レゴラスは、竪琴を弾く手を止めた。

 

 王のお気に入りの部屋。

 ことさら明るく、ぶ厚い段通が敷かれ、その上に宝石をちりばめると、
まるで春の野のように輝く。

 王の許可なしには、何人も入ることが許されない。 

 ただ一人、レゴラスを除いて。

 

 膝の上の竪琴は、滑らかで、時の流れを知らない。

 王を愛した女性が(王の愛した女性が)、いつも奏でていた竪琴。

 それが今、レゴラスの手にある。

 

 持主がこの森を去っても、竪琴だけは残されてきた。

 きっと、

 これからもずっと。

 

 王が、この森を去る日まで。

 

 時々、スランドゥイルはこうやってコレクションを並べて愛でた。

 その中央に、愛する者を置いて。

 

 ずっと昔は、母だった。

 そして

 

 サイロスも。

 

 光り輝く、宝石のコレクションのひとつ。

 そんな扱いが嫌で、反抗したときもあった。

 自分は、物言わぬ宝石ではない。

 

 何故母も、サイロスも、

 まるで一粒の宝石のように並べられるのを、快く承諾していたのだろう。

 そんな風に、思った日もあった。

 

 今ならわかる。

 王の心の闇を、

 光り輝く宝石たちは、和ませてくれる。

 癒してくれる。

 

 緑色の宝石が、レゴラスの髪から零れ落ちる。
零れるままに、レゴラスは父を仰ぎ見た。

 栄華と敗北。

 光と闇。

 父は、どこか遠くを見つめている。

 父も、海の向うに、憧れるのだろうか。

「父上」

 それは、どうしても告白しなければならない。懺悔しなければならない。

「僕は・・・・父上とともに、この森で永遠を過すことはできません」

 父は、何を見ているのだろう?

 この森を去っていった、愛する妻か、信頼していた同胞か。
あるいは・・・志半ばに倒れた祖父、オロフェアか。皆、今は海の向うだ。

「父上への愛と忠誠は、生涯変ることはありません。それでも僕は・・・・・」

「運命がお前を導く」

 父の静かな声に、唇を結ぶ。

「シンゴルの直系の血を引くエルロンドが、ノルドの王に選ばれたのも、
ロスロリアンがガラドリエルによって統治されてしまったのも、
全ては運命のなせる業、なのだろう。抗うことはできない。
すべては、イルーヴァタールの思召し。なら、私はそれに従うまで」

 時々、父王の大きさに驚かされる。

(王は、そんなに心が狭くはないよ)

 サイロスは、王のよき理解者であった。

「だがな、レゴラス」

 王はゆっくりと振向き、憂いだ瞳をレゴラスに向けた。

「意に反して、お前の魂だけが海を渡ることを、私は許さぬ。
心と体が、ともにアマンを目指すのは致し方ないこと。
それは、エルフに流れる血の欲望だからだ」

 どこまで・・・・父は見抜いているのだろう。

 僕が、人間に心を許してしまったこと。
そこからうまれる大いなる失望に、いつか僕がアマンに憧れを持ってしまうだろうこと。

「お前は、シンダールの王子だ。いつか自分の民を率いるだろう。
お前がこの森を出て行くことに、失望はしない。ただ、お前の身を案するだけだ」

 レゴラスは視線を落し、また竪琴を撫でる。

 

 僕は、父を裏切ったことに、なりはしないだろうか?

 

「エルフは人間を魅了し、人間はエルフの運命を変える。
人間はエルフの永遠に、エルフは人間の情熱に惹かれる。・・・それでよいのだ」

「父上・・・・」

 あの日の夜明を、忘れない。

 うっすらと明けていく夜の闇。

 あれは、自分の心の闇ではなかったか。

 冷たい石の感触に、心を落ちつかせるのではなく、

 熱き情熱に、冷めた心を暖める。

 

 そんな悦楽。

 

 悲しみを、恐れない。

 苦痛に、迷わない。

 

 いつか、この森に光を取戻すまで。

 

「ガンダルフが言っていた。エルロンドはたいそうお前を評価しているらしいではないか」

 レゴラスは、父をまっすぐ見つめる。

「時代は動いている。お前がそう望むのなら、イムラドリスとの和解を、考えてもよい」

 自然と口元が緩み、レゴラスは希望に瞳を輝かせた。

「必要とあらば、人の王にも協力しよう」

「ありがとうございます!」

 王は静かに微笑み、息子の頬を撫でた。

「お前の考えていることは、わかりやすい」

 スランドゥイルはレゴラスを抱擁し、そして放した。

「行きなさい。己が信じるままに」

 レゴラスは立ち上がり、竪琴を王に手渡して、部屋を出て行った。

 

 

 

 スランドゥイルは、竪琴の弦を指ではじいた。

 美しき音色は、時の流れを知らない。

 壮大なドリアス、絢爛なメネグロス。
思いは時代を超え、かつての優雅な生活を髣髴させる。
荒廃した都を棄て去るとき、持ちだされた数少ない思い出の品。

 妻に送り、彼女の弟に手渡され、そして・・・・

「わが手に戻ってきたか」

 我はこの森を、見捨てはしない。

 

 たとえ、何を失っても。