王宮前の広場は、すでに人でごった返していた。

 静かで神聖な場所で厳かに式が行われるものと思っていたが、違うらしい。

 人垣を掻き分けているとき、楽団の演奏と共に式ははじまった。

 

 全ての国民の前で、新しい王はその王冠を受け継いだ。

「すばらしい冠だわ」

「ほら、あの真中にあるのが『竜の血』と呼ばれる宝石よ」

 すぐそばで、若い女性がヒソヒソと話している。
周囲から聞えてくる噂話で、アラゴルンは十分な情報を得ることができた。

 王冠にはめ込まれた大粒のルビーは、
バルドの栄誉を讃えて闇の森のエルフ王が送ったものらしい。
あの血色の宝石を目にするたび、人々はスマウグを倒したバルドを讃えるだろう。
そしてそれを、誇りに思うだろう。

 戴冠の儀式が済むと、エルフの楽団が現れ、美しいメロディーを奏でた。
その中央で歌うのは、エルフの王子。エスガロスの悲劇と、バルドとスマウグの死闘。
それに続く五軍の戦い。英雄バルドを賛美し、谷間の国の繁栄を歌う。

 その歌声と、エルフ自身の美しさに、多くの女性が(男性も)
口をあんぐりと開けたまま見惚れていた。

 アラゴルンの胸の中で、ちくちくと何かが刺す。

 まるで、そこにあるのは自分のようだ。
そう、いつしか王位を手にいれ、年老いてゆき、その王位を誰かに明渡す。
その時、あの美しいエルフは変らぬ美しさで去り行くかつての英雄を讃える歌を歌うだろう。

 あの年老いた英雄は、未来の自分。

 友と呼んだエルフが、自分とはまったく違う運命を持っていることに、
その時初めて気付く。

 彼は年を取ることがない。

 英雄バルドは、あの美しいエルフの王子とにこやかに別れを告げるだろう。

 彼と自分は、まったく違う道を歩いてきたのだから。

 

 それこそが、望ましい。

 

 アラゴルンは、人ごみを抜け出した。

 いつしか歌は終り、国をあげての大宴会となっていった。

 

(何て警備が手薄なのだろう?)

 こんな時勢でありながら。アラゴルンは口元をゆがめた。
この国は、危機感というものがないのか? 
一介の旅人である自分が、こうもやすやすと王宮に近付けてしまう。

 何か目的があったわけではないが、大宴会を眺めるよりは、
王宮に忍び込んで国の事情を探る方が性にあっている。

 さすがに王宮の中までは入り込まなかったが、裏手にある中庭までは簡単に入り込めた。

「今日は、本当にありがとうございました。レゴラス様」

 人声に気付いて、物陰に隠れる。

 中庭にいたのは、新しい王とエルフの王子だった。

「すばらしかったよ、バイン。バルドの戴冠式を思い出した。
あの時はスランドゥイル王が式を執り行ったけど、今、王は森を出ることができない。
こういう時勢だからね。許してもらえるかい?」

「めっそうもない! 貴方様におこしいただいただけでも、十分光栄です! 
以前私が貴方様に会ったのは、ずいぶん昔のことですが、
ずっと貴方様に憧れておりましたから」

 エルフの笑みは、不可思議だ。

「私が幼少の頃、一度だけ貴方様に連れられてエスガロスを訪れたことがありましたね。
覚えておいでですか? あの時貴方様は私を抱きあげてこう言ったのです。
『ごらん、バイン、君の父上が守った街だよ。
そして、君の住む国は、君の父上が作り上げたのだよ。忘れてはいけないよ。
一生父を誇りに思いなさい』私はあのときのことを忘れません。
そして、貴方様のおっしゃるとおり、私は死ぬまで父を誇りに思うでしょう」

 暖かな朝の光のように、エルフの王子は笑う。物陰から見つめていたアラゴルンには、
あの笑みは馴染み深いものであった。今はじめて、その意味を知る。

 

 レゴラスにとって、裂け谷のエステルも、谷間の国の王子も、
同じ存在でしかなかったのだ。

 

 保護すべき人間。導くべき幼子。

 

 それを、自分は取り違えていた。自分にとって彼が特別であるように、
彼にとっても自分は特別なのだと。

 

 声を殺して、アラゴルンは笑った。

 これは、明確な失恋だ。

 

「レゴラス・・・」

 王宮から、若いエルフが歩み出てきた。レゴラスもバインもそちらに顔を向け、
バインは一礼をした。その若いエルフも、胸に手を当て新しい王に敬意を表す。

「これからどするつもりだ? 
私は、儀式がすんだらすぐに王子を王宮に連れ戻すように
スランドゥイル王に言い付かっているが」

 レゴラスは、おかしそうにくすくすと笑った。

「帰るよ、ちゃんとね」

 バインは二人のエルフに暇を告げ、宴会場に去っていった。
宴会の主役がいつまでも席をはずすわけにはいかないのだろう。

「夜まで宴会に参加したかったけど」

「そんなのは、森に帰るのを遅らせる理由に過ぎないだろう? 
お前が王ほど宴会を好いていないことは周知の事実だ」

 レゴラスは宝冠を外すと、友人らしいそのエルフの頭に乗せた。

「やめないか。王族の宝冠を容易く扱うんじゃない」

 慌てて、それでも大切そうにそのエルフが宝冠を抱える。
レゴラスは、正装である薄絹を、乱暴に剥ぎ取って友人の手の上に投げた。

「レゴラス!」

「動きにくくて、好きじゃないんだよ」

 その下は、いつもの銀色のシャツ。

「また子供みたいなことを」

 はらりと落ちてくる金色の髪を、器用に編んでいく。

「お目付け役は、口うるさい」

 若いエルフは、小さく溜息をついた。

「いつも置いてきぼりを食うお目付け役など、役に立たない」

「ちゃんと連れて来たじゃないか」

「公儀の時だけな。イムラドリスだって、最初の数回しかついて行けなかった。
まったく、困った王子様だよ」

「サイロス」

 レゴラスは友に歩み寄り、大げさに抱擁して見せた。

「バルドに別れの挨拶をしてくる。たぶん、僕が次にこの国を訪れるときには、
バルドはもういないだろうから」

 銀髪のサイロスは片手にレゴラスの衣装を持ち、片手で抱擁を返した。

「宴会好きの共たちが、酔いつぶれる前に戻って来いよ。私はここで待っている」

「みんなが酔いつぶれて帰れなくなる前には戻ってくるよ」 

 見慣れたいつもの装束になったレゴラスは、まっすぐアラゴルンの方に歩いてきた。
角を曲って一度後を振りかえり、付人の視界から外れたのを確認して、
アラゴルンににやりと笑ってみせる。

「立ち聞きとは、趣味が悪いね、ソロンギル」

 レゴラスの口からその名を聞き、アラゴルンはいぶかしげに眉を寄せた。

「ついておいで。ここは人目がある」   

   







 驚くほどレゴラスは王宮の中を知り尽していた。

 宴会に出払った、人気のない王宮を迷うことなく進んでいき、
宴会の行われている広場と反対方向のポーチに出た。

 せまる山に面したそのポーチは、まったく人の気配がなく、密談には適していた。

「久しぶりだね、エステル。ずいぶんと・・・・苦労してきたみたいだ」

 久しぶり、か。二十年もの長い間も、
エルフにとっては『久しぶり』の一言で片付いてしまう。

「噂は耳にしているよ。時々、ガンダルフがスランドゥイルのもとに来るから」

 なるほど。それであの名前を知っていたわけか。

「苦労か。苦労なら、ずいぶんとしてきたよ」

 疲れた笑みを見せる。

「それでお前は、何をしていた?」

「僕は・・・王宮の中にいたよ」

「ずっと?」

「ずっと。珍しいことじゃないでしょう? 狩に出ることはあったけどね。
百年も森を出ないことだってある」

 そう、エルフとは、そういう生物だ。

「こんなところで会えるとは、思っていなかったよ」

 そう言うレゴラスの微笑みは、どこか陰りがある。

 会いたくなかった、ということか。レゴラスの陰りが、アラゴルンの胸を刺す。

「迷惑をかけるつもりはない。俺だって、お前に会いにここに来たわけではなかったから。
諸国漫遊の途中だ」

 苦笑いをしてみせる。うそだ。
谷間の国の戴冠式には、きっとお前が来るだろうと思っていた。

 顔を見て、声を聞いて、それで満足して去るつもりでいた。
それだけで十分だと自分に言い聞かせて。

 二人の間に、沈黙が流れる。お互いに、言葉を探す。心の痛みに、触れない言葉を。

「・・・・レゴラス、裂け谷でのことは・・・忘れてくれ。
俺も若かった。友人として再会できれば、それでいい」

 痛みを押し殺すことの、なんと容易いことか。
偽りの言葉は、簡単に出てくる。偽ることに、慣れすぎて。

「それが・・・君の出したこたえなの?」

 レゴラスの言葉は、アラゴルンの傷口を不用意に押し開いた。
激しい痛みとともに、激情という鮮血が溢れてくる。
傷口を必死で抑え込み、アラゴルンは息を飲んだ。

「そうだね。君とは友達でいたい」

 友達でいたい。その言葉の意味は?

「レゴラス」

「ごめん、エステル・・・いや、アラゴルン。
君と僕とでは流れる時間が違うみたいだ。君は、大人になったんだね」

「レゴラス」

「ありがとう、そう言ってくれて。これで、僕もやっと森を出られる」

「レゴラス!」

 アラゴルンは、無意識にレゴラスの細い体を掻き抱いた。

「レゴラス・・・嘘だよ。今でも、お前が欲しい。
でもお前は・・・お前にとって俺は、ただの人間だ。
老いて死んでゆく、ただの人間だ。自分の運命から逃れられない、弱き人間だ」

 激しい熱のこもった腕の中で、レゴラスは唇をかんだ。

 

 決心は、ついたのか?

 

 いいや、まだだ。まだだめだ。
揺れ動く心は、得ることの苦しみと失うことの悲しみを、受入れることを迷っている。

「ごめんね、エステル」

 謝罪の言葉は、アラゴルンの胸を打壊した。

 アラゴルンは唇を結び、両手をぎゅうっと握って、そっとレゴラスの体を離した。

 痛みに耐えることは、慣れている。

「もう行かなくちゃ。バルドに最後の別れを」

 背を向けるレゴラスに、アラゴルンはどうしても言わずにいられなかった。

「俺が・・・・死ぬときも、そうやって会いに来てくれるか」

 振向いたレゴラスの瞳が、悲しげに細まる。

「アラゴルン、君とバルドは違うよ。違うんだ」

 何がどうちがう? 
同じ人間で、何もないところから王位というとんでもないものを
引きだそうとしている自分と、それに成功した人間と・・・
お前がずっと見守ってきた、ただの人間。何が違う?

 

 何を、ためらっている?

 何を恐れている?

 

「俺の気持は変らない。何年経とうと、名前がどう変ろうと。
いつまでも待っている。俺が死ぬまでに、お前の答を教えてくれ。
決してはぐらかさずに」

 レゴラスは、小さく『ごめん』と呟いて、ポーチを出て行った。

 

 アラゴルンは、人気のなくなった王宮で、大きく深呼吸をした。

 伝えるべきことは、伝えた。思い残すことはない。

 静かにその国の王宮を後にしながら、思いを繰り返す。

 

 時間は、止ってはくれない。

 エルフのように、木陰に隠れて瞑想などしている暇はない。

 目の前にひかれた道を、ただ黙々と歩んでゆく。

 その終点にさしかかる前に、

・・・・どうか、レゴラスの本音を聞き出せますように・・・・