「ねえきみ、ちょっと僕のお願いを聞いてくれないかい」

「でも僕は、これから行かなければならないところがあるんだ」

「ちょっとだから。ちょっとだけ、きみの時間を貸してくれないか」

「じゃあ、ちょっとだけ」

 

「ねえきみ、もう一度僕のお願いを聞いてくれないかい」

 

「きみ、もう一度」

 

「もう一度」

 

「ああ、でも、僕本当に、行かなければならないんだ。仲間達は、もう行ってしまった」

「ごめんね。でも、あと一回。あと一回だけ」

 

 

 

 あと一回。これが本当に、最後だから。

 そう言って引き止めたのは、自分。

 彼を、ここに引き止めていてはいけないのに。

 彼は、海を渡らなければいけないのに。

 

「何を泣いているの?」

 ベッドの上で膝を引き寄せ、頭を垂れる男に、彼は優しく手をかける。

「………泣いてなんか、いない」

「不安なの?」

 不安。荒野に一人立つことの不安。

 見えない未来への不安。

 迫り来る冬への不安。

 ボロボロになっていく自分への、不安。

「僕がそばにいてあげるよ。今までみたいに。これからも、ずっと」

 でも、きみは海を渡らなければならないんだ。

 海の向うには、きみの行くべき楽園がある。

 だが、ここには荒野しかない。

 それに、冬も近付いてきている。

「大丈夫。きみを、一人になんかしないから」

 ふわり、と彼は、男を抱きしめる。翼のある小鳥のように軽く、冷えた腕で。

「俺は………お前の命を、奪おうとしている」

 彼は、重さのない、一片の羽のように微笑む。

「僕の命は、きみのものだ。きみが最初に、僕に声をかけたときから」

「俺が声をかけなければ、お前は海を渡れた。恐れのない楽園へ」

「もし僕が、何もせぬまま海を渡ってしまったら、
僕の命は本当に意味を持たないものになってしまっていた。
そうでしょう? きみが、僕の命に意味を与えてくれたんだ」

 それでも、

「俺は、死すべき運命でないものに、苦難の道を歩ませてしまっている。
引き返すことのできない、茨の道を」

 ふるふると、彼は首を横に振り、男のうなじに鼻先を埋める。

「俺は、与えるものは何もない。運命の中で、朽果てるだけ。
自由の翼をもつものを、縛り付ける権利なんか、ないのに。
…………俺は、なんでお前に声をかけてしまったんだろう。
なぜお前の自由を奪ってしまったんだろう」

「それはきっと、寂しかったから。
僕に翼があるのだとしたら、それはきみを温めるため。
翼のないきみの代りに、きみの声を届けるため。

 でもね、きみは僕の自由を奪ってなんかいない。
だって僕は、僕の意思でここにいるのだから」

 膝を抱える手に力を込め、男は肩を震わせる。

「さあ、顔をあげて。みんながきみを待っている」

 彼は、男の頬を両手で包んで、そっと上を向かせる。
苦痛に歪む唇に、そっとキスをして、彼は微笑む。

「大丈夫」

 彼の青い瞳は、海の色。

 楽園へと続く、深い深い海の色。

 自分は決して渡ることのない、海の色。

「さあ、エステル、きみはみんなの『希望』なのだから」

 

 

 

 俺は再び、歩き始める。

 絶望への途を。

 『希望』へと変えるために。

 

「レゴラス」

 小鳥の名を、そっと呼ぶ。彼はふり向き、微笑み、片手を胸に当てる。

(僕は、きみと運命を共にする)

 彼の唇が動き、アラゴルンは安堵を感じる。

「行こう。小さき者達と」

 

 世界の運命を変える旅へ。