レゴラスは、何も変らない。

 はじめて会ったときから。

 美しい金糸を細く編み、風に揺らせながらゆっくりと歩く。

 いつも何か歌を口ずさんで、他愛のないことを言って笑う。

 あれは、どれくらい前のことだったのだろう?

 50年か、100年か、もっと昔か、もっと最近か。

 腕を掴み、自分の方を向かせ、顔を寄せてキスをせがむ。子供のように。
軽く唇が触れただけで、レゴラスはクスクスと笑ってアラゴルンを押し戻した。
初めてキスをしたときのように。

 森の木々がざわめく。

 笑っている。

「僕に付きまとうんじゃないよ。あっちへ行っていなさい。
西の斜面に木苺がたくさん実ってる。一粒も無駄にしないで摘むんだよ。
ワインを造ってスランドゥイル王に献上するのだから」

 風がいっせいに、西にむかう。そして、沈黙。鳥のさえずりだけが空に響く。

「人間をからかうのが好きなんだよ」

 おかしそうにレゴラスは笑う。

 姿を見せない、森の陽気なエルフたち。
あたり前であったはずなのに、そんなエルフの本来の姿を見ることは、
アラゴルンには珍しい。アラゴルンが擁護されていたノルドの谷では、
剣と本の匂いが、いつもしていた。

「スランドゥイルの国と一緒でね、ワインを飲んで歌って踊って・・・そんな毎日だよ」

 うらやましいかぎりだ。城にいるときは感じなかったが、
この森に来ると、あの薄暗闇がどれだけ重苦しいものであるか実感させられる。
両肩に、のしかかる重責。

 あてもなく(と思われる足どりで)森の中を散策する。
レゴラスは時折木々を見上げ、そのいくつかに登っていった。
アラゴルンが見上げると、葉陰に小鳥の巣が見える。

「・・・・卵の数がたりないね」

 レゴラスは、小鳥と顔を突き合せていた。

「そう・・・・カケスにやられたの。・・・・・はしが壊れているよ、直してあげる」

 小鳥のくちばしのように細い指が、巣の端を整える。

「・・・ああ、あれ? あれは、人間の王だよ」

 本当に会話をしているのか? 訝しがるアラゴルンの目の前に、
その小鳥が飛んできて、低い木の枝に留った。

「エレスサール、つぐみの姫だよ。挨拶を」

 木の上から、レゴラスが笑いながら言う。からかっているのか。
否、そうとも言えまい。アラゴルンは小鳥に仰々しくお辞儀をした。

「人間の国、ゴンドールの王、エレスサールです」

 つぐみは小さくさえずり、挨拶をするようにアラゴルンの肩にとまり、
その耳を軽く噛んで巣のある枝に戻っていった。
そして、またそこにいるエルフと笑いあう。
枝から下りてきたレゴラスを両腕で抱きとめ、アラゴルンは巣を見上げた。

「姫は、なんと?」

「感じのいい人間だって」

 また歩き出すレゴラスの背をついて行く。

 今度は大きな木の根元にしゃがみこみ、
レゴラスはそこに覆い被さっている草の葉をどけた。

「枝をもう少し東の方に。陰になって若芽が育たないよ」

 小鳥の次は、木か。押しのけられた枝は、そこで固定された。

「ファンゴルンの森に行ったんだ。エントに会いたくてね」

 立ち上がったレゴラスが笑う。

「ギムリも一緒にね。エントの話は、本当にゆったりしているんだよ。
自己紹介だけで一晩かかってしまた。ギムリは呆れて、途中で寝てしまったよ」

 思い出したように、手を口にあてて笑う。

「いろいろなことを教わった。若い樹の育て方とか。
僕の知らないことは、本当にたくさんあるんだね。ケレボルン様にも会ったんだよ」

 少し開けたところに咲きほころぶ花を指差す。

「花の種をいただいた。かつてのロリアンのように、
永遠に咲かすことはできないけど、年毎に種をつける」

 そうやって、エルフは森を守っていくのか。

 かつては戦場だったこのあたりに、今はその傷はない。

「少し休もうか。この先に泉があるから」

 森を守るエルフ王は、清らかな水をたたえる小さな泉に人間の王を導いた。

 

 ぐるりと周囲を木々に囲まれ、泉から湧出た水は小さなせせらぎとなって流れ出している。
そこでアラゴルンは、水を両手ですくって飲んだ。どことなく、木の香がした。

 一息ついて見上げると、レゴラスがするりと服を脱いで泉に足を浸している。

「泳ぐ?」

 まだ早い午後の日ざしに、白い姿態が輝く。

 まるで一匹の魚のように、レゴラスは泉の中にもぐっていった。
彼が泳ぐ姿は、はじめて見た。それは、あまりに無防備だ。泳げるとは聞いていたが。

 泉の真中で顔を出したレゴラスが、水滴をあげて片手を出す。

 おいで、と。

 アラゴルンは微笑みながら首を横に振った。
泉の水は冷たく、その中で泳ぐほど自分は若くはない。そう、この頃は、老齢さえ感じる。

 顔を出したままレゴラスは泳いできて、
ブーツを脱いで足だけ浸しているアラゴルンの手をとった。

「泳ぎ方を教えてあげるよ」

 まるで・・・・まるで、幼きエステルに話しかけるように。
自分だけが年老い、エルフはまったく変らない。それは、悲しくもある。

「俺は、お前のように永遠を生きていない」

 言葉の意味がわからないように、レゴラスはちょっと小首をかしげて、
腕をひっぱってアラゴルンを泉の中に落した。

「レゴラス!」

 怒りながらも、笑う。

「あとで暖めてあげるから」

 乱暴だが器用にアラゴルンの重苦しい服を取り去り、泉のほとりに投げる。
アラゴルンは観念し、残りは自分で脱いで、やはり投げた。

 思っていたほど、水は冷たくはない。何故だろう? 
この森の木々の、優しさだろうか。

 時間が、止った気がした。幼い頃、あの谷で、
レゴラスとはしゃいで走り回った記憶を思い出す。
その懐かしさに支配されると、驚くほど身体が自由に動いた。

 何の束縛もない水の中で、気がすむまで泳ぐことができた。

 自由というのは、こういう感覚のことを言うのか。・・・・知らなかった。

 

 やがて二人は水から上ると、
レゴラスは先ずアラゴルンの濡れた服をひろげて風に乾かし、
それから暖かな日ざしに身体を乾かすアラゴルンの隣に座った。

 言葉もなく、日のぬくもりと風が揺らす木の葉の影に身を任せる。
アラゴルンは目を閉じて、レゴラスが口ずさむ歌に聞き入っていた。

 いろいろ考えていたことが、綺麗さっぱり、泉の水に溶けてしまったようだ。
頭を悩ませていた人事も、外交も、今はどこか遠くに行ってしまった。

 ふとレゴラスの歌が止み、唇に触れるものを感じて目を開けると、
少し心配げにレゴラスがアラゴルンを覗き込んでいた。

「冷えてしまったようだね」

 言われてみれば、いつもは冷たく感じるレゴラスの指先が、ほんのりと温かい。

「暖めてくれるのだろう?」

 冗談ぽく言って見せると、レゴラスは深く微笑んだ。

「そうして欲しいのなら」

 滑らかな肌を重ねて、そっと囁く。

「レゴラス・・・・・」

 腕を上げて抱しめ、唇を重ねる。

 いつからだろう、彼と身体を重ねるようになったのは。
彼はいつも受動的で、求めれば受入れてくれる。
疲れたとき、激しく気持が高揚した時、孤独感を感じた時、道に迷い困惑した時・・・・。

 暖めてあげる、眠らせてあげる、・・・・そう言って、受入れてくれる。

 情動のままに貪るように抱いた時もあった。
触れるだけで安心して、その腕の中で眠りについたこともあった。
どれも、懐かしい思い出だ。

 振向けばいつもそこにいて、そこにいてくれることがあたり前で、
その存在にいつしか依存し、甘えていた。

 アルウェンとの恋も、彼女との結婚も、
・・・・レゴラスにはどう映っていたのだろう?
自分を抱く男が、自分ではないエルフを選んだ。

「アルウェンが・・・・お前によろしくと」

 胸の上のエルフに告げると、レゴラスはアラゴルンの唇を指でなぞった。

「うん。アルウェンから便りが届いたよ。時々、彼女は鳥たちに伝言を頼むんだ。
あなたがとても疲れていると、心配していた。
アルウェンは、自分があなたを縛り付けているのではと、心を痛めている。
あの時、あなたに出会わなければ・・・・と」

 彼女に心配をかけてしまうほど、自分は情けない男だったのか。
アルウェンを思うと、胸が苦しい。

「俺は、アルウェンを・・・・・」

「愛しているんだね?」

 レゴラスは、アラゴルンの裸の胸に頬を乗せた。

「僕はきっと、もうアルウェンに会うことはないだろう。
彼女は、人間と運命を共にできる恩恵を持っていて、
僕は彼女が得られることのない自由を持っている。
違う道を、歩いているんだよ」

 一人の人間を愛してしまったという接点を除いて。

「僕らは、長い長い道を歩いていく。時にはゆっくりと、時には駈足で。
道が交わることもあるし、離れてしまうこともある。
運命の前に、後悔なんて言葉に意味があるのかな。僕は満足している。
ねえ、エステル、あなたもわかっているのでしょう? 
もし、あなたがアルウェンと出会わなくても、僕と共に生きることなど、
なかったってこと。もしそうなっていたら・・・・僕はきっと、
あなたが死んだとき、自らマンドスに赴いて、
アルダが終りを告げるまで泣き暮していただろう。
でも、あなたにはアルウェンがいる。それが僕にとって、どれだけ救いになるか。
アルウェンは、あなたを愛し、あなたに愛され、あなたの子供を産み、
あなたの血を繋げていく。そんな大きな喜びを持っている。
同時に、あなたを失う大きな悲しみも背負う。そのどちらも、僕にはない。
それは、幸せなことかもしれない」

 人間の男の胸に抱かれ、目を閉じる。

「あなたを愛しているよ、エステル。
永遠の愛なんてものは、どちらかが死ぬことで終るわけじゃない。
愛が生命そのものであるとき、愛が死ぬことはないのだからね」

 ゆっくりと体を起したレゴラスは、アラゴルンを見下ろした。

「服を着る? それとも、身体でぬくもりを確めたい?」

 アラゴルンは、小さく笑う。

 不思議だ。

 アルウェンといるとき、彼女とベッドを共にするとき、「愛したい」と思う。
「愛し合いたい」と。なのに、レゴラスといるときは・・・・

「抱きたい」

 肉体の欲望が先行する。

 いつしか年老い、身体が動かなくなっても、きっと同じ事を望むだろう。
そして、レゴラスはそっとよりそってキスをしてくれる。
激しい情交ではなく、ひとつの愛の形として。

「僕の中に、入りたい?」

 子供のように尋ねるレゴラスの、悪戯な唇を噛み、笑いながら押倒す。

「ああ、めちゃくちゃに・・・な」

 子供の過ぎた悪戯のように、全身を舐めまわしてやりたい。

 

そうだ、レゴラスといるとき、自分は、失った子供時代に戻れるのだ。

 人間にしてエルフに育てられた奇異な運命をもつ子供。
その血筋と運命がゆえに、「子供」であることを拒まれた、子供時代。

 滅多に笑うことのない養父。

 躾に厳しい、ノルドの顧問たち。

 そんな中で、彼だけがエステルの使命も運命も関係なく、
子供の無邪気さで扱ってくれた。シンダールの王子は、子供だと影口を叩かれながら。

「シルヴァンのエルフは、陽気なんだよ」

 本来なら父方の血筋を重んじ、
遠きシンゴル率いるシンダールの一族であることを誇りにするはずなのに、
なのに、レゴラスは母方の家系、森のシルヴァンと己を呼んでいた。
もちろん、エルロンドらの前では、シンダールの王子であったが。

 そんな彼に甘え、己をさらけ出し、あるがままの要求をぶつけてきた。

 孤独も、不安も、怒りも、悲しみも。

 そんな中から、レゴラスが取った方法は
・・・・そう、エステルの運命を変えてあげることができないなら、
せめて一時だけでも肉体に安らぎを与えること。

「母が、そういうやり方しか知らないヒトだったんだ」

 傷ついたシンダールの新しき王を慰める為、献身的に愛を捧げた女性。

「僕は、母に似ているのかもね」

 そんなことを話し合った時代を、思い出す。

「母は父を愛していたから」

 彼女が、王妃としてスランドゥイル王の隣に座ることは、なかったと聞く。
シンダールの王の心の傷をその胸に抱き、彼女はアマンへと去ってしまったから。

 優しい思い出を話すように、レゴラスは教えてくれた。

「エステル、歌を歌ってあげるよ。眠れるようにね」

 

 自分が何者であるかも忘れ、貪るように白い姿態を舐めながら、
アラゴルンは己の情動の激しさを知る。

 忘れていたものが、蘇ってくるように感じる。

 王宮の外を、自由に歩きたいという願望の愚かさを、知る。

 アルウェンを繋ぎとめてしまったという、後悔の愚かさを知る。

 

 俺は、自由だ。

 

 胸をはって、この道を歩く。

 

「レゴラス・・・・レゴラス」

 体内をまさぐりながら、乱れた髪を指に絡めてその名を呼ぶ。

「愛している」

 目を閉じ、彼を包んで、身体の内側からその存在を感じていたレゴラスは、
うっすらと瞳を開いて、かすかに微笑んだ。

「・・・・・うん」