ゴンドール

 

 

 

 

 最後の出陣。

 これが、本当に最後の戦いになる。

 しかも、勝算は

 ほとんど、ない。

 

 あくまでも、囮。

 指輪を持つ、小さき戦士のための。

 

 最後の、望み。

 

 

 

 戦士たちは、最後の眠りについていた。

 疲れ果てた戦士たちの、最後の休息。

 

 野営地の外れに、アラゴルンは足を向けた。

 まるで風の囁きのように、優しい歌が漂ってくる。

 風に運ばれる、花の香りのように。

「恋の歌だ。ベレンとルシアンの」

 全ての戦士に子守唄を歌う、
エルフのもとにアラゴルンは足を止めた。

 レゴラスは、口ずさむ歌をやめた。
振り返りもせず、夜空を見上げる。

「眠った方がいい、アラゴルン」

 エルフはそう呟いた。

「お前はどうなのだ?」

「これが僕の休息の取り方だよ。知っているだろう?」

 静かに歌を歌うこと。心の安らぎ。

 アラゴルンは、レゴラスの隣に腰をおろした。

「・・・静かな夜だ」

 遠い昔を思い出す。一度だけ、
たった一度だけ、二人だけで森を歩いたことがあった。

 こんな、静かな夜だった。

「スメアゴルの件で、僕が裂け谷に使わされたとき、
この旅を父は予想していなかった。
もし、僕が旅の仲間になることを知っていたら、
父は鎖につないでも僕を引きとめただろう」

 優しい声色で語る。

「3000年もの昔の戦いの傷は、父の胸に深く刻まれている。
あまりに多くの同胞の死、魔王サウロンの恐怖。
その同じ道を歩くことを、父は望まない」

「怖いか?」

「怖くはないよ」

 レゴラスはアラゴルンに顔を向け、僅かに微笑を見せた。

「むしろ僕は、恐怖を打ち亡ぼして、
再び父の胸に平穏を戻してあげたい」

「スランドゥイルのための旅か」

 曖昧な笑みのまま、レゴラスは視線を外した。

「アラゴルン、あなたは怖いの?」

 今度はアラゴルンが苦笑をもらした。

「不思議と・・・恐怖は感じないんだ。
なぜかな。興奮は感じるが」

 長き旅の終り。それだけが確かな事実。
それがたとえ、死であろうと。
受容れられると感じるのは、何故だろう? 
今までの旅が、あまりに長く、辛かったからか。

「本当はね」

 膝を抱えるレゴラスの細い指が、宙を漂う。

「・・・怖いよ」

 アラゴルンは、所在無いレゴラスの指に触れ、
慈しみを込めて握った。指を絡める、
そんな僅かな温もりを求めて。

「父の見た恐怖じゃない。僕が怖いのは
・・・・これで全てが終ってしまうこと」

 振り向いたレゴラスの瞳が、まるで澄んだ湖のように揺らめく。
そこにあるのは、エルロンドのような叡智のきらめきではなく、
大地の慈悲。戦うことより、歌うことを好む、
シンダールエルフの血筋。

「この戦いが終ったら、僕はあなたのそばにいる意味を失う。
もう、王を守る必要がなくなるもの。
そしてあなたの隣には、未来を紡ぐ妃」

「レゴラス」

「たとえあなたと二人きりでも、
僕はモルドールに向うことができる。
ルシアンが、ベレンに付従ったようにね。
でも全てが終ったら、あなたが選ぶのは僕じゃない」

 ベレンとルシアンの哀しい恋の歌。

 哀しい? 本当に?

 二人は幸せではなかったか?

 共に戦い、共に苦しみ、・・・・そして結ばれ、共に死した。

 それは、幸福ではないのか?

「うそだよ」

 そう言って、レゴラスは笑んだ。

「恋の歌を歌ってみただけ」

 その哀しげな笑みに、
アラゴルンはレゴラスの指先に唇を押し当てた。

「最後の嘘に、俺も付きあおう。・・・愛している。
選ばなかったんじゃない。選べなかったんだ。
王という約束された人生を、選べなかったように」

 全てを捨てることなど、できなかった。
ベレンが、全てを捨ててルシアンと永遠に森を歩くことが
できなかったように。足はおのずと、苦難の方向に向く。

 たとえ、勝算はなくとも。

 たとえ、心の破滅がわかっていても。

 

 最初の出会いは、偶然じゃない。

 アラゴルンは裂け谷で保護されていたし、
レゴラスはスランドゥイルの使者として何度も谷を訪れていた。

 それでも、あの時・・・。

 アルウェンとの婚姻の約束を果すため、
裂け谷を出て果てしない一人旅に赴いたとき

 

 偶然、再会してしまった。

 

 緑なす森で。

 彼の歌声に、囚われてしまった。

 なんの束縛もなく、誰の目もなく、偶然出会った森で、

 

 恋に落ちた。

 

 あの日、一日・・・たった一日・・・・。

 アラゴルンは、王という束縛から解放たれ、

 レゴラスは、森を逍遥する名もないエルフだった。

 

 あの時

 

 心の赴くままに、愛し合ってしまった。

 

 たった、一日。

 

 森のエルフが、また恋の歌を歌う。

 どれほど胸を焦しても、エルフは人間と同じ死は選べない。

 その選択肢を持つのは、運命られた者だけ。

 人間と結ばれることを、運命られた妃だけ。

 

「レゴラス、人の王として命令しよう。
運命に携ったエルフの宿命として、
・・・ゴンドールの再建に最後まで手を貸せ。
統一王国の再建には、人間以外の手も必要だ。
ドワーフと、エルフのだ。俺が死ぬまで、
海を渡ることは許さん」

「横暴だね。エルフの妻を持つのに」

「彼女には彼女の役割がある。共に戦うことができぬように」

「モルドールで、僕が死んだら?」

「死なせはしない。俺より先には」

 くすくすとレゴラスは笑い、
そっとアラゴルンの指を振りほどいた。

「酷い人だ」

 他に、何ができる? どんな望みがある?

「俺は、お前の姿を見て、死ぬまで心を痛める。
これが、俺に与えられた罰だ」

「僕は、あなたを見て心を痛めたりはしないよ」

「薄情な奴だ」

 アラゴルンも、同じ笑みを見せた。

 

 ベレンとルシアンの恋の歌。

 苦難の末に結ばれる、哀しい恋の歌。

 

 永遠に結ばれることのない者には、
切ないほどに、羨ましい。

「最後の嘘だよ、エステル。生きて帰ってきたら、
もう一度抱いてくれる?」

「言ったはずだ、死なせはしないと。
生きて帰って、もう一度お前の胸で眠ろう」

 

 哀しい恋の歌。

 虚空の約束。

 

 許されない、愛。

 

 誰にも歌われない、

 嘘の愛の歌。