夜の空気は、心地よい。

 昼の暖かさとはちがう、安らぎ。

 エルフは夜の闇を好む。

 そこから生れ出た、

 純粋な魂の安らぎが、そこにはあるから。

 

 アラゴルンは、隣にたたずむグロールフィンデルを、横目で見やる。

 この男は、こんなに饒舌だったか?

 アラゴルンの子供時代、エステルと呼ばれた日々のことを、穏かに話す。

 その口調は優しげで、温かみがある。

 アラゴルンの知っているグロールフィンデルとは、別人のよう。

 なのに、その口調に懐かしさを感じる。

 それはきっと・・・・アラゴルンの遠い血の記憶。

 彼がそうやって語りかけていたのは、

 彼の幸福の日々にあった、子供。

 

 その優しさを押し殺すことは、どれだけ苦痛であっただろう。

 

 だがそれも、もう終る。

 

 

 

 

 

 エルロンドの腕の中で、レゴラスはうつろな目を開けた。

「エステルが・・・・僕を探している・・・・・」

 その体内に、別の男を咥え込んだまま、まだ彼の名を口にするのか。

 エルロンドは嫉妬心を隠しもせず、レゴラスの顎を掴んで自分に向ける。

「私を見ろ」

 漂うような視線を、レゴラスはエルロンドに向けた。

「もう一度その名を口にしてみろ。私はエステルを殺す」

 真剣なエルロンドの眼差しに、レゴラスは微笑んだ。

「僕は・・・・エステルを愛しているんだ・・・・・
エステルのために・・・・僕は生れた」

 何も言わず、エルロンドの片手が挙る。
次の瞬間、エルロンドはその動きを止めた。
見えない手が、エルロンドの腕を、衝動を掴む。

「また・・・・邪魔をするんだね、グロールフィンデル・・・・・」

 レゴラスは振り上げたエルロンドの手を、そっと握った。

「・・・・見える・・・のか?」

「見えない。でも、わかる。
グロールフィンデルが、あなたを支配している。
あなたが、エルロンドたる道を踏外さないように。
お願いしてみたら? 
グロールフィンデルは、あなたの代りにエステルを殺してくれるかもしれない」

 残酷なことを言う。

「レゴラス、そんなことを、考えていたのか?」

「・・・・もっと、酷いことを。だって、欲望とは、そんなものでしょう? 
あなたは今でも、指先ひとつの指示で、スランドゥイル王の首を落すことができる。
僕を森の呪縛から解放できる」

「レゴラス」

 蒼い瞳から、銀色の涙が零れ落ちる。

 

 うそ。

 そんなこと、望んでなんかいない。

 だって僕は・・・・・

 

 今、とても幸福なんだ

 

「お前は、罪を背負う必要などない」

「でも、あまりに多くの愛する者を傷つけた」

「誰も、傷ついてなどいない」

 森の緑葉の恩恵を、受けただけ。

「もう、自分を責めるのはやめなさい」

 甘い涙を舐めとりながら、エルロンドは囁いた。

「私は、お前を愛している」

 今宵だけの愛とわかっていても。

 それが刹那の夢であったとしても。

 

 

 

 

 

 もう二度とその肉体に触れることはないとしても、
心のつながりは消えることがない。
そんな愛情を、レゴラスは約束してくれた。

 それ以上の幸福など、あるだろうか。

 もし心残りがあるとすれば、自分は彼の愛情に応える事無く、
やがて死を迎えることだ。

「俺が死んだあと・・・・・レゴラスは・・・・?」

「それは、彼が自分で考えることだ。お前が心配することはない」

「舟は・・・・残っているだろうか」

「心配にはおよぶまい。忘れるな。
旅の仲間にはヴァラールの寵愛が与えられている。
たとえ木の葉のような舟であっても、ウルモは彼を約束の地へと運ぶだろう」

 そう。そうだな。

 アラゴルンは己の浅はかな心配に苦笑した。

「あんたは何でも知っているんだな、グロールフィンデル」

「あくまで経験からくる知識に過ぎない。私は、預言者ではない」

 いつもそうだ。グロールフィンデルは己をよくわきまえている。

 アラゴルンにとって、グロールフィンデルは完璧すぎる存在だ。

 

 だが

 レゴラスは、グロールフィンデルの心の隙間を知っている。

 何故知りえたのか、アラゴルンには計り知れないが。

 それゆえ、グロールフィンデルはレゴラスを決して軽蔑しない。
むしろ、レゴラスに膝をつくことさえ。

 結局、あの森のエルフには誰もかなわないのだな。

 レゴラスは・・・・・強い魂をもっている。

 誰もレゴラスを、永遠に己のものにすることなどできないのだ。

 

 今までも、

 これからも。

 

 月が地平線に消え、ひとたびの暗闇が訪れる。

 朝日が昇る前の、一瞬の暗闇。

 まるでそれは、この世界の象徴のようだ。

 その暗闇の中で、アラゴルンはレゴラスの姿を見た気がした。

(もうすぐそこに行くよ、エステル)

(うん)

(寂しくない?)

(大丈夫だ。俺はもう、子供じゃないんだから)

 東の空から、銀色の光が解放たれる。

(泣かないで、レゴラス。大好きなレゴラス。俺はもう、大丈夫だから)

 ふと夢から覚めたように、アラゴルンがまばたきをした。

 そして、隣のグロールフィンデルを見やる。
グロールフィンデルは、じっと朝の光が世界を満たしていくのを眺めていた。

「グロールフィンデル、教えて欲しい。
あなたが本当に愛しているものは・・・・?」

 東の空を眺めるグロールフィンデルの瞳が、細まる。

「・・・・・彼の地で、私を待っている。
私は私の役目を終え、やっと彼に会える。
やっと・・・・・」

 呟くグロールフィンデルの唇は、至福に震えていた。

 

「・・・・・・・・・・!」

 

 アラゴルンは、そのグロールフィンデルの表情に、激しい衝撃を受けた。

 自分は・・・・・己の役目を果したとき、あんな表情ができるだろうか。
己の運命を呪う事無く、苦痛に耐え、喜びを生み出し、
その人生を全うしたと、死の間際に笑うことができるだろうか。

 

 何を恥じる事無く、堂々と、人生の終りを迎えられるだろうか。

 

 そう、これからが己の人生の始りなのだ。

 森のエルフに憧れたエステルの時代を終え、
戦いの中に身を置き続けたアラゴルンを経て、
人間の王たるエレスサールとしての生が、今から始る。

 そうだ。

 私はきっと、笑って死を迎えるだろう。

 そして、その時、妻や、子供や、友人たちに、礼と別れを言うのだ。

 自分は、幸福であった、と。

 

「グロールフィンデル」

 朝日に輝くグロールフィンデルの髪は、ゴンドリンの貴族の色あいを取り戻していた。

「ありがとう」

 アラゴルンに微笑みかけるグロールフィンデルは、彼の幸福の時代に心を戻していた。

 

 

 

 その気配には、ずっと気付いていた。

「グロールフィンデル、こんなところにいたのか」

 グロールフィンデルとアラゴルンは同時に振り向いた。

「エレストール、何か問題でも?」

 裂け谷の顧問長は、相変らず気苦労の多い表情を見せた。

「ああ、最後の問題だ。闇の森からの使者が到着した。
エルロンドのテントに向っている」

 少しだけ驚いたように眉を上げ、
グロールフィンデルはにやりと笑って肩をすくめた。

「それは大問題だ。今あそこに入られては、流血騒ぎになりかねない」

「まったく。使者の方は私が足止めするので、
エルロンドの支度を急がせてくれ」

 ふたりの会話は、まるで子供の扱いに翻弄する親のようだ。
アラゴルンも失笑した。

「笑っている場合ではないぞ、エレスサール。
人間たちがお前を探している。王が消えたのでは話にならぬからな。
脱走癖は今日限りにしなさい」

 エレストールに叱られ、アラゴルンも肩をすくめた。

 

 

 

 エルロンドのテントの前で、グロールフィンデルは一度立ち止り、
立入りの許可を求める言葉を口にした。あくまで、形の上でだ。

 中に入ると、エルロンドはすでに身支度を済ませていた。

 ただ、レゴラスはまだ薄衣のままで横たわっている。

 グロールフィンデルは溜息をついた。

「闇の森の王子は、よほどお疲れと見える」

 嫌味を口にすると、レゴラスは体を起した。

「森の使者、ですね?」

「そうだ。早く支度しなさい。エレストールが対応している」

 レゴラスは乱れた髪をかき上げた。

「私が行こう」

 歩き出すエルロンドの肩に、グロールフィンデルは手を置いた。

「香を。レゴラスの匂いがします」

 エルロンドが片眉を上げる。
グロールフィンデルは少ない荷物の中から小さなビンを出してきた。
傷の消毒に使う香油だが、独特の香りは他のにおいを消してくれるだろう。

「さあ、王子」

 エルロンドにビンを渡すと、
グロールフィンデルは水瓶の水で布を濡らし、
座り込むレゴラスの体を拭いてやる。

「水を浴びたい」

「わがままを言うものではありません」

 エルロンドが出て行ったあと、今度はその髪を櫛で梳く。
レゴラスは、かしずかれることに慣れていた。

「肉とワイン」

「あとで用意させましょう」

 元のようにきれいに髪を編みこみ、服の汚れを叩いて肩にかける。

「グロールフィンデル殿」

 服に袖を通しながら、レゴラスは無邪気に笑って見せた。

「いつかゆっくり、話がしたいです」

「ええ。時間なら、たっぷりありますよ。
私はエルロンドとともに、先にアマンに行っています。
あなたはゆっくり来るといい」

 ほんの少し悲しげに笑って、レゴラスは頷いた。

「あなたの思い人にも会えますか?」

「私がレゴラス殿にしたことは内緒ですよ。また叱られてしまう」

 そんなことを言うグロールフィンデルは、きらきらと輝く瞳をしている。
グロールフィンデルのそんな表情を見ていると、
レゴラスは、そんな世界も悪くないと思えた。

 

 希望は常にそこにある。

 

「楽しみです」

「ええ、でも楽しみはあとですよ。
早く支度をして、あなたの国の使者を迎えなさい。
心配しておられるでしょう」

 立ち上がり、身支度を済ませたレゴラスは、
グロールフィンデルに小首を傾げて見せた。
大丈夫だと、グロールフィンデルも頷く。

 レゴラスはテントを出た。

 

 朝だ。

 

 新しい一日。

 新しい世界。

 新しい時代が、はじまる。