その男の、焼付くような瞳の色を、忘れられない。

 

 

 

 それは、最後の進軍・・・になるはずであった。

 エルロンドは馬を駆りたてた。

 連合軍の指導者であり、彼の師であるギル=ガラドの
行く手を確保するために。

 そして、そこで目にしたのは、シルヴァン・エルフたちの
無残な姿であった。

「引けい!」 

 エルロンドは叫んだ。僅かに残ったシルヴァン・エルフ達が
傷ついた顔を向ける。

「我軍が突入する! ここから引くのだ!!」

 ノルドオルの斥候に、シンダアルの屈強な兵達が剣を握りなおす。

「たわけた事をぬかすな! 
貴様らごときに引き下がれると思ってか!」

「王は何処!」

 エルロンドの叫びに、守られていた(一番ひどい傷を負った)
シルヴァン・エルフが進み出た。

「オロフェアは討死にされた!」

 エルロンドは、その男の眼光に貫かれた。
ノルドオルと人間の連合軍の装備に比べ、
なんて粗末な防具しか身に付けていないことか。
それでも、その男の眼光は、光り輝く武具に身を包んだ
連合軍の指導者達と、決して引けは取らなかった。

「我はオロフェアの息子、スランドゥイル! 
今このときより我が我軍の指揮を取る!」

「ではスランドゥイル、道を空けよ!」

 スランドゥイルはエルロンドを睨みつけた。
ノルドオルとシンダアルは、相容れぬ種族であった。
むしろ、オロフェアは彼らの干渉を最も忌み嫌っていた。

 が、スランドゥイルは己の兵達に向き直って叫んだ。

「撤退する!」

 まだ戦える! 王と運命を共にする! 
と、叫びをあげる兵達に、スランドゥイルは一喝した。

「オロフェアは我らの血をここで絶やすことを良しとはせぬ! 
撤退だ!」

 それから、馬上の斥候に向き直る。

「ノルドオルよ、貴様が責任を持って退路を開け!」

「承知した。シンダアルの指揮者よ、我馬へ!」

 エルロンドの目には、スランドゥイルは徒で撤退できるほど
体力が残っているようには見えなかった。
それほどまでに、深い傷を負っていた。

「貴様が指揮を取り、我軍を導くのだ! 我はしんがりを行く!」

 それだけ言って、彼は驚くほどの強靭さで兵を集め始めた。

 

 傷ついた兵達を率いての撤退は、決して楽なものではなかったが、
エルロンドに導かれて、彼らは何とか前線を離れた。

 簡素な野営地を築き、兵達をまとめる。最後にたどり着いた
スランドゥイルを待って、エルロンドはその指揮官に手を差しのべた。

「応急処置だけでも」

 だが、意に反してスランドゥイルはエルロンドの手を払いのけた。

「ノルドオルよ、貴様の導きに感謝しよう。己の軍に戻るがよい」

「その傷では・・・」

「貴様の指揮官が、貴様を必要としている」

 ここは、まだ戦場だ。そして、最後の戦いはまだ始っていない。

 エルロンドは馬に飛乗った。

「また会おう、シンダアルの王よ」

「貴様が討死にせねばな」

 スランドゥイルは、僅かに笑って見せた。

 

 

 

 

 サウロンは亡ぼされた。

 少なくとも、その時点ではそう思われた。

 だがひとつの指輪が残った以上、先見の明のある者達は、
将来に不安を抱えていた。

 

 連合軍は勝利したが、その代償は大きかった。
そして、その傷は深く残った。

 

 エルロンドは裂け谷に落着いていた。ギル=ガラドを失った今、
彼こそが彼らの民の指導者なのである。

 人間の時間に換算すれば、長い時間が過ぎていった。
が、エルフにとってはそれもほんの瞬きの間に過ぎない。

 師を失った悲しみと疲れが癒される頃、
エルロンドは立ち上がった。

 

 供も連れず、霧ふり山脈を越える。
その先に広がる大森林に、彼は足を踏み入れた。

 一人のエルフに会うために。

 

 これだけの短期間に、よくこれだけの王宮が作れたものだと
感心する。エルロンドの館とは絢爛さでは比べようもないが、
そこは確固たる要塞に思えた。

「我らはノルドオルを歓迎いたしません。
どうかお引取り下さい」

 貴族と呼ばれる権限ある者が、敵対心を露にした目色で、
それでも丁寧にエルロンドに申し渡す。

「王に目通りを頼みたいのだが」

「王は誰ともお会いになりません」

 取りつく島もない。さすがにエルロンドはため息をもらした。
致し方のないことか。

「お待ちください」

 奥から出てきた女性が、エルロンドを呼びとめる。

「王はノルドオルのエルロンド殿にお会いになります」

 彼女は、王に仕える侍女であった。それにしても、
線の細い、美しい顔をしている。
今にも崩れそうな儚げな肢体とは別に、芯の強い緑色の瞳をしている。

 彼女は貴族を退け、エルロンドを王宮の奥に導いた。

「王は・・・スランドゥイル殿はお体が悪いのか?」

「仰せのとおりにございます」

 侍女は瞳を伏せた。

 彼女は・・・王を愛しているのだな。エルロンドはそう思った。

「戦争から帰還した後、新たな王となられたスランドゥイル様は
早急に宮殿を作り上げ、傷ついた者たちを慰め、
献身的に働いてこられました。その無理が祟ったのでございましょう。
もう、この一年・・・ずっと眠っておられます」

 戦争で、かなりの深手を負っていた。あの傷を持ちながら、
王としての役割を果してきたのだ。戦争に勝利したとはいえ、
彼らの受けた傷は、連合軍のそれをはるかに上回る。

 兵の三分の二を失ったのだから。

「裂け谷のエルロンド殿は治療の大家とお聞きします。
どうか・・・」

「自惚れるつもりはないが、できる限りのことはしよう。
スランドゥイル殿は私を信じてくれた。その恩は返さねばな」

 侍女は儚く微笑んで見せた。

 

 侍女は、王の部屋の前で別れを告げた。
外にいるので、必要があればいつでも呼んで欲しいと言残して。

 エルロンドはスランドゥイルの横たわるベッドに歩み寄った。

 とても安らかとは言えぬ表情をしている。

 さぞ、辛かったのであろう。

 上掛けを除け、体の傷を調べる。
荒々しくも傷はふさがっていた。もし自分に手当を任されていれば
・・・もっとしっかりと治療を施したのに。そんなことさえ思う。

「スランドゥイル殿」

 耳元で名前を呼んでみるが、指先ひとつ動かさない。

 彼の深い眠りは、深く傷ついた心の恐怖に由縁している。

 エルロンドは、眠り続ける王の額に手を当て、己も目を閉じた。

(何処にいる)

 閉じた心の奥を探る。

(私が見えているのだろう、スランドゥイル。応えよ)

 ぞっとするほどのどろどろした闇に、
不意に手を突っ込んでしまったようで、
エルロンドははじかれたように手を引込めた。

 彼の心の中は、恐怖で満ちている。 

 彼の見た地獄、モルドールへの恐怖。

 その恐怖を心の奥底にしまい込み、
無理に押し殺してきたことの反動で、
今彼はその恐怖に支配されている。

 しかも彼は、この地に留まることを望んでいる。
これだけの恐怖に満たされれば、肉体を離れ、
かの地に住まうことを願うはずなのに・・・
この男は、アマンに安らぎを求めていない。

 エルロンドは、もう一度、そっと、スランドゥイルの額に触れ、
その名を呼んだ。

(迷っているのだな? ミドルアースに存在する
肉体に戻ることを切望しながら、恐怖という泥沼に
足を囚われて戻れないでいる)

「主に光の道を」

 エルロンドはスランドゥイルの唇に手を触れ、唇を重ねた。

 

 絡み付いてくる闇の泥沼に、必死にもがくその男の姿が見える。

「ここだ、スランドゥイル。私をたどって表に出ろ」

 

 唇を離した瞬間、スランドゥイルは目を開けた。

 

「エルロンド殿・・・」

 目を覚ましたスランドゥイルは、上体を起した。

「気付かれたか」

 エルロンドの言葉に、まだ残る闇を振り払うように
スランドゥイルは軽く頭を振った。

 名乗りをあげずともその名を呼んだのは、
心を融合させた僅かな間に、エルロンドの記憶も彼に流れ込んだからだ。

「なぜここに?」

「また会おうと・・・約束したからだ」

 戦場での、不確かな口約束。スランドゥイルは苦笑した。

「・・・かたじけない」

「痛む所はあるか? 治療を施す時間が、今ならあるだろう」

 まるでくだらない冗談を耳にしたように、
スランドゥイルは身を曲げて笑った。エルロンドは、
決して冗談のつもりはなかったのだが。

「もう大丈夫だ。私は帰ってきた」

 まだ心配げな視線を送るエルロンドに、そう言って笑う。

 強い男だ。王と呼ぶに相応しい。

「貴様には、二度、助けられたな」

「助けられたのは私の方だ。
戦場で、おぬしがいなければ私は進路を確保できなかった」

 あくまで、連合軍の斥候として。

「今一度、会いたいと願ったのは私の方で、
おぬしはそれに応えてくれた」

「なぜ会いたいと? シンダアルとの和解のためか?」

「それもあるが・・・なぜだろうな」

 エルロンドの率直な言葉に、
スランドゥイルはただ笑んで見せた。

「私に流れる遠きシンゴルの血が、そうさせるのかもな」

「複雑な血筋を持っているようだ」

「ぬしのように、単純ではない」

 気分を害するふうもなく、スランドゥイルはほくそえむ。
その単純さこそ、彼の求める理想なのだ。
本来エルフのあるべき姿。何ものにも干渉されず、
この地を闊歩する自由。

「ケレボルンの娘を娶ることにした」

「婚姻はめでたいことだが、我らにとっては威圧だな。
我らは孤立することになる」

「和解の方法はある」

「ノルドオルと和解する気はない」

 強情な男だ。羨ましい限りでもある。

「だが、礼はせねばなるまい。今はまだ財宝の蓄えはないが、
望みのものをさし上げよう」

「礼など・・・」

「いいや。借りは作りたくない」

 強情で、誇り高きエルフ。

「望みのものは、なんでも?」

「二言はない」

 エルロンドのもうひとつの血筋、
ノルドオルの荒き征服欲が首をもたげる。

「では・・・ぬしの肉体を・・・」

「貴様の望みは、私の死か」

「そうかもしれぬ。ぬしは差出すか?」

 スランドゥイルは、じっとエルロンドを凝視した。
その意味を探るように。

「わかった。与えよう」

 むしろ、驚いたのはエルロンドの方。
スランドゥイルは冷やかに笑った。

「貴様が救い出してくれたモルドールの恐怖より、
恐ろしいものなど私にはない」

 スランドゥイルは、ひどい傷跡の残る胸を露にした。

 

 それを、罪と呼ぶのだろうか。

 ならば、エルロンドはその業を抱えて生きてゆくことになる。

 この足で、ロリアンに向い、ガラドリエルに会う。
姫を娶るために。

 

 スランドゥイルに会うことは、もうないであろう。

 

 

 

 王の部屋から出てきたエルロンドを、
あの侍女は心配げに待っていた。

「スランドゥイル殿は目覚めた。心配はない」

 壊れそうなほど繊細なその女性は、
輝く笑みをエルロンドに向けた。

「ああ、なんてお礼を申しあげてよいか・・・!」

「礼ならスランドゥイル殿にいただいた。十分すぎるほどに。
しかし、できることなら貴女に王宮の外まで案内していただきたい。
また貴族の方達に足止めされたくないのでね」

 侍女は深く頭を下げ、エルロンドを導いて歩き出した。 

 

 王宮を出る頃、エルロンドの耳にかすかな歌声が届いた。

「スランドゥイル様が、歌っておられます。
私たちは王の歌にどれだけ慰められたことか」

 たしかに、美しい歌声だ。

「王は妻を娶らぬのか?」

「王の胸中に恐怖という闇が渦巻いている間は・・・・」

 エルロンドは、侍女の頬にそっと触れた。

「いつか貴女の心も王に伝わるであろう」

 侍女ははにかんで笑った。

 

 エルロンドは、光り輝く大森林を後にした。

 

 いずれ、和解できるときが来るであろう。

 だがまだ、長き戦いは終ってはいない。

 

 ひとつの指輪が、どこかに眠っているのだから。