終りが来たのだ、と、わかった。

 こんどこそ、本当に。

 誰かが名前を呼んでいる。

 同胞の亡骸が、視界を占める。

「ハルディア!!」

 力強い腕が、ゆっくりと崩れ落ちる自分を支える。

 一度は救われた肉体を、この地に返す時が来たのだ。

 そこに、絶望はなかった。

 己の肉体の死が、敗北を意味するものだとは思わない。

 そう、私の魂がこの地を去っても、必ず勝利は訪れる。

 

 約束しよう、あの場所での、再会を。

 

 その時まで

 人間の王よ

 我等の希望を

 守ってやってくれ

 

 

 

 

 その時、

 ハルディアは絶望しか感じていなかった。

 敗北したのだ。我等は。

 多くの同胞の亡骸。

 オークの兵は、一時的に撤退していた。

 何故自分は、他の同胞たちのように(我主のように)
ここで潔い死を迎えられなかったのだろう。意識の残る肉体に、嫌悪する。

 絶望した魂は、この地での肉体を捨て、アマンへと心を誘う。

「立て!」

 誰かが、ハルディアの腕を掴んだ。

「撤退する! 動ける兵を集めろ!」

 そんなことに、今更何の意味があるのだろう。

 我等は

 

 敗北したのだ。

 

「ハルディア!!」

 力強いその声色に、はっと我に返る。

「ロリアンの兵を集めろ! 森に帰る!」

 ハルディアは、呆然とその男を見上げた。

 美しい金髪は、血に汚れている。

「・・・・・スランドゥイル・・・?」

 ほんの数刻前に知った、その名を口にする。

「撤退だ! 呆けている暇はない!」

 その男は、掴んでいたハルディアの腕を離した。

「動けぬ者は置いていく」

「ばかな!!」

 自分でも驚くほどの声を、ハルディアは張り上げた。
その声に、振向いたスランドゥイルは厳しい視線を見せた。

「全滅したいのか?!」

 言葉の意味に、息を飲む。

 だが、そんなことは・・・・まだ生きているものまで置いていくことはできない。

「正気か?! 闇に魂を奪われたか!」

 同胞の、亡骸のひとつまでも、この穢れた地に置いてゆく事などできない。

「どう思おうとかまわん。だが、時間はない。
貴様は、生き残った者を森に引率する義務がある。私を憎むのは、その後だ!」

 どうしても納得することができずに、唇を噛む。

 その脇で、スランドゥイルはまだ息のあるエルフにかがみこんで囁いた。

「・・・・すまぬ。お前を連れて行くことはできない」

 そのエルフは(緑森の兵だ)驚きもせずに微笑んだ。

「行ってください・・・。私は・・・・先に約束の地へと赴きます。
新しき王よ、そこでの再会を・・・・・」

「約束しよう」

 そう言って、胸に手を当てる。

 スランドゥイルは、歩ける者とそうでない者を分け、そしてその旨を宣告した。

 驚いたことに、置いて行かれる者は、彼を恨めしく見はしない。

「どうか、弟を森に導いてください」

 兄弟であったのだろう、一人がもう一人の背を押す。歩ける方は涙を流した。

「追手が来ぬうちに、出発する」

 唇を噛みながらも、ハルディアは立ち上がり、ロリアンの兵を集め始めた。

 仲間に絶望を宣告する辛さ。残される者は、ハルディアに苦痛の表情で笑いかけた。

「どうか・・・・最後の一人となっても、あの我等の森、
ロリアンに帰り着いてください・・・・。」

 どうして自分は、彼らと共にここに残れないのだろう。

 胸を締めつける思いに、目を閉じる。

 その耳に、歌声が響いてくる。

 悲しい別れの歌。

「スランドゥイル殿の・・・・歌だ・・・・」

 誰かの呟きに、その主を探す。

 スランドゥイルは、静かに歌を口ずさんでいた。
次第に周囲も同調し、気付くと、口のきける者は皆別れの歌を口にしていた。

「約束の地で」

「アマンで」

「また、会おう」

 それぞれが、そう呟く。

 一人でも二人でも、あの森に帰ろう。

 全員の、心を携えて。

 

 歩き出したスランドゥイルは、足を引きずり、不器用に体を傾けている。

 酷い手傷を負っている。

 それでも

 皆を連れて帰る。

 

 ハルディアも、歩き出す。

 我等が故郷へと。

 生き残った者の義務として。

 

 

 

 ロリアンに帰り着いた、ほんの一握りの男たちを、
留守を守っていた者たちが迎え入れる。
心安らぐ木陰で、ハルディアは自責の念に苛まれた。

 本当に、それが正しい判断であったのか。

 幼い弟たちは、傷ついた兄を優しく看護した。

「帰ってきてくれて・・・・本当に嬉しいです。皆、そう言っています。
さぞお辛い判断だったでしょう。だけど・・・帰ってきてくれて、嬉しいです」

 もし誰も帰ってこなかったら・・・この森は滅びてしまったでしょう。

 その言葉に、胸を打たれる。

 我等は・・・・スランドゥイルの判断によって、救われたのだ。

 生き残ったものは、生涯痛みを抱き続ける。

 それをわかっていて、あの男は帰る事を決断した。

 その苦痛に、また胸が痛む。

 

 アムディアは戦死し、アムロスまでもこの森を去った。

 

 それは、ロリアンに住むエルフたちに絶望を与えた。

 それを救ってくれたのは、ガラドリエルとケレボルンだった。

 ロリアンのエルフたちは、新しい主を快く迎えた。
ガラドリエルの神々しいまでの力は、ロリアンの森を聖域にまで高めてくれる。
守ってくれる。

 それは、喜ばしいことだ。

 ハルディアは、それでも胸の痛みを抱え続けていた。

 ガラドリエルを歓迎しながらも、あの地獄のような戦場を忘れられない。
自ら傷つくことを承知しながらも、撤退を決断したスランドゥイルの強さを、
忘れられない。

 スランドゥイルは、ガラドリエルらがロリアンを統治することを
快く思ってはいなかった。
その証拠に、緑森(今では闇の森と呼ばれる)からの来訪者は、絶えた。
その心内を、ハルディアは理解できた。己の血を流して守ってきた民を、
血を流すことのないあの女が統治するなど、嫌悪するのだろう。
ガラドリエルは幾度も闇の森へ使者を送ったが、全て追い帰された。
スランドゥイルは、己の力だけで民を守ろうとしている。
あの美しかった緑森が、たとえ闇に犯されても。

 何度目かにハルディアが使者に選ばれた。が、ハルディアはそれを拒否した。

 それは、負目である。

 自分は、あの王を説得することなどできない。

 あの王の、深い傷を知っているのだから。

 

 ガラドリエルの娘がエルロンドに嫁ぎ、イムラドリスとの和平も結ばれた。

 

 何が正しくて、何が間違っているのか。

 孤立した闇の森は、正しい判断を行えなかったのか。

 

 それとも、シルヴァンの森に、ノルドの統治者を置くことが間違っているのか。

 

 それでも、ガラドリエルとケレボルンは、この森を愛してくれる。

 守ってくれる。

 闇を、遠ざけてくれる。

 

 指輪を滅ぼす旅の一員としてのレゴラスに会った時、
ハルディアは薄れていた痛みを思い出した。

 百万のエルフ軍でも立ち向えなかったモルドールに、
人間とドワーフ、それにホビットなどを連れて向おうというのだ。
エルロンドの判断は正しいものかもしれない。
しかし、レゴラスは、己の父の受けた傷を、知っているのだろうか。
なぜ、エルロンドはノルドの英雄と呼ばれる戦士たちではなく、
シンダールの王子を選んだのか。彼は、捨てゴマか?

「僕は、自ら望んだのです」

 レゴラスの緑色の瞳は、森の新緑のように瑞々しい。

「勝てぬ戦いだとは、思っていません。それに、人間の王を信じています」

 アラゴルンのことは、よく知っている。エルロンドの娘、アルウェンと恋仲にある。
その実力も。だが、彼一人で勝てる相手ではない。

「僕は、あなたを尊敬していますよ、ハルディア」

 スランドゥイルは、裏切者だと思っているだろう。

「私はあなたがわかりませんな、王子。
シンダールの業を背負うあなたは、なぜドワーフやノルドと和解できるのか。
許せるのか」

 緑色の瞳を細めて、レゴラスは微笑む。

「僕は、シルヴァンです。ただ、純粋に森を愛している。
それはスランドゥイルも同じこと。嫌悪すべき歴史は歴史。
僕は森を守るために、志願した。僕は、目的のためなら、誰とでも手を組みましょう。
そして、スランドゥイルが理想とした楽園を、この手で築くのです」

 この命をかけて。

「スランドゥイル殿は・・・・ロリアンを軽蔑しておられるでしょうな。
今、ロリアンはガラドリエル様のお力に、完全に頼っている」

「それは、あなたたちの選んだ道。他者が口出しすることではありません。
でも・・・そうですね、サウロンが滅びしとき、
ガラドリエル様はエルロンド卿などと共にこのミドルアースを去るでしょう。
その後、残されたシルヴァンエルフがたどる道は、
あなたたち自身で決めることとなるでしょう。
共にこの地を去るのか、加護を失った森に残るのか」

「スランドゥイル殿は・・・・残るのでしょうな」

「父は、力の指輪を所有していませんからね。
僕たちには、まだもう少し時間があるでしょう」

 その先の希望。

 レゴラスの瞳を通して、それを垣間見る。

 シルヴァンの希望。

 自らが作り上げる、楽園。

「民のために・・・・シルヴァンの森のために、あなたは命を落してもかまわないと?」

「僕は、生き残ります。どんなに傷ついても。かつての父がそうであったように。
もしこの肉体が滅びることはあっても、僕の魂は残ります。それが僕の、愛です」

 こんなにも純粋に、守るべきものに一途になれる。

「ハルディア、あなたは違うのですか?」

 ハルディアは、頭を振って苦笑した。

 自分は、二度ほど辛い決断をした。あの戦場で、僅かな者を率いて帰路に着いたとき。
そして、ガラドリエルを主を認めたとき。

 それはひとえに、この愛すべき森を思ってのこと。

 

 ケレボルンに出陣を告げられた時、全てが許せると思った。

 

 あのシルヴァンの王子のように、ただ純粋に先を見て歩こう。

 

 アマンでの再会を。

 

 約束して。

 

 

 

 アラゴルンの腕の中で、ハルディアは満たされる思いを感じた。

 さあ、スランドゥイル、あなたに救われたこの肉体を、返す時が来たようだ。

 私はロリアンを愛している。

 緑森の王よ、私を許してくれるか。

 ここで肉体が朽果てても、魂は森へ帰る。

 あの時、戦場に置いて行った、多くの同胞のように。
今、目の前に倒れている、多くの同胞のように。

(帰ろう、ハルディア、あの森へ)

 あの時の、スランドゥイルの声が聞えた気がした。

 そのためにも

 人の王よ、

 我等が希望を、決して失わせてはならない。

「・・・・レゴラスを・・・・」

「レゴラスは、必ず俺が森に連れて帰る」

 言葉にならない僅かなささやきを残して、ハルディアは意識を手放した。

 

 さあ行け、人の王、アラゴルン。

 

 

 

 夜が明けた。

 勝利と呼ぶには、あまりに失ったものが多すぎる。

 それでも

「滅んではいない」

 アラゴルンは、最後の連合の戦いに、想いを馳せた。

 絶望してはいけない。

 希望は、まだ残っている。

(父は、敗北者ではない)

 いつか、レゴラスが言っていた。あれだけの兵を失う戦いを生き伸びた。
スランドゥイルは、英雄なのだと。
死んでいった者たちの苦痛と無念を、一心に受けたスランドゥイルは、
最も尊敬すべき英雄なのだと。

 アラゴルンは思う。自分もまた、その苦痛を抱えて生きてゆくのだと。

 

「何も・・・・」

 朝焼けの中、生き残った者たちが、逝ってしまった者たちの面影を拾い集める。

「何も、残っていないのですよ」

 疲れ果てたエルフは、アラゴルンに悲しい目を向けた。

 エルフの遺体は、オークによって辱めを受け、切刻まれた。

 それが、奴らのやり方。

 エルフの指揮官たるハルディアの遺体は、アラゴルンが記憶している場所にはなかった。

 その残骸と思われる、僅かな痕跡を残すのみ。

 レゴラスの瞳は、途方に暮れている。

「アラゴルン」

 歪んだ笑みで、レゴラスは呟いた。

「唇が乾いて、歌を歌うこともできない」

 アラゴルンは、奥歯を噛締めた。泣かせてやりたい。
せめて一時でも、その悲しみを開放してやりたい。
目の前にいるレゴラスを、優しく抱いてやれば、きっと彼は泣くことができるだろう。
そうしたい衝動を、必死な思いで押し留める。

 

 今はまだ、泣いてはいけない。

 

 強く握った手のひらを、アラゴルンはレゴラスに差出した。

「ハルディアの想いは、ここにある」

 血と汗で汚れた手のひらを、そっと開く。

 レゴラスは、本当にそこに何かがあるように、その手のひらを両手で包んだ。
そして、想いを受取る。

 大切にそれを胸に抱え、そして、大空に向って広げた。

「お帰りなさい、あの風に乗って。ロリアンの森へ。僕らの愛した、あの森へ。
僕は、共に帰ることはできない。まだすべきことが残っているから。
ハルディア・・・そして、愛すべきシルヴァンの民。
あの風に乗って、森へ帰りなさい」

 風が、歌うように耳元をすり抜けていく。

 アラゴルンは、きらきらと輝く美しいエルフの魂が、
風に乗って飛立っていくのが、見えた気がした。

「僕もじき、あなたたちの後を追う。
永遠に枯れることのない木陰で、またあの歌を歌うことを約束しよう」

 一陣の風が過ぎ去った後、レゴラスはアラゴルンに振向いた。

「行こう、人の王よ。ガンダルフが呼んでいる。僕たちの旅は、まだ終らない」

 アラゴルンは、頷いて見せた。

 

 レゴラスは、スランドゥイルの強さを、受け継いでいる。

 約束しよう、ハルディア。

 レゴラスを、必ず森に連れて帰ると。