闇の森のエルフ王は、小さき人ビルボと別れ、宮殿に帰ってきた。

 ホビットという種族には、つくづく感心させられる。
その気転と、勇気と、強さに。

 この戦いで得たものは大きいと思う。

 それは、ドワーフたちとの和解と、人間たちとの信頼関係。
そして、ホビットとの友情。

 それは、闇に囚われたこの森のエルフたちにとって、意味のあることだ。

 

 住処へと戻ってきた森のエルフたちは、早々に祝杯の用意を始めた。
なにより宴の好きな連中だ。王が、そうさせてきた。

 数あるエルフたちの中でも、
この闇の森の王は他の領地を構えるエルフの首領たちと違い、
強力な力を持たない。

 ノルドに侵略され、この森に逃げ延びてきたシンダール族の一派。
たまたまそれを指揮してきたのがスランドゥイルの父であり、
その彼もまた「上のエルフ」というわけでもなかった。

「臆病なくらいがちょうどいい」

 後にスランドゥイルは息子に苦笑しながら語った。

 臆病だったから、ノルドに立ち向かうことをしなかった。

 臆病だったから、森へ逃げた。

 臆病だったから、今ここに存在している。

「いいえ、父上は勇敢です」

 王子は真剣な面持ちで訴えたが、王は口元を歪めた。

 臆病だから、ノルドの手から逃れ、森に隠れ、
世界を憂いでいながらも宴を催し、
闇に犯される恐怖から気持ちを切り離している。

 恐ろしいのはドラゴンなどではない。

 ドラゴンなど、恐ろしくはない。

 本当の恐怖を、王は知っている。

 

 モルドールでの戦いを。

 

 王は力を持たない。

 スランドゥイル王は、それを自負してきた。

 己は、力を持たない。

 森の闇を止められない。

 止められないのだ。

 

 宴の支度をする国民たちを残し、スランドゥイルは宮殿を出た。

 高揚感は消えていた。

 この不安は、何なのだろう?

 胸のわだかまりを悟られぬためにも、
スランドゥイルは他の者たちと顔を合わせないようにして、
川のほとりまで出た。

 スマウグの宝は、確かに魅力的なものだ。
だが、兵を率いてまで自分を動かしたものは、
その宝への魅力だけだったか。

 なにか言い知れぬものに突き動かされたのではないか。

 その結果、あの大きな戦いへと導かれたのではないか。

 あのゴブリンたちとの戦いの意味は?

 ガンダルフたちの「白の会議」から、
奴らの目を誤魔化すためではなかったか。

 無意識のうちに、闇の森の兵たちは利用されたのではないか。

 たしかにゴブリンたちの存在は恐怖であったが、
ここまで大きな戦いを仕掛けてくる連中ではなかった。

 彼らもまた、何かに突き動かされていたのではないか。

 だとしたら・・・・

「時は迫りつつあると言うことか」

 王は水面にひとりごちた。

 

 ならばこの不安は、

 恐怖、

 だ。

 

 一人たたずむスランドゥイルは、
足元に金色の花びらが一片舞い落ちてくるのを目にした。

「!」

 この森では目にすることのない、黄金の花びら。

 光り輝く・・・・。

 スランドゥイルの背に、冷たいものが流れ落ちる。

 これは、恐怖、ではない。

 畏怖、だ。

 エルフの血に刻み込まれた、畏怖。

 ゆっくりと振り返る。

 どこから現れたのか、金色の花びらが宙に舞っている。

「・・・・・・」

 その部分、スランドゥイルからほんの数歩離れた場所、
そこに黄金の花びらがくるくると舞い踊り、
やがてヒトの姿を形作っていった。

 目を見開いたまま、スランドゥイルは動けない。
跪こうとする足を、必死な思いで伸ばす。

 黄金の花びらは、
同じ黄金の光をまとった一人のエルフへと姿を変えた。

(降臨)

 その言葉が当てはまる。
さっきまで何もなかった場所に、黄金の髪をした、
背の高い、美しいエルフが立っている。
スランドゥイルを見下ろしている。

『そなたの見出したものを差し出しなさい』

 ゆっくりと、そのエルフは唇を動かした。
それでも口からしゃべっているのではない。
スランドゥイルの心に、直接話しかけてきている。

『先の戦いで、そなたが見出したものを』

「スマウグの宝のことか?」

 一筋、冷や汗が額をつたう。
スランドゥイルはそれでも無理矢理口元を吊り上げて見せた。

『金や銀や宝石のことではない。わかっておろう。
もっと大切なものだ』

 大切なもの?

 眉を寄せ、スランドゥイルは考えをめぐらせた。

 何が目的だ? いったい何を差し出せというのか?

「大切なものとは、新たな友情のことか。
そうだ、私は宝石などより大切なものを得た。
新たな友情だ。とくにホビットとの」

 風とは違う空気の圧力に、スランドゥイルは一瞬目を覆う。
奴は、苛立っている。

「貴様らが何を求めているのか、わしには見当がつかぬ。
他に価値のあるものとしたらアーケン石のことか。
それならトーリンと一緒に葬った」

『戯れもいい加減にしてもらおう』

 黄金のエルフが、ゆっくりと片手を挙げる。
その手が何かをする前に、一本の矢が空気を切り裂き、
花びらを飛散させた。

「王には指一本触れさせぬ!」

 少し離れた木の枝の上からその矢は放たれた。
恐ろしい呪縛から解けたように、スランドゥイルがそちらを向く。

「レゴラス!」

 弓を持ったまだ若いエルフは、ひらりと地面に舞い降りると、
王に駆け寄った。

『闇の森の王子は、恐れを知らぬと見える』

 散らばった花びらは、またひとつの形に戻っていた。
そして再び片手を掲げた。

 瞬間、スランドゥイルはレゴラスを抱き寄せ、
その頭を抱えるようにして黄金のエルフに背を向ける。
目を焼くほどの光がスランドゥイルを包み込む。
そしてそれはすぐに消えた。

「立ち去られよ。わしは貴様らが期待しているようなことは何も知らぬ。
わしには力がなく、予見の力を持たぬ。
わしの森から去られよ! 
わしはわしが必要と感じたとき、貴様らの招集にも応じよう。
今はまだそのときではない」

『愚かなる闇の森の王。そなたの向かう先は、真の闇。破滅』

「わしはたとえ闇に飲み込まれようと、
貴様らにひれ伏すことはない!」

『愚かなる闇の森の王。それでも我が主の慈悲は深い。
早急に我が谷を訪れよ。時が満ち、全てが手遅れになる前に』

 冷たい風が渦を巻いて花びらを散らす。

 スランドゥイルは王子を抱きしめたまま、目を細め、花びらの行方を追った。
それは、細かな黄金の粒となり、朝もやのように大気の中に消えていった。

 目に見えぬプレッシャーから開放され、
スランドゥイルが大きくため息をつく。
緊張していた筋肉が弛緩し、崩れ落ちそうになる。
それを必死にこらえ、腕の中の王子を見やった。

 レゴラスは、ぼんやりと瞳を開いたまま、
スランドゥイルの腕の中でぐったりとしている。

「レゴラス」

 名前を呼んで、そっと揺さぶる。

 反応はない。

「レゴラス!」

 片手で頬を叩いてみるが、やはり微動だにしない。

「チッ」

 潰れそうな思いで舌打ちをする。

 レゴラスはこの森で生まれた。
シンダールであるスランドゥイルと森のエルフ、シルヴァンの子供。
力ある上のエルフに触れたこともない。
ゆえに影響を受けやすいのだろう。あまりに純朴であるが故。

 スランドゥイルは息子を抱き上げ、王宮に足を向けた。

 

 宴の仕度に慌しい者達の目に入らないように、
そっと寝室に入り、ベッドに寝かせる。

 エルフとは、精神的な要素の強い存在である。
悲しみがあまりに強いと、肉体を置いて魂を旅立たせてしまう。
スランドゥイルの妻、レゴラスの母がそうであったように。

 もし息子までもが奪われてしまったら、自分とてここに存在する自信がない。

「心を強く持て」

 息子には、常にそう諭してきた。

 肉体を鍛え、腕を磨き、心を強く保ち続けろ、と。

 父王の望みどおり、レゴラスは己を鍛え、弓の腕とてこの森で1番。
恐れを知らず、どんな敵にも怯まず立ち向かっていく。

 相手がゴブリンやトロルなら、それでいい。

 だが今回は、相手が悪かった。

 レゴラスはまだ知らぬのだ。

 同属の恐ろしさを。

 深い眠りに落ちる息子の傍らに跪き、
その手を握ってレゴラスの心の居場所を探る。

 自分にもっと力があったら。

「クソッ」

 悪態をついて、目を閉じる。

(レゴラス・・・どこにいる? 戻って来い)

 どれくらいそうしていたのだろう。
スランドゥイルが絶望を感じ始めた頃、ふと気配を感じて窓を見た。
天井に近いところにある小さな窓は、明り取りのためのものだ。
そこに、一羽のツグミがとまっている。

「?!」

 スランドゥイルと視線が合うと、ツグミは舞い降りてきて、床に立った。

 文字通り、立ったのだ。

 銀色の髪をした、優しげな男の姿をして。

「・・・・・あんたは・・・・」

 スランドゥイルは息を呑み、眉を寄せた。

『グロールフィンデルもひどいことをする』

 慈悲深き表情で、すべるようにその男はレゴラスのそばに寄ると、
そっと片手を出して額に当てた。

 スランドゥイルは、身を引いてその男に場所を譲る。

『大丈夫だ。すぐに戻って来られよう。少し道に迷っているだけだから』

「なぜ・・・ここへ?」

『妻が強い力を感じた。それをたどったら、この森に来た。
エルロンドは優しいが、グロールフィンデルは厳しい。
スランドゥイル、そなたの強い願いを感じた。
そなたの光が迷い子になっていると』

「礼など言わぬぞ」

『必要ない。そなたには借りがあるのでな』

「そんなものもない」

 その男は悲しげに笑んだ。

『さあ、帰っておいで、レゴラス』

 水面に水滴を落すように、眠る王子に言葉を落す。
すると、レゴラスの瞳に光が宿った。

 スランドゥイルは、深く安堵のため息をついた。

(・・・・ケレボルン、わしはまだロスロリアンと和解するつもりはない)

(かまわないよ。しかしな、エルロンドのことは信じてやってくれ)

(こんなことをされてか?)

(これはエルロンドの意思ではない。
いやむしろ、グロールフィンデルの意思でさえないだろう。
たぶん、グロールフィンデルも王子が自分の力に
引きずられるとは思っていなかっただろうから)

(勝手なことを)

(彼らはね、シルヴァンのことはよく知らないのだよ)

「・・・・・・・父上・・・?」

 擦れた声がスランドゥイルを呼び、
スランドゥイルは精神の集中を解いて息子を覗き込んだ。

「誰かと・・・話を・・・?」

「不法侵入のツグミに、
今すぐ退去せねば牢に入れると脅しをしていたところだ」

 けだるげにゆっくりと頭を回したレゴラスは、
スランドゥイルの肩にとまったツグミを見て、にっこりと微笑んだ。

「・・・夢を、見ていました。美しい草原で、
金色の花がたくさん咲いていて・・・ツグミが一羽。
後をついて行ったら、目が覚めました」

 つい先刻、森で何があったのか、記憶がないようだ。

 レゴラスは上体を起こして片手をツグミの方に向ける。
ツグミはレゴラスの指にとまり、美しい声でひと鳴きすると、
翼を広げて飛び立った。そのまま天窓から出て行く。

「父上が脅したりするから」

 冗談めかした非難の言葉を口にし、レゴラスは王を見つめて首を傾げる。

「ツグミに飲ませるワインなどない。のんびり昼寝などしているな。
宴が始まるぞ」

 そう言いながら片手を出す。
レゴラスはそれを握り、ベッドから起き上がった。

 父に触れていると、安心する。

 なんだかわからないもやもやした苛立ちか恐怖か、
そんなものが胸の一部に残っている。
あの黄金の花は、何だったのだろう? 見たことのない美しい花だった。

「父上」

 薄い霧のような不安を追い払うように、
レゴラスは父の手を握り、その青い瞳を覗き込んだ。

 スランドゥイルはふと微笑み、息子の額に口づけをする。

「ツグミを追い払ったのは、悪かった。
まあ、そのうちまた出会えるだろう」

「・・・はい」

 レゴラスもまた、若い無邪気な笑みを作った。

 

 若いレゴラスは、胸の奥で感じていた。

 自分は、旅立たねばならぬのだ。

 行かなければならない。

 まだ見ぬ、「谷」へ。