「谷の外は、嵐が近づいてきているのかしら?」

 午後のやわらかい陽が差込むポーチ。アラゴルンは、読んでいた本から顔を上げた。

「・・・アルウェン・・・?」

 美しい黒髪の女性が、微笑みながらゆっくりと近づいてくる。

「珍しいお客様の到着よ」

 アラゴルンの本を閉じさせ、白く細い指で彼を立たせる。
見下ろすと、白い馬に乗った金髪のエルフが、谷の門をくぐってやってきた。
谷のエルフたちが出迎え、その来訪者の馬を預り、
来訪者は出迎えに階段を下りてきた館主に挨拶をしていた。

「それとも、この谷で逢引き?」

 闇の森からの使者から視線を外し、アラゴルンはアルウェンを見た。
唇にうっすらと微笑を浮べて。

「ガンダルフが闇の森に行くと言っていた。彼の指しがねだろう」

「では、嵐の予兆なのね?」

 彼女の細い指に、自分の無骨な指をからめ、ゆっくりと首を横に振る。

「いいや、・・・・嵐の予兆を、探しているんだ」

 滑らかな動作で近づき、そっと額を寄せる。
アルウェンは、今起っていることの全てを知らされてはいない。
不安を掻き立てないための、父親エルロンドの配慮だろう。
だが、彼女は聡明な女性だ。直接伝えられなくてもわかっている。

「闇の森の王子を出迎えに」

 アルウェンが軽く促すと、アラゴルンは微笑みで否定して見せた。

「ガンダルフがスランドゥイル王に伝え、その使者がこの谷に来る、
その理由はわかっている。夕食まで、もう少しここで本を読んでいよう」

 優しく微笑みながら、アルウェンは絡めた指を解いた。

「では、私は行ってくるわね。夕食の席で会いましょう、アラゴルン」

 

 

 

 現在の世界の状況、そしてお互いの立場の確認。
闇の森の使者を交えての会議は、そう長くはなかった。
とり急いで話しあうべき議題でもない。
簡単な顔あわせだけで、レゴラスは退席を許され、ひとり中庭で風にあたった。
心地よい谷の風は、旅の疲れを癒してくれる。

 小鳥が数羽、レゴラスの周りを飛びかい、さえずった。
まるで小鳥と会話をするように、レゴラスも小さな観客に歌声を披露する。

 裂け谷では目にすることのない光景。

「レゴラス」

 静かなその声に、小鳥たちはさえずるのを止め、声の主を見つめた。
振向いたレゴラスが、にっこりと笑ってみせる。

「エステルも帰ってきているわ。もう会った?」

「いいえ」

 レゴラスが歌うのを止めたので、小鳥たちは高い梢に帰っていった。

「ガンダルフが・・・・アラゴルンは今しばしの休養を取っていると。
僕はてっきりロリアンに行っているのかと思っていましたよ。あなたのいるロリアンに」

「お父様が私を裂け谷に呼び寄せたの。嵐が過ぎ去り、再び青い空が望めるまで、
私は谷にいるわ」

「それでアラゴルンも谷に?」

 アルウェンは、微笑んで見せた。

「夕食まで時間があるわ。ねえ、レゴラス、私につきあってくれないかしら?」

 何のことかと小首を傾げる。そんなレゴラスの手をひっぱって、
アルウェンは自分の部屋に向った。

 

 

 

 レゴラスを部屋の中央に座らせ、アルウェンは流れるような動きで部屋の中を歩き回る。

「あなたがうらやましいわ、レゴラス。ひとりで自由に飛びまわれるもの」

 手にした白いショールを、レゴラスの肩にかける。

「そうですか?」

「ええ。私はだめ。ぞろぞろと付人を従えて、ロリアンと裂け谷を往復するだけ。
今は自由に谷を出ることもできないの。何もかも、お父様の許可が必要で、
お父様は許可してくださらないわ」

「エルロンド卿は、貴女を心配しておられるのです」

「そうね。お母様のことがあるから・・・・。でもね、私は人形ではないわ。
ガラドリエルの知恵を受け継いでいるのよ」

 座るレゴラスに視線をあわせ、いたずらっぽく笑って見せる。レゴラスは口元をつり上げた。

「今、何もできない自分が、口惜しいわ。
私もあなたの様に、自分の愛する国の為に飛びまわりたい。
・・・・いいえ、無理なのはわかってる。でも、心が痛むのよ。
どうしたらお兄様たちの憎しみを、和らげてあげることができるのか。
どうしたらお父様の心労を癒してあげられるのか」

「わかります。僕も、父の・・・スランドゥイルの心の闇に少しでも光を与えられるのならと」

 アルウェンの微笑みは、慈愛に満ちている。

「そして、エステルの孤独」

「あなたの愛が、彼を救うでしょう」

 レゴラスの言葉に、瞳を伏せる。

「本当に、そうかしら。会うたびにやつれていくエステルを見るのは、辛い。
私との約束がなければ・・・・いいえ、私になど会わなければ、彼はもっと自由になれたはず」

 レゴラスは目を細めてアルウェンを見つめる。視線の先で、アルウェンは吐息を漏らした。

「せめて、もっとずっと一緒にいられたら・・・・そう願ってしまうのは、
女のわがままかしら?」

「僕は、愛がどういうものか知りません。でもきっと、それが愛なのだと思います」

 真顔で言うレゴラスに、アルウェンは小さく笑った。

「愛している人は、いないの?」

 躊躇なくレゴラスは頷く。

 

 自覚がないのね?

 

 アルウェンは苦笑し、器用にレゴラスの髪の編みこみを解いていく。

「私は、あなたが好き。レゴラス。内緒話もできるわ。
本当よ、あなた以外の人には許せないことでも、あなたは許せてしまうの。
どうしてかしら? ・・・ああ、綺麗だわ」

 小指につけた薄紅を、レゴラスの唇にそっと乗せ、アルウェンは微笑んで立ちあがった。

「もったいないわ、いつも旅装束ばかりでは。きっと驚くわよ、みんな」

 過ぎた悪ふざけだとは思う。それでもレゴラスは嫌な顔一つせず、
アルウェンにされるがままになっている。

 

 きっと、あなたはエステルの前でもそうなのね?

 

「・・・・僕も、貴女が好きです」

「うれしいわ」

 許してしまうことが、彼の愛情表現なのだ。アルウェンにはわかっていた。
心を許さない人の前では、頑なな表情を見せる。たとえば、ノルドの顧問たち。
尊敬しているエルロンドには口ごたえをしないが、そうではない者には、
厳しい視線を向けることを、アルウェンは知っていた。

 ある意味、とてもわかりやすい。それは、彼の若さゆえなのか、シルヴァンの血か。

 なのに、自分では自覚をしていない。

 

 それを利用している。私も。エステルも・・・。

 

 だって、こんなに愛しいのですもの。闇の森の緑の葉。

「さあ、夕食の席に行きましょう」

「本当に、この姿で?」

 アルウェンはクスクス笑いながら、レゴラスの手を引いた。