夕日の落ちる前の谷は、一日のうちで一番美しいと思う。 何もかもが金色に染まる。 金色に彩られた谷を背景に、ポーチで彼はうつむいて座っていた。 「冴えない表情だな」 そう話しかけると、彼は顔をあげて苦笑した。 「顧問たちとやりあったのか?」 「・・・意見の違いは、仕方のないことだよ、エステル」 幼名で呼ばれたことに、異論を示すように唇をつり上げる。 「エルロンド卿は寛大なお方だけど、結局はノルドの国だもの。 スランドゥイル王も頑なな方だしね」 そのスランドゥイルの使者であるレゴラスは、 毎度板ばさみにあっている様だった。 もっとも、それでも何とか話合いを持とうとする彼の努力がなければ、 二つの国が話合いを持つことなどありえないのだけれど。 ノルドールによって滅ぼされたシンダールの国の生き残り、 それが彼の父、スランドゥイル王だ。 遥か昔の話だ。それでも、永遠の命を持つエルフにとって、 五千年でも一万年でも変りはしないのだろう。 「解決策は簡単さ。俺が人間の統一王国の王の座を取戻す。 そうすれば、エルフをひとつにまとめることもできる」 「簡単に言うね」 アラゴルンは、声に出して笑った。 レゴラスを慰めるつもりで言った冗談だ。 本当にそれができるのかなんて、誰にもわからない。 「信じるよ、アラゴルン。いつかそうなってくれることを願う。 そうしないと、僕も疲れてしまうもの」 「もちろん、協力してくれるのだろう?」 「協力するよ。友達だからね。目的のために君が危ない目に遭えば、 僕はいつでも君を助けに行くよ」 そう言って笑うレゴラスを、素直に美しいと思えた。 昔の話だ。 遠い昔の、約束。 ガラドリエルの住まう大木から、できるだけ離れた樹の下に座りこむ。 どこにいても秘密をもてないことには変りはないのだけれど、 少しでもあの眼光から離れたいという本心はあった。 ガラドリエルの孫に求婚した自分でさえ、 心底を見抜くあの目に恐ろしさを感じることもある。 知られたくない心内を持っていれば。 「最初に言っておくけど」 突然、しかし静かにその声は言った。 「あなたは僕の友達で、かけがえのない人間だよ。 でも、僕が誰と寝ようとあなたに口出しをする権利はない。 僕が・・・あなたが誰と結婚の約束をしようと、 異論を唱える権利がないようにね」 顔を上げぬまま、アラゴルンはくすくすと押し殺した笑いをした。 目の前に立つエルフは、子供のように手を腰に当てている。 「・・・お前から・・・隠れることはできないのだな? レゴラス」 「あなたがどこにいても、僕はすぐに見つける。裂け谷にいようと、 ゴンドールにいようと。僕から逃げることはできないよ」 「でも、俺はお前を見失う」 まるで木の葉が落ちるように、するりとレゴラスは膝をついて、 アラゴルンの表情を覗き込んだ。 「・・・不安、なんだね? 何があなたを怯えさせる? ガンダルフを失ったこと? 奥方の予言?」 息がかかるほどの距離で、レゴラスはアラゴルンに話をする。 まるでそれが癖のように。その何気ない動作が、 どれだけ人間の心を乱すのか、知りもしないで。 「そのどれもだ」 わざとらしく怒ったような表情をすることを、レゴラスはやめていた。 さっき、ボロミアを見つめていたような、慈愛に満ちた表情になる。 「慰めてくれるか?」 「孤独は、弱き者の逃げ口上・・・なのでしょう?」 くすりと笑うその唇に、そっと指を寄せる。 レゴラスはアラゴルンの指に軽くキスをし、顔を離して隣に座った。 「俺は・・・自分の力を過信しすぎていたようだ。楽な旅だとは、 最初から思いはしなかったが・・・仲間は助けられると思っていた。 まさかガンダルフが・・・・」 喉を詰らせ、言葉を止める。 レゴラスは、そっとアラゴルンの指を求め、その手を握った。 「ガンダルフがフロドに言っていたよね。 これから何をするのかが大切なのだって。 転がり始めた運命は止められない。 先を見て走り続けないと、つぶされてしまうよ。 悲しむのは、そのあとでいい」 「強いな」 強い、と一言で片付けられてしまうことほど、切ないことはない。 そんなことはわかっている。自分が散々言われてきたことだから。 強さの影にある努力を、弱き者は見ようとしない。 「エルフはね・・・」 憂いだ瞳で、レゴラスはロリアンの丈高い木々を見上げた。 「人間のように死ぬことですべてを終りにすることはできない。 喜びも、悲しみも、永遠に積み上げていくしかないんだ。 前を見るしかないんだよ」 絡めた指に、力を込める。弱き心をさらけ出されたのは、 ボロミアだけではない。本心を知らされたのは、自分も同じ。 認めたくはなかったが。 「レゴラス・・・」 エルフの光に照らされて、 レゴラスはわずかな微笑をアラゴルンに向ける。 「わかってる。本当は、嫉妬していたんだ。 お前は、俺だけのものだと思ってた」 アラゴルンの告白に、悲しげにレゴラスが笑う。 「知ってるよ」 「なのにお前は、ボロミアの事しか頭にない」 「そんなことはないよ。フロドのことも、心配で仕方ないもの。 ボロミアと同じくらい、怯えている。 でも、フロドを慰めるのは僕じゃない。 フロドのそばにいてあげるのは、ホビットの友達だから」 アラゴルンは、小さく頭を横に振った。 「本当は・・・俺が気遣わなきゃいけなかったんだ。 すまない」 「何もかも、一人でなんて無理だよ。そのために僕がいるのでしょう? 友達として」 友達。何度も強調するのだな。わかっているのに。 「あなたの心の支えは、僕じゃない」 レゴラスは、アラゴルンの胸のオブジェを指先で触れた。 「出発の前に、約束を交していたね?」 「見ていたのか」 「わざとじゃないよ、目に入ったんだ。こんなとき、 目がいいのも困りものだよ」 クスクスと笑う。 「本当はね、嫉妬しているんだ。あなたはアルウェンしか心にないもの。 小さなエステルは、僕だけのものだと思っていたのに」 めまいがするほどの、美しい夜。 「レゴラス・・・」 言いかけるアラゴルンの唇に、レゴラスはそっと指を押し当てた。 そして、頭を振る。 美しいロリアンの地で、告白をしてはいけない。 それが永遠の足枷になってしまうから。 決められた道を歩くための、足枷に。 「ボロミアを、助けてあげたい。わかってくれるね?」 「・・・俺には・・・」 「あなたは、ゴンドールの王なんだよ」 アラゴルンは、大きく深呼吸をした。決めなければならない。 二つに別れた道の、どちらに進むのか。 「教えてくれ、レゴラス。俺にどれだけのことができる?」 「・・・・あなたは『希望』だ。『力』ではない。 でも、人々を勝利へと導くのは『希望』であって『力』ではない。 僕は、あなたの決定に従う。あなたの選ぶ道を、共に歩む。 それが僕にできるすべてだから。 僕はガンダルフのような知恵者ではない。何の助言もして上げられない。 でも、忘れないで。僕はあなたと共に歩く。 たとえ、百億のオークに戦いを挑もうとも、 ただ一人火の山に向おうとも」 アラゴルンは、今まで一度も(そしてこれからも絶対に) 外したことのないペンダントを、胸から外して地面に置いた。 その腕でレゴラスを抱しめ、唇を重ねる。 一瞬だけ、レゴラスはアラゴルンの背に腕を回し、 すぐにその体を押し戻した。 そして、アルウェンのペンダントをアラゴルンの首に下げる。 そうして、レゴラスは笑った。 「見られているよ。視線を感じる」 「わかってる」 「奥方を怒らせるつもり?」 「奥方が、怖いか?」 鼻で笑いながら、レゴラスは立ち上がった。 「僕は、スランドゥイルの子だからね。 偏屈で、強情で・・・自分勝手」 そう言いながら、遥か遠くを眺める。 「欲しいものは何でも手に入れる、強欲なエルフだよ。 人間の男を誘惑し、絆を乱そうと企む。・・・それでいい」 口を開きかけるアラゴルンを片手で制し、 レゴラスは数歩あとづさった。 「あなたはアルウェンを愛している」 なぜいつも、辛い役回りを彼に渡してしまうのだろう。 「そして、あなたは王になる」 だが、悲しむのは、あとでいい。悔いるのも。 今は、先を見なければ。 フロドを守り、ゴンドールを勝利へと導くのだ。 「ああ、信じて待っていてくれるアルウェンのためにも」 ロリアンの薄明りに、レゴラスの影が消える。 「さっきはごめん。言いすぎた」 「いや・・・俺の方こそ、大人気なかったよ」 アラゴルンも立ちあがり、身に付きまとう影を払い落とした。 「本当は、癒されたかったのは・・・ お前の方なんじゃないのか?」 「そうかもね」 人間の肌は好きだ。熱く、冷えた心を暖めてくれる。 「もっと・・・早くに、ボロミアと知合いたかった。 急いで肌を重ねる必要がないほど」 エルフの、冷たい肌を温めてくれる、人間。 火照った体を冷してくれるエルフ。心の触れ合いには、時間がかかる。 時間がかかりすぎて・・・・ 俺は別の女性を選んでしまった。 「この先、何を失っても、あなただけは守るよ、アラゴルン。 かけがいのない友達だもの」 友達、か。 「お前を癒すのは、俺じゃない」 レゴラスは、肯定の笑みを見せた。 出発の用意をする仲間を、アラゴルンは離れたところから 見守っていた。 フロドの隣にいるのは、サム。何かと世話を焼いている。 フロドにとっては、それがあたり前で、心安らぐ時。 ボロミアの周りでは、相変わらずメリーとピピンがはしゃいでいる。 ギムリはいつもの苛立たしげな口調で悪態をつく。 ロリアンのエルフと話をしていたレゴラスが、仲間に近づく。 フロドに歩み寄り、耳元で何かささやく。 レゴラスは、めったに大きな声は出さない。 フロドはおかしそうに笑って、離れたところにいるアラゴルンに 目を向けた。レゴラスもアラゴルンを見て、穏かな笑みをつくる。 「ちゃんと仲直りしたよ」 冗談っぽくそう言って、フロドに笑いかける。 何のことかと首をかしげるアラゴルンに、フロドも笑って見せた。 穏かな時間。 だが、それもこの森を出るまでだ。 ホビットたちに付きまとわれながら荷物を運ぶボロミアに、 レゴラスは意味ありげに目を細めて見せ、 ボロミアも当惑したように口元で笑んだ。 「ボロミア」 アラゴルンが声をかけると、ボロミアは一度目を伏せ、 そして気丈な表情を取戻した。 「すまなかった。大丈夫だ」 それだけ言って、また仕事にかかる。 信頼という名の絆だけを頼りに、旅を進める。 誰かが誰かの心の支えになる。 アラゴルンは、胸のペンダントを握り締めた。 (エステル、あなたは前だけを見て、道を開けばいい。 僕は、あなたの後をついていく) *************************************** 映画を意識して書き始めたはずなのに、 気づいたらいつものパターンで終ってた・・・。 我ながら許せないところもあるが、これが精一杯か・・。(泣) 自分の実力の限界に涙・・・。