脱ぎ散かした服を着込み、乱れた髪を手櫛で整えて、丁寧に編みこんでいく。

 そうしながらも、レゴラスは小さく歌を口ずさんでいた。

 

  おとめはいずこか

  光か陰か

  彷徨う場所を誰も知らない

 

 今ではほとんど使われることのない、シルヴァンの言葉で、
川のせせらぎのように、静かに口ずさむ。

 ハルディアはその口元に見入り、美しい調に耳を傾ける。

 アムロスとニムロデルの歌。

 誰もが知っているはずなのに、ここロリアンでさえめったに聞かれることのない歌。

 

  波間に低く薄れゆく

  岸を望んで、アムロスは

  ニムロデルから自分を引き離した

  頼みがたい船を呪った

 

 ハルディアはレゴラスの背後に回り、髪を編むのを手伝いながら、その続きを歌う。

 そんな平穏を、もうどれくらい経験していなかっただろう。

 シンダールの言葉ではなく、森に古くから伝わるシルヴァンの言葉で。

 

 心を満たされるなんて。

 

「あなたの望みに、手を貸しましょう。人の王の希望に」

 僅かに振向き、レゴラスは微笑んで見せた。

「夜が明けます。朝の光に輝くマルローン樹をご覧になられるといい。
その美しさは、己のもてる全てを引換えにしてもよいと、思わせるものがあります」

 髪を編み終えると、レゴラスは立ち上がり、フレトの外に出た。

 朝のやわらかな光に、黄金の葉がきらきら輝く。

「ああ、本当に美しい」

 うっとりと眺めながら、レゴラスは呟いた。

「いつか、僕の森にも暖かな光を迎え入れよう。ここ、ロリアンに負けないくらいに。
そうしたら、ハルディア、スランドゥイル王を訪ねるといい。
王はあなたを快く迎え入れるでしょう。同族、兄弟として」

 本当に、そんな日が訪れるのだろうか?

 冥王を倒し、闇の森に光を取戻すとき・・・・
ガラドリエルを含む多くのエルフたちは、海を渡ってしまうだろう。
ロリアンは、大いなる加護を失うだろう。

 スランドゥイルも、海を渡ってしまうのか。

 いや、あの王は、森に残るだろう。

 あの戦争で深い傷を抱えても、なお王でい続けたのだから。

「私も、もう一度あの緑森を目にしたい」

 レゴラスは、笑って見せた。初めて、同じ未来を見た気がした。

「もう行かなければ。アラゴルンが探してる」

 ひらりと飛び降り、まっすぐ走っていくレゴラスの視線の先に、あの人間がいた。
イライラした表情で、レゴラスに突っかかっている。レゴラスはただ笑っている。
アラゴルンは、遠い木の上にハルディアの姿を認め、表情を険悪なものにした。

「話をしていただけだよ、アラゴルン。それから、歌の続きを教えてもらってたんだ」

 アラゴルンと話をするとき、レゴラスはなんて穏かな表情をするのだろう。
あんな無邪気な笑みは、決して自分に向けられることはない。

 

 人の王を、愛しておられるのですね。

 

 だから、強くなれる、弱さを殺せる。

 未来を、託せる。

 ハルディアは、アラゴルンの視線から隠れるように、木陰に消えた。

 

 

 

 ロリアンでは、緩慢に時間が過ぎていく。

 静かで美しい森は、心と体を癒せる最適な場所だと、アラゴルンは思っていた。
だが、人間にとってはそうとも限らない。
ボロミアは言葉数が少なく、ガラドリエルに対する恐怖を多少薄れさせはしたものの、
あまり居心地はよさそうではなかった。気づくと、レゴラスがボロミアのそばに座り、
話しかけている事が幾度かあった。ホビット達と一緒になって。

 仲間の団結を、アラゴルンは信頼したかった。

 

 アラゴルンは、ひとり森を歩いた。自分の中の突っかかりを落すため。
この森に秘密は持ちこめない。アラゴルンは、すぐにハルディアの居場所を聞き当てた。

「何か話ですか、アラゴルン?」

 彼は、樹の高い所にあるフレトに座り、己の矢をつくろっていた。
見晴しのよい、明るい場所で、他のエルフたちからは遠い。密談には向いている。

「単刀直入に聞くが・・・・あの夜、レゴラスと何をしていた?」

 まったく単刀直入な質問だ。思わず鼻で笑ってしまう。

「個人的なことです。あなたには関係ない」

 ぴくり、とアラゴルンの口元が引きつる。確かに、その通りだ。
明かに嫉妬しているのを、恥かしげもなく披露しているようなもの。

「予め言っておきますが、レゴラス殿は自らいらしたのですよ」

「誘ったのはお前だ」

「無理強いはしていません。あの方のご意志です」

 アラゴルンは手のひらを握り締め、木の幹に押し当てる。

 あの晩、何があったのか、気付いている。
ハルディアは、アラゴルンのそんな態度がおかしかった。

「気付いておられるのなら、あえて私の口から申しあげることはないでしょう。
それとも、聞きたいですか? あの晩、『私たち』が何をしたのか」

 怒りを静めようと、アラゴルンが肩で息をする。

「・・・・・ハルディア、お前は俺を軽蔑するだろう。
この森で愛を誓った女性がいるのに・・・・『友人』のことでこんなにも取り乱している。
ああ、関係ない。レゴラスが誰と寝ようが。だが、あいつが傷つく姿を見たくはない。
しかも、俺のせいで」

 拳を幹に押し当てたまま、低くうめく。そんなアラゴルンに、ハルディアはほくそえむ。

 

 きっと、レゴラスは自分がどれだけ愛されているのか、気付いていない。

 

 嫉妬しているのは、自分の方だ。

 たぶん、レゴラスはアラゴルンと肌を重ねていない。
それでも、心は常に彼と共にある。
たとえどんなに求めても、体を支配しても、レゴラスの心を振向かせることはできない。
レゴラスの心は、アラゴルンが握っているのだから。

「あなたのせいではありませんよ、アラゴルン」

 だから、意地悪を言ってみたくなる。

「レゴラス殿の目的は、私を服従させること。シンダールの王の血なのでしょうな。
確かに私は、レゴラス殿に跪きますよ。
あの肉体の誘惑に、勝てるものなどおらぬでしょう」

「レゴラスは、淫乱ではない!」

 まるで自分が侮辱されたように、顔を紅くして怒る。

「ああ、あなたはあの方と肌を重ねたことはないのですね? 
そうですね、あなたには結婚を約束された姫がいらっしゃいますから」

 ぎりぎりと歯軋りをするアラゴルンに、ハルディアは頭を振って見せた。
もうやめよう。嫉妬に任せた攻撃の言葉など。

「アラゴルン、あなたは誰かに裏切られたことはおありですか」

 話の方向が変り、アラゴルンは眉を寄せる。

「最後の連合の戦い・・・・あれは、我らシルヴァンの民にとって、
非常に屈辱的な敗北でした。もちろん、アムディア様やオロフェア王の
誤算があったことは認めます。しかし、我らは心の奥でギル=ガラド殿の
援軍を期待していた。あなたもご存知のように、人間とエルフの強大な軍が
侵攻する前に、我らは落ちたのです。あのときの絶望を、私は忘れることができない。
ですから、ロリアンを守るためなら誰にでもすがり付こうと思った。
サウロンの力が増してきた今、守りたい気持だけで精一杯で、その先を見る目を、
私は失っていたのです。私の心の奥に眠る恐怖が、私の心を閉じていた。
わかりますか、アラゴルン。レゴラス殿は、その私を引っ張り出したのです。
もう一度戦う勇気を、奮起させるためにここに来た。
私は暴力でそれを跳ね返そうとし、・・・そして、レゴラス殿に屈服したのです。
それが、あの夜の出来事ですよ。あなたが考えているようなものではない」

「だが、レゴラスを抱いた」

「そのことに固執するのなら、あなたはレゴラス殿をどこか遠いところに
閉じ込めておくしかありませんね。肉体に与える暴力は、性的なものは関係なく、
レゴラス殿のダメージにはならないのですよ」

 アラゴルンは唇を結び、足元を睨む。

「確かにレゴラス殿の容姿は、保護欲をかきたてられる。
そんな薄っぺらな愛情を、レゴラス殿は求めてなどいない。
アラゴルン、あなたはご自分の心の絆に気付いてはおられない」

 守ってやりたいと、願うのは傲慢か。

 今度はアラゴルンが首を横に振った。

「ハルディア、聞かせてくれ。お前は、レゴラスの中に、何を見た?」

「絶対的な信頼です」

 絶望の淵でも、率いるべき民を見捨てなかった、スランドゥイルの強き光。
暗き心に光を与えてくれるものであれば、未来を信じて見つめることができる。

「我らシルヴァンを統率する、シンダールの王として」

 きっと

 

 彼のためになら、死ねる。

 

「約束したのですよ。人の王に協力すると」

 拳を握っていたアラゴルンは、ふと肩の力を抜いた。

「レゴラスが、常に辛い立場にあったことは知っている。
俺は、何もしてやれない自分に腹を立てているだけだ」

「レゴラス殿は、あなたを希望と呼びます。
あなたの存在そのものが、レゴラス殿を支えていることを、もっと自覚するべきです」

 わかっている。それでも・・・・・

「俺は、あいつを守ってやりたい。たとえ、それが傲慢な欲でも」

 アラゴルンは体を伸ばし、ハルディアに背を向けた。

「邪魔をして、悪かった」

「いいえ」

 去ってゆくアラゴルンに、ハルディアはひとつ溜息をついた。

 

 どんなに望んでも、レゴラスの心を手に入れることはできない。

 それは、アラゴルンと共にあるのだから。