、 バルドの耳には、よくない噂も流れてきた。 暗雲が、遠い空に見え隠れする。 その噂は、バルドの胸を騒がせた。 「バルド」 開け放した窓辺に置かれたベッドの上で、バルドはうつらうつらしていた。 夢現で、自分の名を呼ぶ声を聞く。 「バルド」 窓の外に目をやる。 ああ、自分は寝ているのだ。これは、夢。 「久しぶりだね」 窓辺の人影が、ふわりと舞い降りる。 「レゴラス」 夢心地のまま、その名を呼ぶ。 「あなたの時間がないと聞いて、急いで戻ってきたよ」 時間がない。そう、もう、死期が近付いている。 「レゴラス、会いたかった」 「ぼくもね、あなたに会いたかった。あなたがこんなに急に時間を浪費するなんて。 父上が言っていたとおりだ。人間は、すぐに年老いて死んでしまう」 バルドは苦笑する。 「でも、間に合ってよかった」 レゴラスの、冷たい唇が、バルドの乾いた唇に押し当てられる。 「レゴラス、雨が………降りそうだ」 レゴラスは眉を寄せ、窓の外、遠い空を見やる。 「まだ、だよ。バルド、まだ、嵐は来ない」 「だが、その日は、遠くない」 レゴラスは、年老いたバルドの瞳を覗き込む。どんなに年老いても、そこには知性と、勇気と、先見の明がある。 「心配なんだ。俺が去った後、息子が、この国が、どこに向かうのか。 今ほど、寿命を恨めしく思ったことはない。この手が、もう一度弓を番えることができたら」 しわの刻まれた手を持ち上げる。レゴラスはその手を握った。 「あなたは充分に戦った。あなたはこの手で多くのものを勝ち取った」 「レゴラス」 「バルド、人の、王が、見いだされた」 手を握ったまま、バルドの耳元でレゴラスが囁く。 「それは、人間の、希望、だ」 バルドは目を見開いてレゴラスを見た。 「だから、何も心配しなくていい」 「人の、王?」 バルドの脳裏に、記憶がフラッシュバックする。 それは、昨日の事のように思い出される。 鮮明に。 バインの即位式の日、見知らぬ男を見かけた。鋭い目つきの男だった。 なぜ、その男の事を思い出すのか。 今まで忘れていたのに。 そうだ、あの日。 レゴラスは、群衆の中にいたその男に、目配せをしていた。 その時は気のせいだと思ったが、違う。 レゴラスは、群衆の中のその男を見つけ出し、わずかに微笑んだのだ。 「………それは、本当の王なのか………」 バルドは、己の目を疑った。 バルドの手を握るレゴラスが、微笑んだのだ。 今まで一度も笑ったことのないレゴラスが。 まるで、恋する乙女のように、透明感のある、うっとりとした笑み。 そうか。 レゴラス、きみは、恋をしているんだね。 きみは、愛を見つけたんだね。 そうか。 「そうか」 「だから、大丈夫」 バルドはベッドから起き上がった。そして、レゴラスを引き寄せ、キスをする。 レゴラスは瞳を閉じ、重ねるだけの口づけに応じたあと、バルドを一度抱きしめ、身体を離した。 「さようなら、レゴラス。きみに会えてよかった。きみを愛していた」 「さようなら、バルド。ぼくもあなたが好きだよ」 バルドはまた力なくベッドに横たわる。 春の光のように優しい笑みを残し、レゴラスは去っていった。 きみを笑顔にできる人間なら、真の希望となり得よう。