未来が、崩壊する。

 

未来が、崩れ去ろうとしている。

 

 

 

 グロールフィンデルは、重い瞼を持ち上げた。

 深い闇の底から、ぽっかりと浮かび上がってくる感覚。

 体は土くれのように重たく、息苦しい。

 夢を、見ていたのだ。

 重苦しい、夢。

 その夢から、じんわりと覚醒する。

「おはよう」

 上方から降り注ぐ声に、夢の欠片がこそげ落ちていく。

「顔色がよくないね。悪い夢を見ていたのかい?」

 フルートの音色のような、心地よい声色。

「・・・エクセリオン・・・」

 乾いた唇が、その名を呼ぶ。
もやのかかっていた視界が、次第にはっきりとしていく。

 その男の銀色の髪が、頬に触れる。

「顔色がよくないよ、グロールフィンデル」

 銀色の髪の男は、優しく微笑み、
流れる水のようにゆったりと窓辺まで歩いていき、窓をいっぱいに開け放った。

 とたんに、柔らかな風が流れ込んでくる。花の香りと、人々の笑い声と共に。

 グロールフィンデルはゆっくりと起き上がると、窓辺に歩み寄った。
グロールフィンデルに場所を空けるように、エクセリオンはそっと体をずらす。

 吹き込んでくる風に、グロールフィンデルは目を細めた。

 眩しいほどの太陽の光。見下ろせば、風に金色の花々が揺れている。
その向こう、城下町では人々のざわめきが目に入る。

 街角に立つ楽団。はしゃいで走り回る子供たち。
女たちは白い足で石畳を踏みしめて踊っている。

 そんな風景を眺めていると、グロールフィンデルは自然に口元をほころばせる。

「やっと夢から覚めたようだね」

 耳もとでエクセリオンが囁く。

「エクセリオン、・・・大門の警備はいいのか?」

 穏やかな光景から目を離さぬまま、グロールフィンデルが問う。
エクセリオンは、風のように笑った。

「明日は夏至の祭りだ。祭りの用意に戻ってきたのだよ。
祭りの日ぐらい、私だって休みたい」

 夏至の祭り。

 グロールフィンデルの胸に、何かがちくりと突き刺さる。

 振り返ると、そこにエクセリオンはいない。
頭をめぐらせると、いつの間にか彼は奥のドアの方に向かって歩いていた。

「新しい衣装を取りに来たんだ。忙しくて、まだ見ていないのだけどね」

 グロールフィンデルは目を細めてエクセリオンを見る。

「先に拝見させてもらったよ。今年は、ずいぶんと派手なデザインだ。
あちこちにダイヤモンドが散りばめられている」

 グロールフィンデルの言葉に、応えるようにエクセリオンも笑う。

「きみの衣装ほどではないよ。眩しいくらいの金色じゃないか」

「もう、見たのか」

 ふふふ、とエクセリオンが笑う。

「明日が楽しみだ」

 そう言い残し、エクセリオンは部屋を出て行った。  

 

 グロールフィンデルは屋敷を出て、街に向かった。
城下町のざわめきは、胸を高揚させる。人々の喜びの声。
グロールフィンデルは、国民たちを愛していた。
この国を、愛していた。人々の笑い声は、繁栄のしるし。

 中央広場の噴水の前で足を止める。
広場では、王立の正式な楽団ではない、国民たちが自主的に集まって音楽を奏でる、
即興の楽団が喜びの歌を奏でていた。

 明日は夏至の祭り。

 街中を飾り立て、方々で音楽を奏でて女たちが踊り、
菓子とワインがあちこちで振舞われ、子供たちが喜び駆け巡る。

 明日は夏至の祭り。

 人々が繁栄を喜び合う。

 噴水の淵に腰掛け、グロールフィンデルはそんな街を微笑ましく眺める。

「グロールフィンデル!」

 幼い少年の声に、そちらに振り向く。満面の笑みを湛えた少年が、走り寄って来る。

「明日のお祭り、楽しみだね! 今年はエクセリオンと踊るの?」

 無邪気な声に、グロールフィンデルは微笑む。

「ええ、エアレンディル様」

 少年の顔が、ますます輝く。

「楽しみだよ! うん、すごく楽しみ!」

 そして、背中に隠し持っていた小さな花束を、
少年はグロールフィンデルに差し出した。

「お母様と花を摘んだんだ。グロールフィンデルに似合うよ。ね?」

 開いたばかりの黄金の花弁と、甘い香り。
グロールフィンデルは少年から花束を受け取った。
少年の指は、白く幼く、純粋さを表している。
爪の先に、ほんの少し草の汁がついているところも、愛らしい。

「エアレンディル、踊りではありませんよ。演舞を見せてくださるのです。
ゴンドリンの双璧、守りの象徴としてのお二人の武術をね」

「踊っているように見えるよ!」

 後ろから現れた母親に、少年は少しだけ唇を尖らせる。
グロールフィンデルはおかしそうに笑い、少年の手を取って、その指に口づけた。

「踊っているのですよ」

 話を合わせてくれる武人に、母親は肩をすくめて見せた。

「さあ、エアレンディル、おじい様のところに行かなくては。
明日の挨拶に行くのですよ」

「ボク、もっとグロールフィンデルと一緒にいたいな」

「わがままを言ってはいけませんよ」

 活発な盛りの少年に、母親は少々手を焼いているようだ。
グロールフィンデルは少年の手を引いて立ち上がり、母親の方にそっと押しやる。

「エアレンディル様、私も後から参ります。
トゥアゴン様と明日の打ち合わせもありますゆえ。
どうかお母様を困らせないでください」

 大好きな金華家の宗主に窘められ、エアレンディルは渋々母親の手を取った。

「また後でね、グロールフィンデル」

 グロールフィンデルは軽く頭を下げた。

「イドリル様・・・」

 少年の母親の名前を呼び、言葉に詰まる。
イドリルは小首を傾げた。まるで小鳥が人間の言葉を理解できぬというように。

「どうしましたか、グロールフィンデル?」

 いったい、何を言おうとしたのか。グロールフィンデルの頭の中が、真っ白になる。

 イドリルは、先見の明がある。

 未来を見ることができる。

「明日・・・・」

「明日?」

 明日、何を言おうというのか。明日、何があるというのか。
グロールフィンデルは空っぽになった頭の中に戸惑い、苦笑いをして見せた。
そんなグロールフィンデルに、イドリルがクスリと笑う。おかしな人ね、と。

「ワインの飲みすぎには注意なさった方がよくてよ、グロールフィンデル。
あなたはお酒が苦手なのですから」

「・・・ええ、そうします」

「あなたにワインを勧めてはだめと、エクセリオンにも注意しておかなければね」

 冗談めかしたイドリルの微笑みに、グロールフィンデルの頬が染まる。

 エアレンディルの手を引いたイドリルが宮廷の方に去った後、
グロールフィンデルはため息をついて噴水の泉に視線を落した。
エアレンディルのくれた花を、泉にそっと浮かべる。
銀色の細波が金色の花弁をゆらゆらと揺らす。それは、何かを象徴するように。

「私はキミという黄金の花弁を、私の中に引きずり込んでしまうかもしれない」

 揺らめく水面に、銀色の髪をした男の姿が映る。

「・・・エクセリオン」

「いいや、キミを包み込んで、揺さぶるだけか」

 からかうような、意地の悪い笑み。
水面の花弁のように、いつも彼に翻弄される。
花が水を必要とするように、自分は彼なしでは生きていけない。
水面に移る男を、じっと見つめる。

「グロールフィンデル、私はそこにはいないよ」

 一度目を閉じ、グロールフィンデルは振り向いた。

「水の中のあなたなら、私を困らせたりしない」

「キミに触れる事もできないがね」

 手を伸ばし、エクセリオンはグロールフィンデルを抱き寄せた。

「花の香りに、酔いそうだ」

「ご冗談を」

 ふふふ、と、グロールフィンデルの耳もとでエクセリオンは笑った。

 

 気がつくと、すっかりと陽は落ち、空には星が輝いていた。

 バルコニーの椅子に座り、片手にワインのグラスを持っている。

「今年のワインの出来はいい」

 エクセリオンはワインのビンを差し出し、
グロールフィンデルにグラスを飲み干すように身振りする。

「これ以上は、飲めない」

「私とは、飲みたくないと?」

 眉を上げ、脅迫するように無理矢理グラスにワインを注ぎ足す。

「明日のために、酔いつぶれるわけにはいかない」

「明日?」

 グロールフィンデルの言葉に、きょとんとした表情を見せた。
そして、おもむろにくすくすと笑い出す。

「もう酔っ払ったのかい?」

 呆気に取られるのは、グロールフィンデルの方だった。

「式は終ったばかりだから、明日は皆、二日酔いで寝ているよ」

 何の話か、と、自分を見下ろして驚いた。見たこともない衣装を身に着けている。

 否、この衣装の意味はわかる。

 王家の婚儀に参列する正装だ。

「エアレンディル様が、シンゴル殿の直系の者と結婚するとは思わなかった」

 顔を上げて、グロールフィンデルがエクセリオンを見る。

「エアレンディル様が・・・・?」

「ああ、グロールフィンデル、
ワインの飲みすぎで何もわからなくなってしまったか。
今日、結婚式だったではないか。エアレンディル様とエルウィング様の」

 エルウィング・・・? 誰だかわからない。シンゴルは知っている。
シンゴルの娘は、ルーシエンではなかったか。

 

 未来が、崩壊する。

 

 その言葉が、頭の中で渦巻く。

 

 未来が、崩れていく。

 

「エクセリオン」

 すがるように、その名を呼ぶ。
エクセリオンは不思議そうにグロールフィンデルを見つめている。

「どうした? 夢でも見ていたのか? 
そうか、飲みすぎてうたた寝をしていたんだな? 
困った奴だ。武人としての腕が立ち、民からの信頼も厚いキミの、唯一の弱点だな」

 

 未来が・・・・・。

 

 グロールフィンデルは、軽く頭を振り、ワインのグラスに口をつけた。

 芳醇な香り。濃厚な味わい。頭の中を麻痺させるような強いアルコール。
思わず口元をほころばせる。

 何をおろかな事を考えているのだ。このめでたき日に。

「私には、キツ過ぎるようだ」

「仕方がないな。では、口直しに」

  細い指がグロールフィンデルの顎を持ち上げ、上を向かせる。
エクセリオンの、深い泉の色の瞳に、吸い込まれ、溺れる。

 唇が触れ合う寸前、エクセリオンは大げさなほどニヤリと笑った。

「おっと、危うく花弁を飲み込んでしまうところだった」

 そう言って、顔を遠ざける。

 そんな彼特有の冗談に、グロールフィンデルは眉を寄せる。

「一度水に沈んだ花弁は、朽ちてしまうからね。
花は、水面で揺れているから美しい」

 グロールフィンデルは、ただエクセリオンを見つめる。

 彼の存在を、視覚で確認するように。

「あなたは・・・存在する」

 ボソリ、と呟いた言葉に、エクセリオンは不思議そうな顔をする。

「何を言っているんだい?」

 エクセリオンはグロールフィンデルの手からワイングラスを取り上げ、
指を絡めて導く。

 天上を仰ぐように。

「ごらん、グロールフィンデル。星が、きれいだ。
あの星々の瞬きが、失われる事はない。永遠に。
星は、永遠に輝き続ける。今日のキミはおかしいよ。
何がキミを不安にさせるんだ?」

 指を絡めたまま、星を仰ぎ、グロールフィンデルは夜風をいっぱいに吸い込む。

 

 崩壊する事のない、未来。

 

「・・・あなたを・・・失いたくない」

 吐息のように零れた言葉に、エクセリオンはグロールフィンデルを抱き寄せた。

「私が、キミを離すはずがないない。そうだろう? 
私たちは、一対の翼なのだから。
この国が、世界が、滅びぬ限り、私はキミを離すことはない」

 冷たい彼の肌を頬に感じながら、グロールフィンデルはそっと頷いた。

 

 再び目を開いた時、夜は明けていた。

 

 また、うたた寝をしていたのだろうか。
明るい陽の光が、燦々と降り注いでいる。
風が、温かい。青い空が、どこまでも続いている。

 見慣れた風景。居慣れた場所。

 噴水のほとりで、ぼんやりと水しぶきを見上げている。
銀色のしぶきが、陽の光を受けて七色に輝く。

「エアレンディル様に、お子様が生まれたよ」

 背後からの声に、驚きもしない。
彼の声は、グロールフィンデルの分身の声だ。
そこにいることが当たり前で、常に耳もとにある。

「双子だそうだ」

「それはめでたいな」

 高く舞い上がっては落ちていく水玉を目で追いながら、そう言う。

「会いに行かないかい?」

「もちろん」

 清涼な水の匂いを鼻腔で感じながら、
グロールフィンデルは振り向いて微笑んだ。

 滑るように足を運び、宮廷に入る。

 大理石で作られた宮廷は、壮健だが、ひんやりとしている。
陽の光が遮断され、薄暗い。

 ここは、こんなに暗かったか?

 そう思い、思いを口にする。
隣を歩いていたエクセリオンは、クスリと鼻で笑った。

「明るい陽の下に長い時間いたから、そう感じるんだよ。
外気も遮断されるから、空気も冷たいしね。
赤ん坊には、陽の光は強すぎる。キミも御子を授かればわかるよ」

 グロールフィンデルの唇の端が、ヒクリと引きつる。

「私に、結婚をしろと?」

「うん。そうなったら、きっと私は嫉妬で狂ってしまうね」

 足を止め、隣のエクセリオンを見つめる。
エクセリオンは、冗談だよというように眉を上げ、
グロールフィンデルを見つめ返す。

「キミは、私のものだよ、グロールフィンデル。
生まれ出でる前から。肉体が滅ぶまで」

 冷たい空気に、息が詰まる。

「永遠に、私たちは、一緒だ」

 永遠に。

 永遠の未来。

 小さくため息をついて、グロールフィンデルは目を細めた。

「あなたをなくして、私は生きていけない。
私の未来は、あなたの未来と重なっている」

 右手をそっと、エクセリオンの胸に当てる。
エクセリオンも同じように、右手をグロールフィンデルの胸に当てた。

「誓うよ、グロールフィンデル。私はずっと、キミと一緒だ」

 そっと右手を引き戻し、エクセリオンは一番近いドアをそっと開けた。

 ふわっと流れ出てきたのは、幼子の無邪気な笑い声だった。

 グロールフィンデルが先になって、部屋に入る。
大きな窓。天蓋つきのベッド。木や布でできた子供の玩具。
甘い菓子の匂い。

 子供の笑い声は、繁栄の象徴。

 そこには、幼い黒髪の子供が二人いた。
二人は頭をくっつけて、床に木の枝を並べている。
どうやらそれは、子供の家族や近親者らしい。
これはお母様、これはお父様・・・などと名前をつけては、
楽しそうにきゃっきゃと声を立てる。

「違うよ、エルロンド。お父様はもっと大きいもの。
こっちの方がいいよ」

「でもさ、エルロス、こっちの方が立派だもの。
こっちの方がお父様だよ」

 他愛もない口論に、グロールフィンデルの口元もほころぶ。
そのかすかな声に、二人の少年は振り向いた。
驚いたようにグロールフィンデルを見て、
怯えるように二人はぎゅっと手を握り合う。

 脅かしてしまったか。
グロールフィンデルは深々と頭を垂れ、片手を胸に当てて自己紹介をした。
ぎゅっと手を握り合ったまま、二人の少年はグロールフィンデルに歩み寄る。

「金華家のグロールフィンデル?」

「はい」

 片膝をついて、幼子と視線を合わせる。
どちらがエルロンドで、どちらがエルロスなのだろう。
二人ともそっくりだ。

「グロールフィンデル」

 口を開いている方のこの少年。こちらがエルロンドだ。
グロールフィンデルは、そう直感した。なぜか、それは正しいと思えた。

「グロールフィンデル」

 少年は、何度もその名を口に出し、戸惑うように眉を寄せる。

 そして、

 子供らしからぬ悲しげな表情になった。

「グロールフィンデル、覚めない夢、って、あると思う?」

 とたんに、グロールフィンデルの全身が凍りつく。

 

 崩壊の、予兆。

 

 全身が小刻みに震え、瞬時に声が出せない。

 エルロンドは兄弟の手をしっかりと握ったまま、
じっとグロールフィンデルを見つめている。

 震える唇で、やっと、搾り出すようにグロールフィンデルは声を出した。

「・・・・・あります」

 覚めない夢。

「覚めない夢は、あります。でもそれは、死、です」

「エルフは、死なない」

「ええ、エルロンド。エルフは死にません。
ですから、夢を見るのです。
肉体を置き去りにして、心を閉じ、夢の中に入ってしまうのです」

 

 崩壊する、未来。

 

 世界が、崩れていく。

 暖かい空気に包まれた部屋が、ひんやりと気温を落していく。

「夢を見ることは、幸せなの?」

「それは・・・・・・」

 世界が、崩れていく音がする。

 ここには、小鳥のさえずりもない。
子供の笑い声も、ダンスをする女たちも、楽器を奏でる楽団もいない。
木の葉は枯れ落ち、泉は干上がる。

「夢の外は、絶望しかないの?」

 エルロンドが手を握っていた兄弟、
同じ顔をした少年が、色あせ、砂粒になってさらさらと崩れ落ちた。
それでも、エルロンドはその名残を抱きしめるように、手を握り続ける。

「おしえて、グロールフィンデル。
覚めない夢を見続けることは、罪なの? 
夢から覚めたら、絶望しかないの?」

 グロールフィンデルは、心臓の半分が溶けて流れ落ちる気がした。
心の半分が、崩れて消える。

 振り向かなくても、わかっていた。

 もうそこに、エクセリオンの姿がないことを。

「いいえ・・・・・」

 こみ上げてくるものは、悲しみ。涙を喉元で飲み込む。

 代わりに、エルロンドが涙を流す。

 あの泉の水滴のような、銀色の涙。

「いいえ、エルロンド。希望は、あります。いつだって・・・・」

 とめどなく涙を零しながら、エルロンドは唇をゆがめて笑った。

「無駄だよ。だって」

 少年は、絶望の淵から這い上がってきたような、ぼろぼろの青年の姿になっていた。

「私の手は、もう、こんなに汚れてしまった」

 見下ろすと、エルロンドの手は、血塗られていた。
赤黒い血が、指先からぽたぽたと滴る。

 ああ、エルロンド。

 グロールフィンデルは、エルロンドの手を取り、そこに口づけた。

 かわいそうなエルロンド。

 その手は、黄金の花束を差し出す代わりに、血塗られた剣を差し出す。

 かわいそうなエルロンド。

 笑いながら数える家族は、もういない。

「私があなたを守ります」

「でも、グロールフィンデル、あなたは覚めない夢の中にいる」

「・・・・いいえ、いいえ、エルロンド。
あなたが、私にたった一つ残された、希望なのです」

 全てを失っても。

 死ぬより辛い生を歩む事になっても。

「あなたには、やがてあなたの希望が生まれるでしょう」

 エルロンドの手を握るグロールフィンデルに、
砂粒を握り締めていた方の手をそっと重ねる。

「夢から、覚めてくれる?」

 深く深く息を吐き、グロールフィンデルは立ち上がった。 

 

 世界が、崩れ去る。

 

 信じていた、未来。

 

 望んでいた、世界。

 

 舞台の幕を下ろすように、

 砂城が崩れるように、

 世界が、崩壊する。

 

 グロールフィンデルはエルロンドの手を握ったまま、目を閉じた。

 

 

 

 再び目を開いた時、そこは薄暗い闇の中だった。

 空気はひんやりと湿っている。

 オレンジ色の明かりが、目の端に映る。
何本ものろうそくが、蜀台の上で揺らぐ炎を灯している。

「戻ってきたか」

 聞き慣れた声に、グロールフィンデルはと息を漏らした。

 崩壊した未来の先に、

 戻ってきた。

 寝台の上で、ゆっくりと体を起こす。
握ったままでいた指を、そっと広げる。
と、その中にあったものが、するりと抜け出した。

 エルロンドの指だ。

「私は・・・長い間、眠っていたのですか」

「三日」

 落ち着いた声で、そう呟く。

「もう、戻らないかと思った」

 その声色に、生気はない。淡々としている。

「申し訳、ありません」

 エルロンドは、軽く頭を振る。

「ひどい怪我をしていた。お前らしくない」

 記憶を遡る。ゴラムという者の探査に出た。
オークどもに遭い、戦闘になり・・・・。

「・・・エステルは?」

「無事だ。灰色の魔法使いと行動を共にしている」

 そうですか、と呟く。

「ロスロリアンからの使いが来ている。私は上にあがっている」

 そう言って、エルロンドは部屋の片隅の階段を上っていった。
ここは、地下室だ。エルロンドのごく個人的な。
さまざまな薬草の調合、それらを記した書物。古いエルフの記録。
谷の来客たちが目にする事はない。

(なぜ、地下室に?)

 怪我人の治療は、基本的に風通しのよい専用の部屋を用いる。

(お前が、目覚めないかと思ったからだ)

 もし目覚めなければ、人目のつかぬここに、置いておこうと。

 エルロンドの思念が、そう伝える。

「私のすべきことは、まだ終っていません」

 そう言って、グロールフィンデルは立ち上がった。

 薬草や薬品が無造作に置かれている机に歩み寄り、
そこに置いてある小さな鏡を覗き込む。
エルロンドの、奥方の持ち物だった。
今は、地下の薄暗い部屋に置かれている。
この部屋は、エルロンドが感傷に浸る場所でもあった。

 鏡の中に、銀色の髪の男が見える。

(私は、ここだよ)

 鏡の向こうの男が、微笑む。

「まだ私は、そこには行けない」

 涙のように、言葉が零れる。

(待っている)

 そう唇を動かして、銀色の髪の男は、グロールフィンデル自身の顔に変わった。

 鏡を覗くのをやめ、グロールフィンデルは階上に向かう階段に足を運ぶ。

 

 崩壊した未来。

 

 しかし、ここから先の未来は、まだ救えるかもしれない。