「汚れをこの森に持ちこむことは許されぬ」

 王の言葉に、レゴラスは息を飲んだ。

「ノルドを、汚れと申されますか」

 スランドゥイルの鋭い視線に、レゴラスは視線を外すことを恐れた。
胸は恐れにおののいているのに、それを悟られまいと見つめ返す。

「使者は別の者を使わす。お前はこれ以上裂け谷に関ってはならぬ」

 使者の地位を外される?!

「王よ! 私はエルロンド卿と約束をいたしました。
裂け谷の秘密に関る者をむやみと増やすわけにはいきません。使者は私が・・・・」

「黙れ!」

 怒りを込めた低い声色に、一瞬すくみ上る。

「お前はエルロンドと関りすぎた。嫌ならもう使者はやらぬ。
それを好戦的ととられてもかまわぬ」

 なぜ・・・?

 レゴラスは震える唇を開いた。

「ノルドを汚れと申されるなら、シンダールとて同じことではありませぬか?」

 王の周囲の者達が、ぎょっとしてレゴラスを見た。

「エルロンド卿と裂け谷の方たちは、叡智を蓄えております。
我らより世情にも詳しい。それを否定することは間違ってはおりませぬか? 
それに、裂け谷にはシンダールもたくさんおります。
それを否定することはできますまい。
王は、同じシンダール族も否定なさるのですか?」

 とても王子の言葉とは思えぬ発言に、側近たちは息を飲んで見つめている。

「それが感化されている証拠なのだ、愚か者」

 怒りに声を荒げるかと思えたスランドゥイル王は、
青白い怒りの声で告げると、すっと席を立った。

「頭を冷せ。わしの言った事をよく考えるのだな。
お前の今の発言はとうてい許されるものではなく、わしの側近として失格だ。
しばらく自室で謹慎しておれ」

 背を向け出て行く王に、言葉を失う。

 レゴラスは全身の力が抜けていくのがわかった。

 

 なんという失言!

 なんという失態!

 

 残されている側近たちの視線が痛い。

 弁解の言葉も思い浮ばず、レゴラスは逃げるように自室に駆込んでいった。

 

 

 

 ベッドの上で、両手に顔を埋める。こんなにも自分を蔑んだことはない。

 このまま逃げ出してしまいたい。

 いっそ鳥になって谷に飛んでいき、エルロンドの指先にとまれたら・・・・。

 

 そのままレゴラスは、硬く心を閉ざした。

 夢を見ることもなく、何も見ず、何も聞かず。

 何も考えなくていいように。

 

 

 

 冷たい水の中に心を浸していると、水面を歌声が流れていった。

 閉ざした心に隙間ができる。

 その小さな隙間から、優しい歌が流れ込んでくる。

 

 その歌は、知っている。

 母の歌ってくれた子守唄だ。

 

 シルヴァンの歌。

 

 森のエルフたちの歌。

 

 森のエルフたちは、戦い疲れたシンダールたちを、優しく迎え入れてくれた。

 富を築く叡智も、豪華な宮殿を築く技術も、何ももたない素朴な森のエルフ。

 遠くの闇を知ることもなく、

 ただただ歌って過す、無知な者たち。

 

 何が欲しいの

 何が必要なの

 ここには全てがそろっているわ

 

 若きスランドゥイルは、森の乙女に恋をした。

 

 それでもオロフェアは、シンダールたることを捨て切れなかった。

 本心では、スランドゥイルは反対だったのだ。

 戦に赴くことに。

 

 この森に隠れ住もう

 誰からも干渉されず

 

 森の木々と

 運命を共にしよう

 

 シンダールの情熱を、森の乙女は包み込む。

 

 森の奥に、引き止める。

 

 それでもオロフェアは立ち上がった。

 

 そうそれは・・・・・

 

「お前は、祖父の血が濃いのだ」

 レゴラスは、視界を埋める金色の光に、静かな吐息を吐いた。

「だが、今のお前は、感情に支配されているとしか思えぬ。
わしが気づかぬとでも思ってか」

 ぼんやりと定まらぬ視線は、愛する男の幻影を追う。

「愛し合うことが、汚れ、なのですか」

 彼の声、彼の温もり。身体の中で感じる、満たされる高揚感。

「思い出してみろ。お前がはじめて弓を手にしたときのこと。
新しいものへの興味と興奮で、一時も離す事はなかっただろう。
はじめて森の外にでた時のこと、はじめてオークを仕留めたときのこと
・・・・・どれだけ興奮し、それに熱中したか。
お前は、新しいことが好きなのだ。
はじめて見るもの、はじめて感じるもの、それらがたまらなく好きなのだ。
裂け谷での事象は、そのひとつに過ぎん。ましてやエルロンドなど」

 愛しい者の名に、レゴラスは飛び起きた。

「お前の見ているエルロンドの姿が、奴の仕組んだものでないとは言いきれるか。
巧妙にお前を騙していると思わぬか。何も知らぬお前を騙し、利用しているだけだと」

「あの方は、そんなお方ではありません!」

 強く否定し、スランドゥイルを見たとき、
父が王の装束ではなくゆったりとしたローヴに身を包んでいることに気がついた。
シルヴァン式の動きやすいシャツを脱ぐことは、珍しい。
その服装に、レゴラスは目を細めた。
他の事を全て忘れて、興味深げにその生地に触れる。

「それみろ。わしがこんな格好をしているだけで、お前の興味が注がれる」

 その手触り。細い細い絹。まるで・・・・その手触りはまるで・・・・。

「これはドリアスから持ちこんだものだ」

 薄い生地に触れながら、視線を上げる。

「ノルドールと同程度の技術を持ったエルフの織った物だ。
何が知りたい? 森に住むエルフよ。
ドリアスの技術か。ノルドの言葉か。エルフの歴史か。
・・・お前にそんなものが必要か? 森のエルフよ。
お前の母は、そんなものに興味を示さなかった。
それより森を逍遥し、風を感じ、光を浴び、星を見つめることを好んだ。
答えるがよい、森のエルフよ。お前にとって一番大切なのが何であるのか」

 否定の言葉だけを並べて、その実を忘れていた。

 父とて、栄華を極めたかつての楽園の住人であったのだ。

 レゴラスの知りえない知恵をもっているのだ。

 そして、それを棄て去った。

「それでも・・・・エルロンド卿の誠意は真実です」

「肉体の繋がりが、お前にそう信じさせているだけではないのか。
ノルドの最後の王であったギル=ガラドの後継者であり、
ガラドリエルと血縁を結んだ、そんな男が、本気でお前に愛を囁くなどと?」

 

 知られている!

 全てを、見抜かれている・・・・!

 

 レゴラスの背を戦慄が走る。

「僕が、ただ騙され、犯されただけだと?」

「興味本位で弄ばれただけだとは、思わぬのか」

 ぐらりとめまいがして、レゴラスは両手で顔を覆った。

「お前は、はじめて知った肉体の快楽に翻弄されているだけなのだ」

 何故知られてしまったのか。隠していたつもりだったのに・・・。

「父上・・・・・」

 顔を上げることもできずに、小さく震える。

「僕が忠誠を誓うのは、父上だけです。僕の心はこの森と共にあります。
決して裏切ることはありません。で
も・・・・でも、僕の肉体はあの方を求めて止まない。
それを・・・お許しくださらないのであれば、僕はこの森を出て、もう戻りません」

「裂け谷へ保護を求めるか」

「いいえ。森の使者でない僕は、谷へ赴くことも許されないでしょう。
裂かれた胸を抱えて、永遠に彷徨い続けます」

 ふう、と溜息をつき、父は息子を抱き寄せた。

「・・・・なぜ、それほどまでに・・・」

「あそこには、真実があります。母の知らなかった現実が。
父上が遠ざけようとしている闇が。
僕は全てを知り、なお森に隠れ住むことはできません。
そして、エルロンド卿は全てを知る方なのです。
あの方の苦しみも、悲しみも、僕の中にあります。
優しさも、慈しみも」

「それがどうしたというのだ?」

 父の指が髪を撫でる。

「お前がどんなに愛を捧げようと、あの男はお前のものにはならぬ。
やがてすぐに、別れはくる。
未来のない刹那の愛情に身を任せ、どうしようというのだ」

 両手を下したレゴラスは、父の胸に頭を預けた。

「父上、そもそも、永遠など存在するのでしょうか。
永遠の栄華などありません。全てはうつろい行くもの。
永遠の命をもってしても、平坦な道をいつまでも歩くわけではありません。
ならば、それが刹那であっても己の全てをかけることに、
真の意味があるのではないでしょうか。
この先、たった50年か100年かもしれません。
それが過ぎたら、僕はまた別のものに恋をするかもしれません。
父上。それでも今は、僕のこの求める心は真実です。
もし、唯一永遠があるのだとしたら、それは父上に対する愛情です。
それだけは変ることがないでしょう。この世界が終るまで」

 父が、溜息をつくのがわかる。呆れているのか。

「レゴラス・・・・お前は、渡り鳥のようだな。
じっとしていることができぬ性分らしい」

 父の胸から身体を起し、レゴラスは上目使いに父を見上げた。

「肉体の快楽に溺れ、まともな判断ができぬのではないか」

「・・・・・そうかも・・・・しれません。先程の発言は謝ります」

 深く反省している様子の息子に、スランドゥイルは苦笑した。

「お前は、丸一年眠っていたのだぞ。気づいておらぬのか」

 え? と、レゴラスは驚きの声をあげた。

「マンドスに去ってしまったのではないかと、皆が心配していたのだ。
愚かな息子だ。本当に」

 一年・・・・そんなに心を閉ざしていたのか。

「本当に、僕は愚か者です」

 苦笑したまま、スランドゥイルは立ち上がった。

「外に出て、新鮮な空気を吸ってくるがよい。世界は変らぬ。今はまだ、な。
裂け谷への使者、だが、あれからずっと検討しておるのだが、
誰もあそこには行きたがらぬ。だが、今邪険にして反感を買うことも喜ばしくはない」

 きらり、とレゴラスの瞳が輝く。

「わしはお前が行くことに賛成はしておらぬのだ。
またどんな余計な事を仕込まれてくるかわからぬ」

「反省しております、父上! 本当です! 
もっと冷静に行動することを誓います!」

「だが、あそこに行けば、エルロンドの誘惑がある」

「きっと・・・・誘惑には耐えて見せましょう!」

 スランドゥイルは首を横に振る。

「父上!」

「お前には、私的な書簡を持たせよう。
もし息子に触れる事があれば、わしが自らで向いて貴様の首を落すと」

 父流の冗談なのか。レゴラスの口元が引きつる。

「父上、僕がエルロンド卿と肌を重ねたのは一度きりです。本当です。
僕は王を裏切れぬと・・・・エルロンド卿は理解してくださいました。
今度もきっと、・・・・理性を保ち続けましょう」

 片眉を上げたスランドゥイルは、肩を落した。

「お前がどこで何をしようが、わしに止める術はない。
もう子供ではないのだからな。
ただ、軽率な行動で森を、この王国を危険にさらすことだけは許さぬ」

「誓います! 使者の役目を必ず果すと!」

 瞳を輝かせる息子に、スランドゥイルは父親としての寂しさを感じた。
息子は、いつかは自分の力で飛立ってしまうのだ、と。

「着替えて気分を落ちつかせ、貴族たちへの謝罪を行ってからだ」

「はい」

 父の背を見送ったあと、レゴラスは胸の前で両手を組んだ。

 

 父上、あなたの愛に感謝します。