「お疲れのようね」

 寝室に入るなり溜息をついたその男に、美しい黒髪のエルフは言った。

 部屋着に着替え、鏡台の前で髪を梳いている。

 男は少し笑って見せ、ブーツを脱いでベッドに横になる。
着替えもしないその男に、黒髪のエルフはそっと近付き、唇にキスをする。

「大丈夫だ、アルウェン・・・・」

 呟いて男は、また小さく溜息を漏らす。

 

 王位について三年。

 まるで全力で走り続けているようだ。

 することは山ほどあり、考えるべきことも山ほどある。

 宮殿の修復も済み、少しずつ周りが見えてくる。
すると、ふと自分にはこんなにも自由がなかったのかと気付く。

 常に人の目がある。

 王なのだ。あたり前のことだ。

 誰もが、彼の一挙手一投足を見つめる。
その言葉の一つも漏らすまいと耳を傾けている。

 一人になれる時間が、まったくない。

 夜遅く寝室に戻ると、美しい王妃が彼を待っている。

 結婚を、どれだけ待ち望んだことか。

 一緒にいられる時間を、いとおしいと思う。

 

 それでも時々、

 一人になりたいと願う時がある。

 

 それまでの生活と、あまりに違いすぎる。

 荒野を彷徨っていた時の彼は、常に一人だった。
時には仲間と共にいたが、だが、基本的には一人だった。

 少し前のそんな時間を、懐かしんでしまう自分がいる。

「休養を取られたら?」

「そんな必要はないし、そんな時間もない」

 王妃の慈しみの瞳は、今の彼には痛い。

「もう三年、あなたは少しも休んでおられません。息抜が必要なのではなくて?」

 三年・・・。彼女の口から出るその年月に、おかしさを感じる。

「君も、人間の年月を数えるようになったか」

 エルフには、人間と違う時間が流れている。アルウェンはクスリと笑った。

「人間の王の妃ですもの」

 そうか。そうだったな。彼女から、エルフの時間を奪ってしまったのは、自分だ。

「後悔・・・しているのか?」

「とんでもない!」

 アルウェンは、もう一度愛しい男の唇に触れた。

「でも、あなたには休養が必要だわ。イシリアンに行っていらしてはどう? 
ファラミア殿のところに」

 男は、じっと天井を眺めた。

 イシリアン。エルフの住む森。

「一週間くらい。ええ、そのくらいのお休みは必要よ」

「君も一緒に?」

「いいえ」

 アルウェンは微笑みのまま答えた。

「いいえ、殿、あなたには一人になる時間が必要なの。私はこの城に残ります」

 ベッドに横たわる男を残し、窓辺に行き、夜空を見上げる。

「美しい星だわ。ゆっくりと眺めてくるとよろしいわ」

 振向いたアルウェンは、儚げに微笑んだ。

「イシリアンのエルフ王に、宜しくお伝えください」

 

 

 

 たった一週間の休養を取るため、ゴンドールの王はひと月を費やした。

 数人の供だけを連れ、イシリアンに赴く。
領主ファラミアは、王を快く受入れてくれた。
そこで一晩を過し、従者をファラミアの城に残し、その男は一人森にむかった。

 エルフの住む、その森へ。

 

 

 

 美しい森だ。

 ファンゴルンの森ほどの濃い空気は感じられないが、そこには清々しさがある。

 安らぎがある。

 静かな森だ。

 鳥たちのさえずりに身を任せながら、森の奥に足を踏み入れる。
思えば、王位についてからこの森を尋ねるのは初めてではなかったか。

 風のささやきを耳に感じる。

 ひどく、懐かしい。

 そう、普通の人間なら、小鳥のさえずりか、風の囁きと感じるだろう。
だが自分は、幼少の頃エルフの谷ですごして来た。エルフ語には精通している。

 足を止めて周囲を見回すと、風に木の葉が揺れている。

「森のエルフ王は何処に」

 静かに言葉を口に出す。と、一瞬風の囁きが止んだ。

「エルフ王は何処」

 エルフ語でもう一度尋ねる。
今度は、風の囁きが強くなり、それは意味をなす言葉として耳に届いた。

「人間が森にやってきた」

「人間の王がやってきた」

 笑いさざめく風。姿を見せない森のエルフたち。

「森のエルフ王は、風に乗る一片の木の葉。いまは何処を舞っていることか」

「緑森のお父上、スランドゥイル様のところ」

「ケレボルン様のところ」

「山の下のドワーフのところ」

「古き森の牧舎、エントのところ」

「主を無くした、エルフの谷か」

「丸い穴に住む、ホビット達のところか」

「エルフ王は、風に乗ってどこまでも」

「自由の民、シルヴァンの王は、今何処」

 笑うような歌声。アラゴルンは溜息をついて見せるが、それは呆れではない。
むしろ、心安らぐなぞなぞ遊び。

「ここには、おしゃべり好きのつぐみと、いたずら好きのリスしかいないようだな。
王は不在か」

 もう一度問うてみる。風はアラゴルンを取り囲み、クスクスと笑った。

「その名をお呼びなさい、人間の王よ」

「エルフの友よ」

「さすれば、エルフの王は現れる」

 胸が静かに鼓動を打つ。

 目を閉じ、深呼吸をし、忘れもしない、その名をそっと、口に出す。

 

「レゴラス」

 

 一陣の強い風が吹いて、森のざわめきが止んだ。

 アラゴルンが目を開けると、

 そこに、あの笑顔。

 懐かしい。

 もう、百年も見ていなかったような気がする。

 変らない、笑顔。

 エルフ王は、やわらかな風に乗って、アラゴルンの前に舞い降りた。

「エレスサール」

 アラゴルンは、恭しくエルフ式の挨拶をした。

「イシリアンの森のエルフ王。お目にかかれて光栄です」

 同じ挨拶を、そのエルフ王も返す。

「ゴンドールの人間の王、よくいらしてくださいました」

 

 胸の中が、透通っていく。