もし、地獄というものが存在するのであれば、
それはあの戦い以外の何ものでもない。

 ロリアンの兵は、ダゴルラドで指導者を失い、
モルドールの残虐な兵に追いつめられていた。

 それは、敗北という名の絶望。

「ギル=ガラドの軍はまだか・・・!」

 最後の希望を、誰かが口にする。

 ハルディアは、そんなものは来ないと、薄々感づいていた。

 奴らは、我らを見捨てたのだと。

「膝を折るな! 剣を持て!」

 累々たる同胞の亡骸の中にあって、その男は叫んだ。

「あきらめるな! ノルドールなど、最初から信頼してはおらぬのだ! 
己を信じ、最後まで戦いぬけ!!」

 血にまみれたそのエルフは、黄金の髪を振乱して、士気を高めようと声を枯らした。

「シルヴァンの誇りを持て!!」

 ハルディアは、立ちあがり、死んだオークから矢を引きぬいて己の弓に番えた。

 そうだ、端からギル=ガラドなど信頼してはおらぬのだ。

「貴公、名前は?」

「スランドゥイル! オロフェア亡き後、緑森大森林を継ぐ者だ!」

 そうか。オロフェア王は、死んだのか。

 スランドゥイルは矢の尽きた弓を捨て、
ロングナイフを手にオークへと切りかかっていった。
ハルディアは仲間を立たせ、最後の気力を振絞って叫んだ。

「ロスロリアンの名誉にかけて、我らはここで滅びはしない!」

 

 

 

 

 あれから三千年。

 平和な時は、長くは続かないのか。

 エルロンドの使いからの伝言は、すでに受けていた。

「森に侵入したのは八人。うち一人はエルフ。二人は人間。
四人の小さきヒトと、一人のドワーフ」

 ハルディアは報告を受け、静かに時を待った。
己の率いる警備兵たちは、高い樹の陰に隠れている。

 視界に入った闖入者たちを、じっくりと観察する。人間の一人は知っている。
幾度となくこの地を訪れている。アラゴルンだ。

 アラゴルンは、まっすぐ前を見つめて足を進めている。
もう一人の人間の目も、警戒を怠らない。
ホビットの一人は怯えた目で周囲を見回し、
ドワーフは二人のホビットにしきりに話しかけていた。

 そしてエルフは・・・。

 物珍しげに高い木々を見渡している。それほど警戒心は感じない。

 不思議だ。あんな若造が旅の仲間に? 

 エルロンドは、何を考えているのだろう? 
イムラドリスには、もっと屈強なエルフ、英雄と呼ばれたエルフが何人もいるのに。
しかもその金髪のエルフは、こちらの存在にまったく気付いていない。

 ハルディアは、ひらりと高い樹から舞い降りた。
彼の率いる警備兵とともに、一行に矢の先を向ける。
金髪のエルフは驚く風もなく己の弓をかまえたが、そこに殺気はなかった。

「ハルディア」

 アラゴルンが進み出る。

「ここを、通して欲しい」

 

 

 

 ハルディアを説得しようと、アラゴルンは手振りをつけて状況を説明した。
その姿は、精神的な余裕のなさをあらわしている。
レゴラスは、そんな二人に背を向けて立っていた。
他の仲間は、少し離れたところで腰をおろし、状況を見守っている。

 本当に、こんなつたない兵力でモルドールに向うつもりか。
アラゴルン以外、誰もその本当の恐ろしさを理解しているように見えない。
闇の森のレゴラスを含めて。

「レゴラス殿と話を」

 落ちついた口調でハルディアが言うと、アラゴルンはひとつ溜息をついて
レゴラスに振向いた。エルフ語で話していたので、他の仲間たちには
会話の内容はつかめなかったはずである。レゴラスは振向き、ハルディアを見た。
アラゴルンにぴったりと張りついていた所を見ると、求められれば
いつでも会話に参加するつもりでいたのだろう。
求められなければ、ただ沈黙を続ける。それは、正しい選択だ。
己の指揮官をちゃんと見極めている。
ハルディアは、一行から離れた場所を視線で示した。
アラゴルンが一瞬怪訝な顔をする。
が、レゴラスはそんなアラゴルンに目配せをして、自分はハルディアについていった。

 

「アラゴルンは知っている。北の森の兄弟として、貴方のことも信用しましょう。
しかし、他の連中は神聖なるロスロリアンに入れるわけにはいきません」

 さっきから散々アラゴルンと話し合っていた事項を、また繰り返す。
レゴラスの表情は変らない。

「フロドは指輪所持者です。サムはフロドの忠実なる僕。
メリーとピピンは信用のおけるフロドの友人です。
ボロミアはゴンドールの執政の後継。彼らに疑わしいところはありません」

「だが、ドワーフがいる」

 当然、予想されていた言葉だ。エルフはドワーフを好かない。
信頼していない。それは、レゴラスが一番よくわかっていた。

「ギムリは誠実で、エルロンド卿の信頼も得ています」

「保障は?」

「僕とアラゴルンで」

 値踏みをするように、ハルディアはレゴラスを見回した。

 その自信は、エルフ特有のものか、闇の森の王族のおごりか。

「ご存知のように、闇の森はロリアンと交流を絶って久しい。
あなたはご自身を理解しておいでですか?」

 挑発的な言葉にも、レゴラスは瞳の色を変えない。むしろ、逆に挑戦的な光を放つ。

「何を言いたい?」

「あなたには、通り一遍の信頼しかないということです。闇の森の王子」

 侮辱的な言葉に、怒るどころか、レゴラスは唇の端をつり上げて笑って見せた。

「何が望みですか、ハルディア? 
僕があなたの信頼を得るために、僕に何をしろと言う?」

 その反応には、少なからずハルディアは驚かされた。

 ハルディアは見くびっていた。
レゴラスは、同じような侮辱をイムラドリスでも受けている。
彼らにとって、スランドゥイルの立場は低い。
スランドゥイルは上のエルフではないし、
なにより最後の連合の戦いにおいての敗北者だ。

「あなたご自身にお任せしましょう、レゴラス殿。
あなたは私の信頼を得るために、何をしてくださいますか?」

 レゴラスはそっと自分の襟元に手を当てた。

「ハルディア、はっきりしない物言いは好きません。
僕と弓の腕を競いたいですか? 違うでしょう。
ギムリを含め、アラゴルンの指示に従い僕たちをガラズリムに案内しなさい。
そうすれば僕は、ただ一人あなたの所に赴きましょう。
弓の腕比べでも何でも、あなたの望むとおりにしましょう」

 なぜ、こうやすやすとプライドのない発言をするのか。
そんな発言をすれば、余計に侮蔑されるであろうに。

「時間がないのです。皆は疲れていて休む所が必要です。誰よりアラゴルンが。
どうですか? それとも、ここで押し問答を続けますか?」

 ふとハルディアは、レゴラスのペースにはまっている自分に気がついた。

「・・・・アラゴルンのために、身を売ると?」

「お好きに取るといい。早く戻らないと、当の本人が探しに来ますよ。
彼にはエルフ語の密談は無駄ですからね」

 ハルディアは鼻で笑いをもらし、レゴラスに背を向けた。

「その約束、忘れないでください」

 二人は足早にアラゴルンの元に戻った。
案の定、アラゴルンがイライラした表情で落着きなげに歩き回っている。
レゴラスは何事もなかったかのようにそんなアラゴルンを通り過ぎ、
不安げに膝を抱えているホビットに視線をあわせた。

「大丈夫ですよ。話はつきました。行きましょう。
ロリアンの都は美しいという話です」

 フロドが、無理矢理笑みを作ってみせる。
レゴラスは、そんなフロドの肩を軽くたたいた。

 ハルディアと話し合っていたアラゴルンは、やっと決着がつき、
大きく溜息をついて一行を見渡した。

「出発する。レゴラス、ギムリの隣を歩け」

 ギムリは不満そうに唸りをあげた。そんなギムリに、レゴラスがニヤリと笑いかける。

「誰かさんと同じように、地下牢に入れられるよりはましでしょう」

「ちっこれだからエルフって奴は」

 

 不安と悲しみを抱えたまま、一行はガラズリムに向った。