敗北の戦いから宮殿に戻ると、グロールフィンデルは浴槽に香りの良い花を浮べ、
甲冑を脱捨て身を沈めた。

 戦場から戻ると、いつもそうやって心の乱れを静めた。

 たぶん自分は、戦場が好きではないのだろう。

 なのに、常に戦場に身を置くのは……ひとえにこの国を愛しているから。
領主を敬愛しているから。国と国民を守りたいと切に願っているから。

 そして、隣に友がいるから。

 ゴンドリンは美しい。自分は、この国を守る貴族。誇り高き貴族。
その実力は、ゴンドリンの双璧と呼ばれる。

 双璧。

 決して、負けてはならぬのだ。

(敗北)

 薔薇の花を両手ですくい、鼻腔を近づけて瞳を閉じる。

 あってはならぬこと。

(だが………まだ国が存続し続ける限り………)

 希望はある。

 

 終焉の予感。

 

 希望はある。

 ………希望だと?

 どのような希望だというのか?

 モルゴスを滅ぼすと言う希望なのか?

 それとも、国が存続し続けるという希望なのか?

 

 永遠の命に見合うだけの長き間………

 

 おもむろに視線を上げると、浴槽の縁に友が座り、
両膝に落した両手をじっと凝視している。

 敗北と言う言葉は、自分より彼の肩に重くのしかかっている。
彼はプライドが高く、そんな彼の友でいることがグロールフィンデルの誇りでもあった。

 そんな彼に、慰めの言葉などない。否、言葉の慰めなど侮辱になるだけだ。

 わかっているからこそ、グロールフィンデルは黙したまま天井を見上げた。

 花の香りに包まれ、グロールフィンデルは己の心を落着けることに専念する。

 不意に白い手がのびてきて、グロールフィンデルの目の前の花をすくい、
片手で器用に花弁を散らす。

 赤い花びらが、水面に散る。

 もう一輪、また一輪。

 三つ目の花を手にした時、グロールフィンデルはその指をそっと握った。

「エクセリオン………」

 わずかに青ざめたその表情を覗き込み、
グロールフィンデルは身を起してその唇に唇を重ねた。

 冷たい、透明感のある感触。彼の名のとおり、清涼な水のように。

 視線を合わせ、彼の瞳を見つめる。氷のように冷たく澄んだ瞳の奥に、たぎる炎。

 エクセリオンはグロールフィンデルの頬を片手で包み、激しく唇を吸った。
息もできぬほどの口づけを、花弁がその内を包み込むように受け入れる。

 花が水を欲するように、自分にとって彼はなくてはならぬ存在なのだ。

 水滴を滴らせながら浴槽から立ち上がると、
指を絡めたままベッドまで行き、そこで激しく抱きあった。
背中が折れるほど強く両腕を回し、何度も深く唇を重ねる。

 

 不安。

 

 記憶にないほど昔から、彼とは愛し合ってきた。
時にはベッドで冗談を言い合い、談笑し、浅い眠りを楽しむ。
お互いの髪を指に絡め、それを弄びながら長く長く語らいあった。
時には衝突する時もある。ゴンドリンを守る双璧として、意見の食違いもあった。
門番である彼と、長く会えない時もあった。

 それでも、ふたりはひとつなのだと、常に感じている。

 欠けてはならぬ両翼。

 常にお互いの存在を感じ続ける。

 常にお互いの存在を求め続ける。

 ふたりはひとつなのだという確信。

 

 素肌を弄り、密着させ、やがてエクセリオンはグロールフィンデルの体内に侵入してきた。
それには何の抵抗感もなく、心だけではなく肉体もひとつになれるという喜び。

 彼に突上げられながら、グロールフィンデルは薔薇の香りの吐息を漏らした。

 

 不安。

 

 それは、自分のもつ不安なのか、彼のもつものなのか。

 繋がりあった感情は、どちらのともつかず、ひとつの感情に押し流される。

 声に発する必要などない。

 ひとつの感情を共有する。

 戦場での出来事を反芻し、見聞きしたことを繰り返す。
そうしながらも、唇は絶えずお互いの名前を呼び合った。

 繋がりあったひとつの生物は、高みを目指す。

 肉体の高揚は精神を支配し、何もない真白な光の世界へ誘う。

「…エクセリオン………!」

 薔薇の花びらのようなグロールフィンデルの唇が、愛しい友の名を呼び、
体内の彼の肉体をきつく締上げる。

 そして、ふたりは精神の開放を味わった。

 

 彼が体内から引き抜かれる時、グロールフィンデルは名残惜しさを感じ、一瞬引き止めた。
同じ思いを抱いていたのか、エクセリオンもそれに応える。

「この肉体が存在し続ける限り、共にありたいと願っている」

 そう呟いたグロールフィンデルの唇に、エクセリオンはわずかな微笑みを見せた。

「………酷い顔だ。グロールフィンデル、やつれているぞ」

 視線を合わせ、そう言ったエクセリオンに、グロールフィンデルは目をむいた。

「誰のせいだ? 戦場から戻ったばかりで情交を強要されて。やつれもする」

 唇をつりあげ、クックとエクセリオンは笑った。

「ほう、そうかい? まだ私を咥え込んだまま、抜かせないのは誰だ?」

 言うなり、エクセリオンは抜きかけていたものを一気に押しこんだ。
グロールフィンデルが短い悲鳴をあげる。
そのまま何度か突上げると、グロールフィンデルは頬を染め瞳を半ば閉じたまま、
エクセリオンの腕を強く掴んだ。

 敗北。だが、お互いのどちらも欠けなかった事、それは救いではないのか。

「………ゴンドリンが存在し続ける限り、われらは存在し続ける。
この肉体の滅びる時、それは国が滅びる時だ」

 あえて言葉を口に出すエクセリオンは、不安を克服したのか。

 違うな。

 あえて言葉で確認したいのだ。

 グロールフィンデルが、共にありたいという願いを、あえて言葉にしたように。

 よりいっそう深くまで入り込んでくる彼を、
グロールフィンデルはしっかりと包み込んでいた。

 放す事はあるまい。

 なにがあっても。

 何度か肉体が欲望を吐き出し、その分だけ満たされると、
そっとエクセリオンはグロールフィンデルの内部から抜け出した。

「希望は、ある」

 誰にともなく呟いたエクセリオンの視線は、
過去のものとなった戦ではなく、未来を見据えていた。

「………私の美しい華が咲誇る限り、私は私の全てを注ぎ続けよう」

 唇をつりあげるエクセリオンの頬を、グロールフィンデルがそっと撫でる。

「この華を散らすのは、私だけだ」

「誰にも散らせはせぬ。君にもね」

 グロールフィンデルは微笑もうとして、頬を強張らせた。
そんなグロールフィンデルを、エクセリオンは乱暴に抱き寄せ、ぎゅっと胸に押付ける。

「笑え。グロールフィンデル。己の弱さを克服するのだ。私はここにいる。
お前が存在するかぎり、存在し続ける。笑え。お前の存在が、私を存在させているのだから」

 ギリっと歯を食いしばり、息を吸いこんでグロールフィンデルは顔を上げた。

 光と影、なのだ。

 自分がこんなにも不安なのは、彼もまた、不安に苛まれているからだ。

 自分は、影、なのだ。

 強い彼の、影。

 ゆっくりと息を吐きながら、グロールフィンデルは笑んで見せた。

「………もう一度湯に入ろう。髪が乱れた」

「時間はないぞ? トゥアゴン殿が召集をかけている」

 ベッドから降りながらグロールフィンデルが苦笑する。

「このままの姿で会議には出られない」

「そうだな。華の蜜の香りに蜂どもに寄ってこられても困る」

「その蜂を片っ端から切り捨てられるのも困るからな。半時ほど遅れると伝えておいてくれ」

 エクセリオンは己の髪を手櫛で整え、衣に袖を通した。

「私の心配はしてくれぬのか?」

「君を襲うなど大それたこと、誰ができるんだ?」

 エクセリオンも苦笑し、肩をすくめて出て行った。

 それを見送ったあと、グロールフィンデルは浴槽に腰掛け、水面に映る自分の姿を見る。

 

 大丈夫。

 不安の色など、隠しとおせる。

 

 もう一度湯につかる気など、さらさらなかった。彼の体温を消し去るなど、論外だ。

 特に死線から戻った今、彼の確かな存在感は心の平穏を保つために必要だった。

 水面に映る自分に、微笑みかける。

 

 大丈夫だ。

 まだ、大丈夫だ。

 

 

 

 会議の場へと続く回廊をゆっくりと歩いていると、
柱の影、落ち行く陽光の影に人物を見つける。
正装をし、髪を結上げたグロールフィンデルは、その人影にそっと近寄り、
片手を胸に当てて頭を下げた。

「………お父様が…無事に戻られたこと、それだけでも喜ばなければなりませんね」

 聡明なイドリル嬢。

 グロールフィンデルは片膝を落し、跪くと、右手を差出し、そっと指を開いた。
手品のように、そこに金色の花が乗っている。
イドリルは両手で花を受取ると、そのかぐわしい香りに頬をほころばせた。

「希望は常にレディの胸の中に」

 微笑んでみせるグロールフィンデルに、イドリルの瞳が細まる。
高貴な彼の笑みは、心を休ませてくれる。

「グロールフィンデル………あなたの言葉を信じます。
お父様と他の貴族の方達がお待ちです」

 もう一度頭を下げると、グロールフィンデルは会議の場へと足を進めた。

 

 そこでは領主トゥアゴンを中心に、貴族達が円卓を囲んでいた。

 トゥアゴンの両脇を固めるのは、エクセリオンとグロールフィンデルである。
グロールフィンデルは空いている己の席に座った。
その際、トゥアゴンに視線で挨拶をする。
エクセリオンは前を凝視したままで、ちらともふり向かない。

「悠長なものだ。金華公殿はこのような時でも花摘みを楽しんでいたと見られる」

 このような場での暴言は珍しい。
だが、ニアナイス・アルノディアドの敗北の帰還で皆気が立っているのだろう。

「いかにも」

 グロールフィンデルは笑みを返した。

「このような時であるからこそ、平静を保ち、ゴンドリンの栄華を誇示する必要がある。
そうではないか?」

 暴言の主は苦虫を噛んだように表情をゆがめた。

「ゴンドリンの繁栄を守るのが我らの役目。一度の敗北で平常を乱してはならぬ。
国民の繁栄を促し、守りを強固にする。それが我らのするべきことではあるまいか」

 肯定を求めるようにトゥアゴンを見やる。領主はこくりと頷いた。
その隣のエクセリオンは、冷静を保っている。

「遅れたことは謝罪します。どうぞ会議を進めてください」

 グロールフィンデルの晴れやかな笑みに、一同は漂う緊張感を和らげた。

 

 

 

 会議が解散した後、
トゥアゴンはエクセリオンと共に宮殿の高いところにあるポーチから街を見下ろした。

「憎まれ役を押付けてしまったな」

 グロールフィンデルのことである。エクセリオンは苦笑した。

「それがあれの役割ゆえ」

 常に冷静なエクセリオンとは対照的に、グロールフィンデルは感情的で饒舌で、
それゆえ国民の信頼も厚い。

「………して、グロールフィンデルはいずこに?」

「ご婦人方のお相手をしておりましょう。
このような時だからこそ、あれは街に降り、民との交流を重んじます」

 そうだな。と、トゥアゴンは呟いた。

 貴重な存在だ。彼の魅力は、あらゆる者たちを惹きつける。

「で、エクセリオン、そなたはどう思うのだ?」

 街の中央の噴水を眺めながら、エクセリオンは思いをめぐらせた。
この敗北に、意味があるのだろうか。

「フオル殿の予見を信じます。
もしこの敗北に意味があるのだとしたら、あの予見を成就するためなのではなかろうかと」

 エクセリオンを見つめていたトゥアゴンは、視線を街に、彼方の山脈に移した。

 エルフと人間の望みが生れるであろう………。この国が倒れずにあれば。

「………そうだな。そう信じたい」

 不意にエクセリオンは、胸に手を当て、空を見上げた。

 

 その望みに付従うのは、自分ではなくグロールフィンデルだろう。

 その時、彼は悲しむだろうか。

 己の運命を嘆くだろうか。

 

 予見とも思えるそんな感情に、エクセリオンは戸惑いを覚えた。

 永遠に隣に立つことなど、できぬのであろうか。

 いつか、引裂かれる運命になるのであろうか。

「今は」

 エクセリオンはトゥアゴンを見つめ、
めったに見せない(グロールフィンデル以外には、だ)笑みを見せた。

「グロールフィンデルの言うとおり、この栄華を保つ努力をいたしましょう」

 トゥアゴンは、力強く、賢者の眼差しで頷いた。

 

 

 

  木の葉に風が まつわるように

  光に影が よりそうように

  いつでも そばにいた

  どんな時も ふたり

 

  ふたりでひとつの 心を持った

  ふたりでひとつの 生き物のように

  たがいを 守りあい

  悲しみを わけあい

 

  それがあたりまえのように

  時は静かに

  みどり光る山の上を

  流れて 流れすぎた

 

  夜霧が草と たわむれるように

  大地が空と 溶けあうように

  いつでも そばにいた

  ふたり あの日まで

 

谷山 浩子「ふたり」