宮殿の地下室の、最も深いところ。

 ガラスの棺が、ずっと並べられている。

 静かで、湿っぽく、ほんの僅かな明りしかない。

 

 ここは、墓所、だ。

 

 眠っているように横たわる、美しいエルフたちに、アラゴルンは胸を痛めた。

 

 新しい棺の傍らに、

 レゴラスは立ちすくむ。

 

 魂の去った同胞たちを、こんなに悼んでいるエルフを、見たことがない。

 彼らは死んだのではなく、魂がこの地から去っただけ。

 苦しみのないアマンに去りしことは、

 悲しみではないはず。

 

「すまない」

 アラゴルンは、呟いた。

「間に合わなかった・・・・。友人・・・だったのだろう?」

 谷間の国で、親しげに話していた二人を思い起す。

 他に誰もいない暗い部屋で、レゴラスはずっと頭を垂れていた。

「サイロスは」

 透明な声が、岩の壁に反射する。

「純粋なシルヴァン・エルフであった母の弟で、僕の教育係だった。
歌と竪琴、光について、森について、風について・・・・全て彼から教わった。
サイロスは、武器なんか扱えなかったんだ。
だから・・・森の外には、連れて行きたくなかった」

 悲しみに満ちた声色は、アラゴルンの肩にずっしりとのしかかる。

「戦うことを知らないシルヴァンエルフにとって・・・
欲望と血に汚されたシンダールの民は、厄災ではなかったか? 
この地にヴァラールの呪いを持ち込んだノルドールと、同罪ではなかったか? 
僕は・・・・サイロスに何をしてあげられただろう・・・・」

 流謫の民となったシンダールの生き残りを、快く迎え入れた森のエルフたち。
だから、オロフェアは武器を置き、ノルドールとの関係を間然に絶ち切った。

 本来あるべきエルフの姿を、ここで実現したがった。

「彼は・・・死んだわけではない。約束の地へと、運ばれただけだ」

 そんな慰めを、口にしてみる。

「自らの意思に反して、愛する森から連れ去られることは・・・・死と同じ意味を持つ。
スランドゥイルはそう言う。だって、約束の地がどんなところか、僕らは知らないもの」

 レゴラスは顔を上げた。

 あの、感情をしまい込んだ顔だ。

「行きましょう、ドゥナダン。別れの宴がはじまります」

 

 

 

 まるで死者を弔うような、悲しみに満ちた別れの宴。

 在りし日の同胞たちの栄誉を讃え、そして、心安らかなるアマンを歌う。

 スランドゥイルは、ドゥナダンであるアラゴルンを快く迎え、彼の協力に礼を述べた。
アラゴルンはスランドゥイル王に会うのははじめてであったが、
スランドゥイル王は彼を知っているはずである。ガンダルフが情報を持ち込むのだから。
しかし王は、そのことには一言も触れなかった。

 王の傍らで、王子が竪琴を奏でる。

 悲しい調。

「サイロス様の竪琴です」

 アラゴルンに給仕していた女性が教えてくれる。

「サイロス様ご姉弟は、王の寵愛を受けておりました。
レゴラス様とも、本当の兄弟のように仲がおよろしかったのですよ」

 淡い銀色の髪を持つその女性に、アラゴルンは目を向けた。
森の光に溶け込むような、日ざしの色の髪と空の色の瞳。

「貴女は・・・シルヴァンエルフ、ですか?」

 女性はにっこりと微笑んで見せた。そのはかなさは、裂け谷のエルフたちとは違う。
ロリアンの、輝く力を持ったエルフたちとも。触れれば、消えてなくなりそうだ。
スランドゥイルは、自ら光り輝く強さが感じられる。
だが、王が守ろうとする民は・・・・・なんと儚いことか。

「私どもは王を敬愛しております。オロフェア様やスランドゥイル様が
私たちを守ってくださらなければ、私たちは闇に飲まれて消えていたでしょう。
王は、私たちの誰もが、少しでも長くこの森に住まうことを望んでおいでです。
そのために、イムラドリスから嫌煙されていることは知っております。
そのことで、レゴラス様は幾度となく王と対立しておられましたから」

「では、王子の考えは異端なのですか?」

「いいえ」

 優しく微笑む女性の表情は、慈愛に満ちている。

「レゴラス様にはレゴラス様の愛し方がおありなのです。
あの方は、新しい道を切り開かれるお方です。
むしろ、オロフェア様に似ておいでなのかもしれません。
ですからよけいに・・・サイロス様はレゴラス様をお気にかけておられました。
レゴラス様が、森の外で傷つき悩むことに、胸を痛めておられました」

 アラゴルンは、竪琴を奏でるレゴラスを見た。

 頭の中で、ばらばらだった言葉が、しだいに意味をなしていく。
裂け谷の顧問たちに、どんなに非難されようと意思をまげなかったレゴラス。
それをかばうエルロンドは、事情を理解していたのだろう。
ただ頑なに見えた闇の森の王が、そうまでして守ろうとしているもの。
それぞれに、意味がある。

(僕は、君の所有物じゃない)

 そう言ったレゴラスの気持は?

 自分は、考えたことがあっただろうか。

 己の運命に翻弄されて、ただ優しさを与えてくれた彼に、
甘えていただけではなかったか?

 レゴラスは、逃げているのだと思っていた。
人間から熱く求められ、ただ逃げているのだと。

 レゴラスもまた、運命の輪の中でもがいているのではなかったか?

 自分はただ、一方的に愛されることを望んでいたのではないか?

 はたして・・・・・

(僕は・・・サイロスに何をしてあげられただろう・・・・)

 俺は、レゴラスに何をしてあげられるだろう?

 

 求めるだけのものは、ただの欲望で、愛じゃない。

 

 深い愛情の中で生まれ育ったレゴラス。

 彼は、その溢れる愛情を、多くの者に分け与えてきた。

 皆、等しく平等に。

 それに不満を感じていた自分は、ただの欲望の塊だ。

 彼を愛している多くの者は(サイロスという人物を含めて)、
彼の本当の幸せを願っていなかったか。

 彼を所有するのではなく。

 

 それでも・・・・・

 

(俺は、レゴラスが欲しい)

 

 彼の心を煩わせぬために、きっぱりと身を引くべきなのか。

 こんなに長い間、想い続けてきたのに。

 

(それでも俺は・・・・・・)

 

 

 

 

 悲しい調を奏でていた、レゴラスの指が止る。

「父上」

 囁くように、レゴラスは呟いた。

「退席の許可をいただいても、よろしいですか」

 王は、憂いだ瞳で息子を見た。

「あまりに多くの仲間を、この森から去らせてしまったことは、僕の未熟さゆえです。
悔んでも悔みきれません。心が落ちつくまで、夜風にあたりたく思います」

「レゴラス・・・・」

 王はそっと手をのばし、息子の髪に触れた。

「妻を失ったとき、わしも酷く自分を責めた。
だが、そんなことをしても何にもならん。後悔では先に進むことはできぬ。
お前はまだ、全てを失ったわけではない。
少しでもその胸に『希望』が残されているのなら、それを己のささえにしなさい。
・・・・宮殿を出る許可を与える。心ゆくまで、星明りの中を歩きなさい。
だが、忘れるな。お前を愛しているのはサイロスだけではない。
お前を必要としている、多くの者がいることを。
お前を深く愛している者がいることを」

 レゴラスは立ち上がり、胸に手を当て、広間を出て行った。

 それを見送った王は、客人であるアラゴルンに目を向けた。

「ドゥナダンよ」

 アラゴルンの胸が、一打ちする。

「貴公には感謝しておる。今一度、貴公の腕を見込んで頼まれてはくれぬか」

「なんなりと」

「今宵・・・どうかわが息子のそばにいてやってはくれぬか。
王子は深く傷ついており、わしらには慰めの言葉もない。
一人彷徨うには、夜の森は危険すぎる。こと、心を沈めてしまったエルフには」

 アラゴルンは目を見開いた。無防備にも感情を表に出してしまう。

「お言葉ですが、王よ、私は慰めの言葉など、もっておりませぬ。
長き間、戦いに身を置いてきました故」

 意味ありげに、スランドゥイルが目を細める。心を読まれる感覚。
ガラドリエルの面前に、引き出されたときのように。

 アラゴルンは、面を伏せることなく、王を見つめ返した。

 恐れるものは・・・何もない。

 彼を求める心に、偽りはない。

 そうだ。もう、決着をつける時だ。

 何者にも、偽ることなどない。

「・・・・熱く燃える目をしておるな。欲深き、人間の王の目だ」

 唇を結んだまま、アラゴルンは王の言葉を身に受ける。

「いや、貴公に荷が重過ぎると思われるのなら、よい。
ただ・・・わしも『希望(エステル)』を信じてみたくなっただけだ」

 懐かしい、名前。

 長い間、忘れていた気がする。

(エステル)

 そう呼んでくれた、彼の唇を忘れられない。

 

 願わくば、今一度・・・。

 

「失礼します」

 アラゴルンは、剣を持って立ち上がった。

「この命に代えても、王子はお守りいたしましょう」