ロリアン

 

 

 ガラドリエルに保護を求め、受託された。
アラゴルンにとっては、大きな安堵だった。

 ここは安全だ。裂け谷と同じか、それ以上に。
何よりアラゴルンにとっては思い出の地であり、嫌うことはなかった。
愛する女性、アルウェンの故郷。婚姻の約束を果した地。

 それ以上に、ガンダルフを失った心の傷を癒す必要があった。
誰より自分にとって。

 そして・・・アラゴルンは忘れていた。

 大切なことを。

 

 ボロミアのことは、気にはなっていた。
一人樹の下でうずくまり、倦み疲れた表情をしていた彼を見たとき、
さすがに後悔の念が頭をもたげた。
だが、ほかに自分にできることがあったか? 
旅の一行は、休める場所が必要だったのだ。

 エルフは力になってくれる。

 そうアラゴルンは信じていた。

 

 それでも、アラゴルンはもう一度ボロミアと話をする必要が
あるだろうと思っていた。何か、気の利いた言葉の一つでも
思いつくとよいのだが・・・。そんなことを考えながらボロミアに
与えられた寝所に向う。そこにいてくれると助かる。
探す手間が省けるから。

 エルフの灯す薄明りが、森の闇を消している。
そこには、何の秘密も持ちこめない。
すべて、エルフの明りが照らし出してしまう。

 その美しさを、この時ばかりはアラゴルンは呪った。

 ボロミアが寝ているはずの場所から、ゆっくりと起上がったのは
・・・レゴラスだった。

 薄い明りに白い肌が透ける。
レゴラスはアラゴルンの気配に気づいて起上ったのだ。

 隣に横たわるボロミアを愛しげに見下ろし、
そばに投げ出された己の服をつかむ。それから、

「そこに行くから待ってて」

 と声に出さずに唇が形作った。

 

 背を向け、腕を組んでアラゴルンはたたずんだ。
唇をかみ締める姿を、見られたくはない。
背後で息がかかるほどレゴラスの気配を感じてから、
アラゴルンは何気ない口調を装った。

「ボロミアは?」

「寝てる。朝まで起きないよ。子守唄を歌ってあげたからね」

 母親のようなやさしい口調。レゴラスの子守唄は、
一種の魔法のようなものだ。人間を眠りに落す、魔法。

「何?」

 レゴラスは静かにつぶやいた。ここでは、大きな声は必要ない。

「・・・ボロミアと・・・寝たのか?」

「そうだよ」

 さらりとレゴラスは受流した。

「それで、朝まで一緒にいるつもりだったわけだ?」

「それでもよかったけど・・・何を怒っているの?」

「怒ってなど・・・!」

 振り向いたアラゴルンの口元に、レゴラスはそっと指をあてがった。

「声が大きい。場所を変える? みんなが起きてしまうよ」

 一度深呼吸をして、アラゴルンは首を横に振った。

「知らなかったよ、お前が人間の男と肉体を交すような奴だったとは。
エルフには情欲なんてないものかと思ってた」

「何を言っているんだい?」

「ボロミアを愛してるとでも言うのか? それとも快楽が目的か?」

 レゴラスはアラゴルンをじっと見つめ、
その意図を探るように口元をゆがめる。

「どうしたんだい、アラゴルン? あなたらしくない。
でも、どうしても答が必要なら、答えてあげる。ボロミアを愛してるよ」

 愛する女性を持ちながら、どうしてこの男はこんな顔をするのだろう? 
レゴラスは表情を歪めたままアラゴルンを見つめた。

「アラゴルン、あなたにもわかっているはずだ。
ボロミアはとても怯えている。奥方様をとても恐れている。
剛勇な騎士という鎧を剥がれるほどに。あの人の心は純真だよ。
愛する故国を守りたいだけだ。その方法は誤っているとしても。
そして・・・とても孤独なんだ。
ホビットたちを受けいれるほどやさしい心をもっているのに」

「孤独など、弱き者の逃げ口上だ」

「あなたほどに孤独に慣れていない」

 アラゴルンは、ギリッと歯軋りをした。
レゴラスは目を細め、アラゴルンの口元に手を伸ばす。
アラゴルンはその手を払いのけた。

「アラゴルン」

「それでも、ボロミアの考えていることを許してはいけないのだ。
奥方の声が、俺にだって聞えていた。お前もそうだろう? 
しばらくボロミアは本心に目をそむけていたが、
それが消え去ったわけではない。いずれはそれと対決して、
誘惑に打ち勝たねばならぬのだ。
ボロミアの、その弱き心が指輪の誘惑につけこまれるのだ」

「ボロミアは、ゴンドールを愛している。国を守りたいだけだよ」

「方法が間違えていれば、何の意味もなさない。
むしろ窮地に追い込むこととなる」

「ボロミアを、否定するんだね? 奥方様が正しいと」

「奥方は誤った事はしていない」

「・・・・アラゴルン・・・守る故郷を持たないあなたには、
愛する故郷をただひたすらに守りたいと切望する者の気持は、
わからないんだね?」

 ドクン、と心臓が高鳴る。レゴラスはハッとして自分の口元を抑えた。
言ってはいけないことを言ってしまった。

「ア・・・」

「そうだな、俺にはわからない。お前やボロミアのように、
生れ育った国を持たない。フロドの気持さえ、理解できないだろう」

「アラゴルン・・・僕は・・・」

「ボロミアに優しくしてやれ。俺には必要のない優しさだ」

 背を向けたアラゴルンは、足早に立ち去っていった。

 かける言葉を失い、今度はレゴラスの方が立ちすくむ。

「・・・・」

 ひどいことを言ってしまった。アラゴルンの、一番傷つく言葉を・・・。
気丈な男の背に、深い悲しみを覚える。戸惑い立ちすくむレゴラスは、
気配に気づいて振り向いた。

「フロド・・・」

 少し離れた樹の下に、その小さき者はいた。

 思い悩み、悲しい目をしている。

「レゴラスさん・・・アラゴルンと・・・けんかでもしたんですか?」

 一部始終を見られていたわけではなさそうだ。
レゴラスは、か弱く見えるホビットに、できるだけ優しく微笑んで見せた。

「うん、まあ。フロド、君だって仲のよい友達と
けんかをすることはあるでしょう?」

 フロドは曖昧に表情を歪めた。

 レゴラスはフロドの隣に歩み寄り、視線をあわせるように跪いた。

「眠れないのかい?」

「・・・ちょっと・・・目がさめてしまっただけです」

「そう。何か・・・話でもしようか。それとも、すぐに寝る? 
必要なら、歌を歌ってあげるよ。僕にはそれしかできないから」

 穏かなエルフの心遣いに、フロドは力なく微笑む。

「では・・・少し話を」

 フロドもその場に座りこんだ。

 

 静かな夜に、風のようにどこかでエルフの歌が聞える。
美しいところだ。こんな旅の途中で立寄るのでなければ。

「レゴラスさんは、どうして旅の仲間に志願したんですか? 
アラゴルンのため?」

 フロドの問いに、レゴラスが静かに笑う。

「なぜ、そう思う?」

「いつも一緒で・・・仲がいい」

 いつも一緒、か。フロドにはそう見えるだろう。
一緒の旅の間しか、見ていないのだから。

「それも少しはあるけど・・・でも、ちょっと違う。
フロドは、どうして旅を志願したんだい?」

 疲れた表情で少し考え、フロドは「わからない」というように首を横に振った。

「愛する土地を、故郷を、冥王サウロンとその手下たちに
汚されたくなかった。・・・違う?」

 しばらく考え、ゆっくりとうなずく。
ビルボの屋敷でガンダルフに真実を告げられたとき、
いても立ってもいられなかった。ホビット村に魔物がやってくるなんて・・・
許せるはずもない。

「僕も同じだよ。サウロンが指輪を手にすれば、必ず僕の国も滅ぼされる。
ホビットたちと違って、少しは戦う準備はあるけど、
とうてい勝てるものじゃない。だから僕は指輪を葬る旅に志願したんだ。
それはね、ボロミアも同じ。みんな思うところは一緒なんだ。
たどろうとする方法が違うだけ」

 ボロミア・・・力の指輪を欲する者。彼は危険だと、
ガラドリエルは言う。その言葉が、胸に楔を打ちこむ。

 彼を、決して嫌いなわけじゃない。必死になって、フロドを、
仲間を、助けようとしてくれた。メリーやピピンに向けたあの笑顔は、
真実だと信じたい。

「どうして・・・ぼくなんでしょう? ガンダルフには、運命を受入れ、
先のことを考えろって言われたけど・・・どうして・・・力ある大きい人や、
エルフや、ドワーフではいけないのでしょう?」

「それはね・・・」

 レゴラスはそっとフロドの胸元に指を伸ばした。
フロドはびくっとして身を引く。胸元に触れる前に、レゴラスは指を止めた。

「力ある者は、指輪に触れることができないからだよ」

「みんな・・・ガンダルフでさえ、指輪に触れようとしないんです」

 レゴラスはすばやい動きでフロドの腕をつかみ、
逃げられないようにしてその胸に手のひらを押し当てた。
驚いたフロドが目を見開く。レゴラスは、一度だけ苦痛に表情を歪め、
とても熱いものに触れたように体を離した。

「僕は触れる」

 フロドは唇を開き、レゴラスを見つめた。ガラドリエルでさえ、
触れようとしなかった指輪・・・。

「どうして・・・」

「僕は、力の指輪を否定しているから」

「それはみんな同じではないのですか?」

「違う」

 フロドは、一瞬背中に冷たいものを感じた。
レゴラスの瞳が、見えない何かを射抜いたように見えたからだ。

「力の指輪は、ひとつじゃない。サウロンの指輪以外は、
失われてしまったか、隠されてしまっただけ。
指輪の力を恐れるのは、その力を知っているから。
たぶん、よい方法に使っているのだとしても。
だからみんな、指輪に触れない」

「レゴラスさんは、どうして触れることができると?」

「僕の父、闇の森の王は最初から指輪の力を否定しているから。
確かに苦痛ではあるけど、指輪の力に惑わされたりはしないよ」

 指輪の誘惑が、みんなをばらばらにする・・・
その言葉が、また頭の中を巡る。

「心配しないで、フロド。僕は指輪の誘惑を受けない。
アラゴルンは誘惑に打ち勝てる。ギムリはそんなものに興味はない」

「ボロミアさんは・・・?」

 ボロミア、その名前にレゴラスの表情が曇る。
レゴラスも、知っているのだ。彼の本心を。

「・・・フロド、少しだけ、彼を信じてあげて。
ボロミアは・・・君と同じように愛する故郷を守りたいだけなんだ。
僕たちも、できる限りのことはする。時間が・・・欲しい。
そんなものがなくても、自分の国は守れると、
ボロミアに教えてあげるだけの時間が」

 フロドは胸元を握り締めた。

「君を苦しめたくない、フロド。僕にできることがあれば、言って」

 服の下の指輪の感触を、そっと放す。フロドは思う。
旅の仲間が、好きだ。アラゴルンも、レゴラスも、ギムリも・・・
ボロミアも。もう、誰も失いたくない。誰も・・・。

 顔をあげたフロドは、明るさを取戻した表情で笑んだ。

「アラゴルンと、仲直りしてください。ぼくは・・・
みんなのことが好きなんです」

 そうだね、とレゴラスも微笑んで見せた。

「ありがとう、フロド」

「お礼なんて・・・」

「君の強さに、僕は救われる。お礼に面白いことを教えてあげるよ」

 レゴラスはフロドの耳元に唇を寄せた。

「僕の父、スランドゥイルはね、ガラドリエルの奥方を好きじゃないんだ。
言っていることは理論的かもしれないけど、感情的に受入れられないって」

 理知的な奥方を否定されて、フロドが驚いた表情をする。

「もっとも、父はエルロンド卿も好きじゃないけどね。
偏屈な王だと言われているけど、僕も父の言葉を半分は信じているよ」

「それは・・・」

「だから、一番信じるのは自分だよ、フロド。自分の心」

 レゴラスは優雅なしぐさで立ちあがった。

「僕はアラゴルンと仲直りしてくるよ。お休みフロド、よい夢を」

 ロリアンの薄明りに透けるレゴラスの後姿を見送りながら、
フロドはもう一度胸の指輪に手を当てた。

「ありがとうございます、レゴラスさん」

 静かにつぶやいて、フロドは自分の寝床に戻っていった。

 信じよう。旅の仲間を。仲間を愛する自分の心を・・・。 

  








                              アラゴルンとの仲直り編に続く・・・らしい。