とろとろとした、うつろなまどろみの中で目を覚ます。 眠っていたのだろうか? 夢を、見ていた。 憧れの森のエルフ。 わがままを言うと、ちょっと困った顔をするんだ。 それでも、要求を拒絶されたことはない。 それがどんな、要求であっても。 いつしか、自分の要求の先回りを、いつもするようになっていた。 会いたいと切望した時、 偶然を装って、彼は現れたりした。 完全に、依存していたのだと思う。 振向くと、そこにいるのがあたり前になっていた。 「俺は、どのくらい寝ていた?」 訊ねてみると、隣に横たわっていたエルフが歌うように囁く。 「さあ。エルフは人間の時間を数えることはできない。そうだね、たぶん、三年くらい」 アラゴルンは苦笑して体を起した。 「夢を見ていた、のかな。重たい国王という外套を羽織っている夢」 レゴラスも起き上がり、アラゴルンに服を手渡す。 「さあね。なら僕も、夢を見ていたよ。あなたが約束を守る夢。 ・・・もし夢なら、覚めて欲しくないけど」 「約束?」 薄いシャツに腕を通すレゴラスを見つめて、問い返す。 「僕を種族という束縛から解放してくれる約束。忘れた?」 あの時の、口約束。 あれも、そのときだけのわがままと、受けとめられているのかと思っていた。 「その場かぎりの慰めでも、僕は嬉しかったよ。 べつに、約束を守って欲しいとは思わなかったけど」 「信用されていないんだな」 「あなたがそれを叶えてくれなくても、全然かまわなかった。 約束なんかに束縛されなくても、僕はあなたから離れるつもりはなかったからね」 そう言って、レゴラスは空を見上げた。陽が傾きはじめている。 「あなたに甘えていたのは、僕の方だ。 あの谷で、子供だったあなたは、僕の安らぎだった。 利用していたのは僕の方だよ。重苦しい現状から逃避するための。 あなたを甘やかすのは簡単だったし、 スランドゥイルの使者として、シンダールの王子として僕を見ないあなたは、 僕の救いだった。あなたに必要とされなくなることが、怖かった。 僕の存在意義が失われそうで。求められることが嬉しかった。 あなたがアルウェンに恋をしたとき、きっと僕はもう必要なくなるのだろうと思っていた。 そんな時、あなたが口にした約束事は、たとえ戯れでも、僕の心の糧となった。 エステル、卑怯なのは僕の方だよ」 思いがけない告白に、胸が高鳴る。 「俺は、俺の一方的なわがままだと思っていた。お前は、弱音を吐くことがなかったから」 「でもあなたは、わかっていた。僕が本当は何が欲しかったのか」 長いエルフの歴史の中で築かれた、それぞれの国。過去の諍いから、続くいがみ合い。 そんなくだらないことから開放されて、好きに逍遥できる場所を、求めていた。 「あなたが与えてくれたんだよ、僕に。 あなたは、人間の過ちである指輪を葬り、人間の国を統治し、 アルウェンとの約束を果し、僕の願いも叶えてくれた」 「俺ひとりの力じゃない」 「でも、あなたがいなければなしえなかったこと」 そんな風に褒められて、照れて視線を落す。 「あなたは今、自分の偉大さを忘れてしまっているんだ。 窮屈な宮殿に閉じ込められているとか、 アルウェンからエルフの時間を奪ってしまったとか、 そんなことばかり考えているのでしょう? それで、疲れてしまっているのでしょう? ねえ、エステル、あなたは忘れているんだよ。 僕も、アルウェンも、今とても幸せなんだ。あなたのおかげでね」 溜息をついて首を横に振ると、レゴラスはアラゴルンの頭を抱き寄せた。 「愛しいエステル。あなたは自分に注がれてる愛の偉大さに、気付いていない。 愛しているよ」 「レゴラス、・・・お前はいつも、俺の求めている言葉をくれる」 手を離して視線をあわせ、レゴラスは昔と変らない表情で微笑む。 「あの谷で、僕を救ってくれたのはあなただよ」 「お前が中傷されるのを見ていられなかっただけだ」 「でも、あの顧問たちに喧嘩を売るなんて、あなた以外、誰もできないことだからね。 それに、スランドゥイルに頭を下げてくれた。 父が態度を軟化させるなんて、あなたとガンダルフくらいなものだよ。 父は頑固で、僕の言う事だって聞きはしないもの。 どれだけ嬉しかったか、わかる? あなたのためになら、死んでもいいと思うくらいにだよ」 「よしてくれ。俺は、自分の都合でお前を抱く、ずるい男だ」 「わかってないね。本当に嫌なら、僕はいつだってあなたの腕を抜け出せるんだよ? 本当にわかっていなかったの? 僕があなたを求めていること」 あわせた視線の先で、レゴラスは狡猾に微笑む。 「俺をけしかけていたのか? 役者だな」 「あなたを利用していたのは、僕の方だって、言ったでしょう?」 顔を寄せ、そっと唇を重ねて、アラゴルンもニヤリと笑う。 「どこまでが本当で、どこからが嘘なんだ?」 「エルフは嘘はつかないよ。僕はあなたに嘘をついたことはない。 言わないことはたくさんあったけど」 「この際、是非聞きたいね。そのとりすました顔で、何を考えているのか。 身体を重ねている時、お前は嫌なのを我慢しているのだと思っていたぞ」 「いつ僕が、嫌だって言った?」 「じゃあ、感じていたのか?」 「それは言えないよ。アルウェンに申し訳ないもの」 無邪気に笑うレゴラスを押倒し、今着たばかりの服を剥ぎ取る。 「もう一度しよう。クールなふりはなしだ」 「若いね」 「お前に欲情するんだよ」 「アルウェンにも、同じ事をするの?」 「まさか。俺は、愛する妻には優しい」 レゴラスは笑いながらアラゴルンを抱しめた。 夜の帳の中で、眠るアラゴルンを見下ろす。愛しげにその髪を撫でる。 「僕はエステルを愛している。貴女を裏切ることになっても」 (いいえ、レゴラス、エステルも、私を裏切ってなどいないわ。 あなたは私に、妻という座を与えてくれた。エステルを愛しているわ。 あなたを愛しているエステルをね) 心に響く、その言葉に苦笑する。 「強い女性だ」 (これ以上、何も求めるものなどない。 だって、エステルは私のところに帰ってきてくれるもの。 辛いのは、あなたの方ではなくて?) 「辛くはないよ。いいや、あなたがいてくれることが、嬉しい。 僕は、貴女のように強くはなれないから」 (私たちが結託しているって、知ったら、エステルは怒るかしら?) 「さあ」 レゴラスは苦笑する。 「でも、もう少し秘密にしていよう。 エステルが困った顔をするのを見ているのは、楽しいもの」 (そうね) 「おやすみ、アルウェン。明日には、エステルはあなたのところに帰るよ」 (おやすみ、レゴラス。またたまに、彼を抱いてあげてね) 朝日が昇る。 白み始める空に、レゴラスは賛美の歌を歌った。 その歌声に、アラゴルンも目を覚ます。 「おはよう、エレスサール」 数羽の小鳥を肩に乗せたレゴラスが微笑む。その姿に、アラゴルンも笑みをもらす。 「鳥たちは、よほど森のエルフ王が好きとみえる」 人間が目を覚ましたので、鳥たちはそれぞれに飛立っていった。 「僕はまた、少し旅に出るよ。あなたを見ていたら、ビヨルンに会いたくなった」 「俺は、熊に似ているか?」 「その髭がね」 伸びた髭に手をやり、アラゴルンが顔をしかめる。 「森の外まで送るよ。ファラミアによろしく。またいつでも遊びに来てと伝えて」 「浮気をするなよ」 「ファラミアはあなたの様な浮気性ではないよ」 ムッとした表情をするアラゴルンに、レゴラスは笑いながらキスをした。 身体が、軽くなったのを感じる。 3年ぶりに会い、たった一晩身体を重ねただけで、こうも癒されるものなのか。 会わない月日を数えることは、無意味だ。 それまでだって、常に一緒にいたわけではない。 長い時で10年近くも会わないでいたときがある。 それでも、彼は変らずの笑顔で迎え、受入れてきてくれた。変らないことが救いだ。 そんな関係を、これからもずっと続けるのだろう。 そう、死ぬまで。 自分には自分の生き方があり、彼には彼の生き方がある。長い道を歩いていく。 時には離れ、時には重なり。 一緒にいる時間が最も長かったのは、指輪を滅ぼす旅だった。 あんなに長い時間、共に過した時はなかった。 不思議なことに、その間自分は彼の身体を求めることはなかった。 それがあたり前で、不満はなかった。 もしまた一年も共に過したら、きっと自分は彼を抱かないだろう。 必要になれば、そうするかもしれない。 立ち止って考えてみると、今の関係に満足していることに気付く。 お互い、会いたくなった時に会い、そうしたい時に身体を重ねる。 それぞれ、自分の道を歩みながら。 それが、自分に与えられた「自由」だ。 この先も、ずっとこの関係が変ることはないだろう。 また何年か先、ふらっと会いに来て、(そのときは身体を重ねないかもしれない) 何時間かを共に過し、また約束もなく別れる。 そんな深い絆。 約束など、必要のない絆。 終りのない、絆。 愛は、死ぬことがないのだと。 この命と共にあるのが愛ならば、決して死ぬことはないのだから。 愛する妻の元に帰る足を止めて、空を見上げる。 彼女を幸せにすることが、彼を幸せにすることに繋がる。 揺らいだ心で、愛するものを不安にさせてはいけない。 自分は、導き手なのだから。 「お早いお帰りでしたね」 ファラミアの城に着くと、城主は意外そうな顔をした。 「せっかくの休暇だ。残りは妻とのんびり過そうと思ってね」 それは本音だった。レゴラスが旅に出るなんて言い出さなくても、 一晩で戻る予定だった。それだけで、十分満足できることはわかっていた。 「レゴラス殿とお会いになれましたか?」 「ああ、気まぐれなエルフ王と、一晩中話をしたよ。 木や鳥の話には、いいかげん飽きたがね」 ニヤリと笑って見せると、ファラミアは苦笑した。 「私も、何度か会って話をしました。兄の、ボロミアの話です。 不思議ですね、あの方と話をしていると、兄がまだ生きているような錯覚に囚われます。 生きて、どこかで幸せに暮しているように思えるのです。 そう思えることに、私は救われます」 「エルフに人間の死は理解できないのだろう。 レゴラスにとっては、ボロミアは本当にどこかで生きているのだろうさ。 たとえそれが、心の中であっても」 ファラミアは、愛していた兄を想い、憂いだ笑みを見せた。 「邪魔したな。また来る」 「ええ、いつでも歓迎いたします」 ゆっくりできると思い込んでいた従者を急かし、 アラゴルンは愛する妻の元に馬を走らせた。 王の帰還を聞いたアルウェンは、城門まで迎えに来ていた。 「おかえりなさい」 満面の笑みで、王妃は王を迎える。その肩に、一羽の鳥が乗っていた。 「よく、俺の帰りがわかったな」 アルウェンは悪戯っぽくクスクスと笑った。 「姫が、知らせをもたらせたのか」 視線を小鳥に移すと、つぐみは小さくさえずって、大空に羽ばたいていた。 遠く、イシリアンの森を目指して。 「疲れはとれました?」 「ああ、すっかりね」 従者を従え、並んで歩く。 「鳥は、どんな知らせを持ってきたのだ?」 「レゴラスからの伝言よ。寄り道をしなければ、すぐにあなたが帰るでしょうって」 おかしな話だ。レゴラスとアルウェンは、会うことがないのにお互いに通じている。 エルフは、言葉に出さない会話をできる。二人が親密であることはわかっていた。 裂け谷で過していたアルウェンは、闇の森の使者を常に気遣っていた。 自分が育ったロリアンのエルフたちと、同じ種族に属するレゴラスを、愛でていた。 レゴラスも、よくアルウェンと話をしていた。 自分が訪れたことのないロリアンの話を、好んで聞いていた。 アルウェンには、どこかに罪悪感があったのかもしれない。 シルヴァンの民は、シルヴァンに返すべきだと、考えていたようだ。 シルヴァンに同化しようとしたシンダールの王を、尊敬するとも話していた。 でも、ガラドリエルが悪いわけではない。彼女の愛情が、ロリアンの森を守っている。 レゴラスはそう話した。何がよくて、何が悪いのか。すぐに判断することは愚かだと。 でも結局、スランドゥイルが正しかったのだろう。 ノルドはこの地を去り、シンダール王家のケレボルンがスランドゥイルと和解し、 昔の闇の森、今の緑森を統治している。レゴラスはアルウェンに、同情さえしていた。 己の血族はスランドゥイルを筆頭に皆この地に残っているのに、 アルウェンの一族は大半この地を去ってしまった。双子の兄たちと会うことは久しくなく、 ケレボルンと会うこともないだろう。それこそ、辛い選択を選んだのだから。 アルウェンには、アラゴルンしかいない。人間との愛に生きる道を、選んだのだから。 「おかしいのよ。レゴラスが、私のことを心配して使いの鳥をよこすの。 そのたびに私は、私は幸せだから心配しないでって返事を返すのよ。 ええ、本当に、私は幸せだわ」 それでもアルウェンはわかっている。いつかはこの幸せが終ることを。 愛する人間の、死をもって。そのとき、自分も死ねることは、やはり幸福なのだろうか。 アラゴルンの全てを手に入れた自分は、その喪失の悲しみも荷う。 アラゴルンを手放したレゴラスは、 きっとアルウェンのような喪失感を味わうことはないだろう。 どちらがより幸福なのかは、判断できない。 ただ、歩む道が違うだけ。 「俺も幸せだ。美しく聡明な妻を手に入れてね」 「それに、永遠の友情」 誰のことを言っているか、すぐにわかる。 「・・・そうだな」 苦笑してみせる。アルウェンは、何もかも、お見通しだ。 「アルウェン、君が俺の帰るところだ」 「わかっているわ」 あんなに離れていたのに、今は重なった同じ道を歩いていく。 王妃の肩を抱き、王宮に向う。 「さあ、残りの休暇を楽しもう」