さらに五年の月日が過ぎていった。

 アラゴルンは、ドゥネダインと行動を共にすることが多くなっていた。

 

 モルドールの力が増してきていることは、確かな事実だ。
霧ふり山脈から東は、どんよりとした暗雲の影が忍び寄っていた。

 ドゥネダインの情報で、エスガロスの商人がオークの一団に襲われる事件が
頻発していることをアラゴルンは耳にした。
冥王の復活で、悪しき種族が息巻いているのか、己の力を示そうとしているのか。
エスガロスは小さな街であったし、ローハンやゴンドールと大きなつながりを
持っているわけではなかった。つまり、そんな小さな街がオークにつぶされても、
どこかの国の軍隊が助けに出るはずもなく、また力あるエルロンドが立ち上がる事もない。
しいて言うなら、エルロンドの双子の息子たちがドゥネダインと協力して
オークの集団を探し出し、殲滅する程度だ。

「大規模な攻撃が予定されているわけではない。
我々にできるのは、せいぜいハエを追い払うこと」

 それがドゥネダインの決定でもあった。
ドゥネダインにとっても、エルロンドの率いるイムラドリスでも、
それよりもっと大きなことに目がいっており、
エスガロスに援軍を送るつもりは毛頭なかった。
そもそも、エスガロスからの救援要請さえない。

 それでも、アラゴルンはそのことに気をかけていた。
数を増したオークがエスガロスを本格的に襲えば、
その先にあるのはバインを王とする谷間の国。

 エルロンドがエスガロスに手を出さない本当の理由が、
もうひとつあることをアラゴルンは知っている。
エスガロスは、スランドゥイル率いる闇の森の王国と友好関係にあり、
スランドゥイルとエルロンドは、いまだ和解していない。
レゴラスが裂け谷を訪れなくなってからは、二つの国(二つの種族)の溝は、
決して埋ることはなかった。

 そんなわけで、アラゴルンは一人エスガロスへと偵察の旅に出た。
アラゴルンにはノルドールとシンダールの確執は関係ないし、
大きな国でも小さな国でも、そこに住まう人間は全て庇護すべき存在に思えていた。
そう思えることこそ、真の王としての素質であった。

 

 

 

 エスガロスは、アラゴルンが想像していた以上に平穏を保っていた。
それは案の定、スランドゥイルがエルフ軍を近くに駐留させていたためであった。

 安心して湖の街を出、西のドゥネダインと合流しようとしたとき、
ドゥネダインの斥候がアラゴルンの元に飛んできた。

「オークの軍隊が南に向っている。数はそれほどではないので、
ローハンの騎士団は追跡を止めた。狙いは早瀬川流域と思われる。
闇の森に使者を送るべきか判断して欲しい」

 アラゴルンは、当然知らせるべきと判断し、その役目を自ら荷った。

「では急がれた方がいい。もしかしたら、間に合わないかもしれない」

 スランドゥイルの軍隊は、それほど弱いものではない。

 

 だが、不意打を食らったら?

 それも、直接エルフの国を狙ったものではなく、人間の国を狙ったものであったら?

 

 危険なのは、エスガロスに駐留させているエルフ軍だ。

 アラゴルンは、急を知らせるために、馬を走らせた。

 

 

 

 それは、不意打であった。

 スランドゥイルの置いたエルフの軍は、野党を退治するには十分であったが、
軍となったオークを迎え撃つには不十分な数であった。

 そして、その軍を率いていたのは、レゴラスであった。

「一匹も逃すな! ここから先、オークを通してはならない!」

 レゴラスは叫び、自らも弓を引いた。

「サイロス、スランドゥイル王に援軍の要請を!」

 腹心の部下に命令を下す。

「道を空ける!!」

 たて続けに弓を引き、退路を設ける。サイロスは躊躇に一瞬足を止めた。
指揮官たる王子と、離れるのは本望ではない。

「行け! 援護する!」

 サイロスは頷き、自らも長剣を振りながら疾走した。その後から、レゴラスが弓を射る。

 

 不安は感じなかった。

 興奮と緊張に、頭の中が麻痺していただけ。

 恐怖など、ない。

 エルフとは、死なない種族なのだ。

 たとえ今、悪しき剣に倒れても、魂は約束された地に運ばれ、

 そしていつか再会する。

 

 後から現れたオークが、サイロスの行く手をふさいだ。
レゴラスは矢筒に手をやり、血の気が失せた。

 そこには、一本の矢も、残ってはいなかったのだ。

 何という失態!! 矢の数を数えていなかった!

「サイロス!」

 弓を投げすて、短剣を引きぬく。

 オークの剣をかわしながら、サイロスは振向き、叫んだ。

「来るなレゴラス! 指揮を取れ!!」

 その瞬間、

 

 オークの矢がサイロスの胸を貫いた。

 

 レゴラスの動きが、一瞬止る。

 ぐるりと、世界が回った気がした。

 

「レゴラス!」

 誰かが叫んでいる。

「レゴラス!!」

 誰かが呼んでいる。

「後だ! レゴラス!」

 その声に、無意識に反応して、レゴラスは振向きざまに背後のオークの喉を切り裂いた。

 溢れる血飛沫の向うに

 

 見知った姿。

 

 感覚が、戻ってきた。恐怖が去り、戦う術を思い出した。

 勝てる!

 なぜか、そう信じることができた。

「残った数は多くない! 全て仕留めろ!」

 レゴラスは、己の兵にそう叫んだ。

 

 

 

 沈黙が訪れたのは、それから数刻先のことであった。

 エルフ軍は、勝利した。全てのオークは、死体となって累々している。
その下から、戦い敗れた美しいエルフの亡骸を、生き残った同胞が引きあげる。

 それは、悲しい光景だった。

 剣を収めたアラゴルンは、その情景を見渡した。そして、レゴラスの姿を見つける。

 エルフの指揮官は、横たわる同胞の傍らに、跪いていた。
かける言葉もなく、じっと見つめる。

「・・・すぐ王宮に連れて帰るから・・・・傷の手当を・・・・」

 胸の矢を引きぬき、傷口を押える。僅かに震えるその手を、
サイロスは握って力なく微笑んで見せた。

「・・・間に合わないよ。レゴラス・・・私は、約束の地に、先に赴く」

「サイロス・・・・」

「もっと一緒にいてあげたかったけど・・・しばしのお別れだ」

「・・・・・僕を、置いていくんだね」

「少しは、私の気持がわかったか?」

 そのエルフは、生気の抜けていく指先でレゴラスの頬を撫でる。

「・・・・レゴラス・・・エルフの魂は永遠に生き続ける。
しかし、エルフがこのミドルアールで残された時間は・・・残り少ない。
心のままに生きなさい。決して悔いのないように・・・魂の導くままに生きなさい。
お前を縛るものは、なにもない。森は・・・旅立つ種子を引き止めたりしない。
・・・・レゴラス、愛しているよ」

「サイロス・・・父を・・・裏切れないよ」

「王は、そんなに心が狭くないよ」

 頬を撫でる指に唇を寄せ、頭を垂れる。

「泣いてはいけない。エルフに、永遠の別れなど・・・ないのだから」

「・・・・・サイロス」

「あの竪琴は、お前にやろう。もっと練習するんだよ。次に会うとき・・・聞かせてくれ」

「・・・・約束する・・・・」

「さようなら・・・愛しい子・・・」

 たおれたエルフの瞳から、光が失せる。
レゴラスはそのまぶたに触れ、自分の胸に手を置き、そしてゆっくりと立ちあがった。

「魂の去りし肉体を、丁重に王宮に運べ。今宵、別れの宴を開く」

 アラゴルンに振向いたレゴラスの表情に、感情の色は伺えない。
白い頬が、透通るほど蒼白になっているだけ。

「ドゥナダンよ、貴公のご助力に感謝する。我らと共に我らが王宮に来られたし。
王より感謝の言葉があるであろう」

 アラゴルンは唇を結び、じっとその指揮官を見つめ、そして頷いた。